惑星間不定期通信

小説を書いています。本や映画の感想やその他なども書きます。

メキシコ旅行記 二十日目「クラシック・プロブレム」

 金曜日。先に言っておくと、驚くほど何もしていない日だった。

 薬を飲んだら差し込む痛みはなくなったが小さな痛みがずっと続いている。カフェにてココアを飲むが、飲んでいたらまたあの痛みが復活する。薬局にて不味い栄養ドリンクを買って研究所へ。

 仕事をしたのは最初の30分だけであとはずっと隅っこでぐったりしていた。久しぶりに顔を出したハビエロに病状を伝えると「そいつはメキシコのクラシカルなプロブレムだ」などと言う。なんだよクラシカルて。風土病ってことなのか?

 昼食は食べずにいたらだんだんと体調が回復してきたので夕飯はコンソメスープ。前に別の店でコンソメスープを頼んだ時もそうだったのだけれど、中に米が入っている。この国のコンソメスープは米が入っているのがデフォルトなのかもしれない。病身にはちょうどいいお粥もどきだった。ホテルに帰って料理動画をみて腹を減らした後に就寝。 

メキシコ旅行記 十九日目「そしてぼくらはアミーゴとなった」

 木曜日。部屋のトイレットペーパーがなくなってしまったので朝から部屋の外のトイレを使う。

 いつものカフェに行くが紅茶だけ飲む。僕が具合悪そうにしていたからか、なんと無料だった。チップを多めにはずんでおいた。

 研究所に行き、朝一で所内のメディカルスタッフに見てもらう。エルネストが同行してくれて、英語で通訳してくれたからなんとかなった。スペイン語がまったく話せなかったら医者に見てもらうのも難しいだろう。

 薬を処方してもらい、エルネストの車に乗ってチョルーラに戻り薬局へ行った。道中エルネストと個人的な話をし、前よりも打ち解けることができた。

「アミーゴというスペイン語はわかるか」とエルネストは僕に尋ねた。

 僕は、わかると思う、と答えた。

「俺とお前はアミーゴだ。困ったことがあったら相談してくれ」

 僕は頷いた。

 四種類の薬で千円くらいだった。保険が利いていないのにこの値段は安い。やたらと大きな錠剤はとても怪しげな雰囲気だが。エルネストが丁寧に薬の飲み方を教えてくれた。

 薬を飲んだら突き刺されるような急激な胃の痛みはなくなった。薬とともに処方された謎のミネラルウォーターは、甘いし、辛いし、なんだかよくわからない不思議な味である。昼食は食べず。ほとんど隅っこでぐったり眠っていた。

 メキシコ自治大学から学部生たちが来た。例のごとく全員太っている。女の子も居たが、エルネストと挨拶のキスをしていた。

 恋人なのか? それともマウストゥマウスのフレンチキスなのか? それをエルネストに尋ねる勇気はなかった。やはりまだ僕たちは本当のアミーゴにはなれていないのかもしれない。

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エルネスト(左)と筆者(右)。後ろはオリンピック会場にもなったサッカースタジアム。

 夕食は大勢で食べに行くようだったが僕はホテルに戻る。下痢は出なくなったので昨日買ったお菓子を食べたが、また差し込むような痛みが復活する。

 風呂に入ってさっさと寝よう。あと一週間、がんばろう。

メキシコ旅行記 十八日目「腹痛、そのはじまり」

 水曜日。昨晩の過食のせいか腹が痛い。胃痛と下痢が襲う。食欲があるのがむしろ辛い。とはいえ、このあとのことを考えると、朝の時点での胃痛は大したものではなかった。

 朝はいつものカフェにてヨーグルトとフルーツをパフェにしたようなものを食べる。

 研究所に行くとメキシコ自治大学のスタッフが来ていた。

 午前中から何度もトイレに行ったが、その途中でラブラドールレトリバーに少し他の犬種が混ざったような犬に懐かれた。やたら僕の足にまとわりつき、靴を甘噛みしてくる。行動範囲が決められているのか、ある場所を境についてこなくなる。飼い犬かどうかはわからない。

 アレハンドロがコンビニに行き、缶に「緑茶」と漢字で書かれたお茶を買ってきたのだが砂糖入りだった。日本の緑茶ではない。午後の紅茶のような味がした。

 腹痛が酷くてあまり仕事ができずぐったりしていた。昼食は控えようと思ったが食欲はあるのでいちおう食べる。豚バラ肉のトマト煮だが、パイナップルが入っており肉が柔らかくなっており味も甘みがあって美味しい。あとクリームパイとコンソメスープを食べる。コンソメスープに安心感を覚えるようになってしまった。

「マゲイとアガベの違いは知っているか」

 研究所の敷地に生えているサボテンを指差し、エルネストが僕に尋ねた。

「どちらも似たような外見だが、マゲイは緑で、アガベは青色なんだ」

 帰りにはエルネストが車で送ってくれたが、途中で生えているマゲイとアガベを実際に見せてくれた。ついでにトウモロコシ畑について、それがトルティーヤになる過程について説明してくれた。

 コンビニにて夜食用に菓子パンとお菓子を買っておくが、ホテルに帰ると腹痛がひどくなりとても食べられる状況ではなくなってしまった。腹がズキズキと痛み、横になるとひどく痛む。

 僕はこれまで牡蠣に当たったことも、サルモネラ菌で食中毒になったことも生レバーに当たったこともあるが(こうして書き出してみると腹を壊しすぎである。胃腸が弱いくせに食あたりになりそうなものばかり食べている)、そのいずれとも違う痛みだ。まるで槍で突き刺されているかのような、もっと物理的な痛みだった。『白鯨』に出てくる勇敢な銛打ちクイークェグがナガス鯨に突き刺すような、古代マケドニア軍がファランクスの長槍で突撃してくるような、具体性に満ちた明確な痛みである。

 あまりの痛さに横になっていられなくなり、痙攣するように痛みに合わせて上半身を起き上がらせてしまう。空腹になってからさらに下痢が酷い。断続的な睡眠の合間にベッドとトイレを往復する。部屋に備え付けられていたトイレットペーパー二本を使い切ってしまった。

 食べ過ぎではこうならないだろう。昨日のステーキが良くなかったのだろうか。これはとうとう医者に行かなければいけないだろう。

 痛みのせいで一睡も出来なかった。

メキシコ旅行記 十七日目「ご飯の話しか無い」

 火曜日。七時の目覚ましに対し、六時五十五分に起床。どういう仕組みで眠りながら現在時刻を把握しているのだろう? カフェに行く際に広場を横切ると、大きなアーケードが出来ていた。なにか祭りがあるのだろうか。祭りのようなものは毎晩やっているが。

 いつものカフェにて鶏ささみをチリソースで味付けしたものと謎の野菜を卵でとじたものを食す。唐辛子のピクルスが入っていたので齧ってみたら恐ろしく辛かった。こちらに来てから最も辛い。辛過ぎて涙すら出た。油断していた。メキシコに行ったら唐辛子の形をしたものは口に入れない方が身のためである。

 バスに乗り研究所へ。天気が良く遠景を見通すことができ、ポポカテペ火山が煙を上げるのが見えた。

 昼食は食堂にてポブラーノソースのかかったタコス(中身は鶏ささみ)とパスタ、デザートはビスケットにレモンシャーベットとチーズクリームが挟まっているもの。
 食堂の入り口で「日本人? 中国人?」と訊かれる。ついにきたか、となぜか嬉しくなる。日本人と答えると、なぜかよろしくと言われたのでありがとうと言っておいた。サッカーで負けたからだろうか。

 夕食は広場の奥のステーキ屋にて、牛肉、サボテン、タマネギ、ソーセージなどをトマトソースとチリソースで陶器の鍋で煮込んだものを食す。非常に美味しい。しかし辛い。かなりの量があり食べ過ぎてしまった。一日の食事の中で一度も過食にならずに済む日が無い。辛かったのでビール(ビクトリア)を二本飲む。この店に来るのは二度目だけれど、何を食べてもはずれは無いので安心だ。

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メキシコで撮った唯一の食事の写真。よほど美味しかったのだろう、しかしこの料理が後日になってとんでもない事態を引き起こす。

 ミュージシャンの質も良く(他と比べれば)、ギターボーカル、ベース、パーカッションの三人バンドでの演奏。最初はメキシコ音楽をやっていたのだが、レパートリーが尽きたのか、ベースがスタンドバイミーのリフを弾き始めた。

 だが、二番から歌詞がわからなくなったのか適当な英単語を適当なメロディで歌いだし「ビューティフルガール~スイサ~イド」などと歌い出した。Art-Schoolが選びそうな英単語である。正直に言ってかなり衝撃的だった。これがメキシカンミュージックなのだろうか。

 食事中に雷雨になったが、食べ終わる頃には止んでいた。完全に食べ過ぎたので申し訳程度の筋トレをして就寝。

メキシコ旅行記 十六日目「語学力の必要性」

 月曜日。昨晩早く寝たおかげで六時半に起床。やたら寒く震えながら朝食へ。いつものカフェにてフリッターを食べる。味付けがあまりないのでサルサをかける。この国の料理はサルサ以外のときはあまり味付けに工夫がないのではないかと思う。バスに乗り研究所へ。

 午前中、腹が痛くなったので実験装置がある建物とは別の離れた場所のトイレまで行った際(ホセに半ケツを見られてから、僕は一番近くのトイレを避けていた)、久しぶりにハビエロに遭遇した。

 ハビエロは学生ではなくポスドクなので、他にも研究テーマを抱えているらしくエルネストたちに比べると僕たちのいる研究施設に顔を出すことは少ない。

 彼の英語はスピードが早く、七割くらいしか聞き取れない。さらに彼はとてもおしゃべりなので会話についていけなくなることが多い。プエブラはどうだったか、と訊かれたので綺麗な街だったと答える。他にも何か言われたが、あまりよくわからなかった。とりあえずまたあとで僕らの研究施設の方に顔を出す、と言っていた。

 昼飯は食堂でつくねハンバーグとパンケーキ、スープと温野菜を食べる。やけにヘルシーで薄味である。めちゃくちゃに辛かったりサルサソースをこれでもかと掛けたり朝からステーキを食べたかと思えば、こんな薄味の料理を出されることもある。極端な国である。

 昼食を終えて仕事をしていると、約束通りハビエロが顔を出した。

 一通り事務連絡をすると「もう飯は食べたか?」とハビエロは僕達に訪ねた。
「もう食べたよ」と僕らは答える。
「もう食べちゃったの?」ハビエロは心底驚いた顔をした。「本当にもう食べちゃったのか?」ハビエロは繰り返し尋ねる。

 もしかしたら午前に会ったときに、一緒に飯を食おうと言っていたのかもしれない。ランチという単語は言っていなかったと思うが……。申し訳ないことをしてしまった。日本に帰ったら真面目に英語のリスニングの勉強をしなければならないと痛感した。

 五時頃に作業を終えて管理人に施錠を頼む。彼は実験施設の隣の建物に駐在しており、鍵の開け閉めをする際は彼に頼まなければいけないルールになっている。管理人は恰幅が良く(メキシコの成人男性はほぼ皆恰幅が良いのだけれど)、人の良さそうなおじさんである。

 施錠をお願いすると彼は快く引き受けてくれた。

「なあ、日本のポストカードとキーホルダーをくれないか」

 管理人のおじさんは言った。

 どうやら、11月に日本から研究スタッフがまた来る予定なのでそのときに渡してくれということらしい。いきなり頼まれたので驚く。しかもなぜキーホルダー。

 夕食は広場沿いの店で魚料理を食べる。てりやきソースのかかった白身魚で、味はそれなりに美味い。魚に照り焼きソースをかけるのは日本人にとってあまり慣れないかもしれないが魚自体は柔らかく味も良い。イメージ的にはカレイの煮付けに近いかもしれない。

 隣の店ではまた素人ミュージシャンがカラオケで歌っていた。ホワイトストライプスやレディオ・ヘッドをスペイン語(なのかどうかさえよくわからない不明瞭な発音)で歌っていたが、これがまた酷いアレンジだった。どうして彼らは自分の国の音楽を歌わないんだろう? とはいえ食事の時にあのメキシコ歌謡を聞かされたらまた滅入ってしまうけれど。

 ホテルに戻る前に即席遊園地を少し見る。賑わっている様子がないので儲ってないだろう。ホテルに戻り、風呂に入って洗濯し、「孤独の発明」を読了して就寝した。

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街にやってきた移動式の遊園地。子どもたちが遊んでいる風景はほとんど見かけなかった。

メキシコ旅行記 十五日目「日曜日、雨の日の遊園地」

 日曜日。昨日冒険したせいか八時に起床。

 朝食はいつものカフェにてアボガドソースとシーザーソースでトルティーヤを浸したものとメヒカナー入りの卵を食べる。このトルティーヤ浸しがかなりの量で、普通の円形のトルティーヤ三枚分はあった。カロリーもさることながら、ふやけたトルティーヤは物理的に量が多かった。

 腹が膨れたのですぐにホテルに帰らず散歩をすることにした。広場に行くと人々が音楽に合わせて体操をしていた。日本でいうラジオ体操のようなものだろうか、と思ったがかなり激しい動きで体操というよりはダンスである。広場の近くには屋台の店が広がり、土産物やジャンクフードが売られていた。バナナの葉で包んだ蒸しパンや細長いスイートポテトが売られていて、その周りを大きな蠅が飛び交っていた。日曜日だからか、街には物乞いが多く見られた。

 広場で小さな子どもがプラスチックのヘリコプターのおもちゃを飛ばして遊んでいた。それは僕が幼い頃に持っていたおもちゃと同じものだったので懐かしくなる。今読んでいるポール・オースターの『孤独の発明』は自分の人生のルーツを辿る話であり、それを読んでいるせいか自分の過去と現在の風景を重ねてしまう。なんとなくセンチメンタルな気持ちになりながらホテルに帰る。

 ホテルに帰って洗濯をしなければならないなあと思いながらついついネットサーフィン(死語)をしていると、部屋をノックする音が聞こえた。

 きっと毎日来る掃除係のおばちゃんだろうと思ってドアを開けると、若い女の子が立っていた。おそらくまだティーンエイジャーで、メキシコ人として珍しく痩せた女の子だった。エキゾチックな浅黒い顔立ちをした彼女は大きな瞳で僕を見つめていた。

「部屋の掃除に来ました」と彼女は英語で言った。

 僕は正直かなりうろたえてしまった。

 部屋には散らかったベッドと干しっぱなしの下着があり、トイレにはトイレットペーパーが溢れたゴミ箱があった。彼女にそれらを見られ、片付けられるのはとても恥ずかしかった。彼女としてはあくまでも職務を全うするだけなのだが、若い女の子が自分の部屋の掃除をするというシチュエーションを考えるとなんだか体がむず痒い。意味もなくMacBookのターミナルを開き、プログラミングをしているような風を装ったりした。彼女は僕の方など全く意に介さずプロフェッショナルの手際で二十分ほどで部屋を片付け去っていった。

 天気が良かったので窓を開け放ち『孤独の発明』の続きを読んだ。昼になったのでドミノ・ピザに行きピザを食べた。日本で食べると二千円くらいするものだが、ドリンクとセットで六百円ほどで食べられる。メキシコ風ではない味付けは久々だったので嬉しい。

 

 ピザとコーラという肥満まっしぐらの食事をしてしまったのでホテルには帰らず、近くのショッピングモールに行くことにした。昨日プエブラに向かうバスの車窓から、大きなショッピングモールが見えたので気になったのだ。

 ショッピングモールへ行くにはまずは国道に出なくてはならない。国道は3車線ずつくらいは幅があったが、信号のシステムがわからず無理矢理横断した。かなり怖い。

 大通りは治安が良いだろうとは思うが、それでも緊張しながら歩く。ストリート沿いは車の修理屋が多い。巨大なモーテルが点在したがラブホテルなのかもしれない。アメリカンニューシネマに出てくるような郊外のモーテルといった感じである。二十分ほど歩いてショッピングモールに着いた。

 外見は日本のものよりも大きいが、中に入ると道幅が広いだけでテナントの数は少なく少し寂れた雰囲気が漂っていた。巨大なホームセンターとフードコート、いくつかのテナントショップが入っており二階には映画館があった。本屋やCDショップは無いようだ。日曜日だからだろうか家族連れが多い。入り口の近くにはゲームショップがあったが新品のプレステ3の値段は日本と変わらなかった。

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ショッピングモールといえばゾンビということで(違う)、バイオハザードが上映されていた。(バイオハザードは欧米ではResident Evilなのですね。)

 その他のショップを見てみたが日用雑貨は安いが、電化製品の類いは先進国と同じくらいの値段だ。それだけ貧富の差が激しいということなのかもしれない。

 フードコートを覗いてみるとSUSHIと書かれた看板があり、店名が「tanuki」だった。たぬきって。

 ホームセンターの方を覗いてみたが、規模はかなり大きかった。敷地の面積は日本と変わらないくらいだけれど、天井がやたら高く、ビルの三階くらいの高さまで棚がある。どうやって棚の上の商品を下ろすのだろうか。本が申し訳程度に売られていて、美術書が百ペソだったので買おうと思って、レジに持っていくとレジ係のおばちゃんがなにやらスペイン語でまくしたててきた。キャッシュで払うと言っているのに何かを言ってくる。わからない、というジェスチャーをしたらうんざりした顔でもういいよというような意味の言葉を言った。とりあえず謝っておく。システムが全くわからないと買い物も困難だ。悔しさを感じながらショッピングモールを後にした。

 歩きながら、塀の上部に割れた瓶の破片がコンクリートで固められているのを見た。どの家もフェンスの上は有刺鉄線になっていて、通りに面した窓やドアは鉄格子が嵌め込まれている。ああ、本当にここは安全な場所ではないのだなと思う。

 ホテルに帰り読書の続きをする。夕方から強く雨が振り出し窓を閉めた。気付かないうちに雨漏りがしていたのか、床に水たまりが出来ていた。どこから漏れたのかさっぱり分からない。こんなことで動揺していてはメキシコでは生きていけない。気にせず読書することにする。

 夕食を食べに外に出たら、広場に移動式遊園地が来ていた。即席のものだが、かなりちゃんとした遊園地でメリーゴーランドやジェットコースターなんかもある。東山動物園の遊園地よりもマシなくらいだ。子どものころ東山動物園の乗り物に乗った際、安全バーが緩すぎて危うく空中に投げ出されそうになったことがある。

 遊園地は日曜日に合わせて開園したみたいだったけれど、あいにくの雨で客はほとんどいなかった。びしょ濡れの遊具たちが寂しそうに電飾を光らせていた。

メキシコ旅行記 十四日目「ピラミッドの街、ふたたび」

 土曜日。休日である。

 昨日、エルネストにプエブラ行きのバスがどれなのか教えてもらっていた。先週乗って途中で降りたバスは実は間違っていなかったらしく、経由する道が違うだけで最終的にはプエブラに辿り着くのだということらしい。

 ということなので朝食の後にすぐバスに乗り込んだ。現在地を見失わないように地図から目を離さないようにしていたのだが、プエブラの中心街から2キロくらい離れた場所で終点だということで降ろされてしまった。

 街の中心を目指すまでの道のりで街の巨大さを実感する。チョルーラの街とは比較にならないほど栄えている。飲食店や市場だけでなく本屋などの文化的な店も多い。2軒ほど書店に入ってみたが、必ず店員に挨拶された。怪しまれているのだろうか。スティーブンキングのスペイン語訳が平積みになっているほか、南米らしくバルガス・リョサボルヘスの著作も見かけた。村上春樹は置かれていなかった。

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プエブラの中心から少し外れた国道沿い。中心から離れていてもチョルーラよりは都会である。

 プエブラは街全体が世界遺産に指定されているほど歴史が古く美しい街並みである。南米らしいのっぺりとしたパステルカラーの建物と、ヨーロッパ風の緻密な装飾が凝らされた建物が共存している。プエブラはメキシコ先住民族の生活圏をスペインが征服したのではなく、スペインが一から入植したものであり、秩序だった都市計画を基に造られている。通りが碁盤の目のようになっていることや都市の成り立ちなんかは京都のイメージに近いものがある。

 まず街を歩く人の多さに驚く。街の人口だけでなく観光客の数も相当である。地球の歩き方を抱えた日本人観光客をメキシコに来てから初めて見かけた。

 土産物屋が並ぶ歩行者天国を歩くと、物乞いが多いことに気付く。彼らは四肢のいずれかが欠損していており、それでも器用に楽器を演奏して身銭を稼ぐものもいれば、単純に道端で拝みながら寄付を募っている。チョルーラにも物乞いを見かけたけど、プエブラの街ではその数が圧倒的に多い。海外ではそういった物乞いというのは珍しくはないけれど、初めて見たときにはぎょっとしてしまった。彼らは僕に憐憫や同情ではなく、あるいは嫌悪でもなくて、罪悪感に似たものを想起させる。理由は分からないが、僕は彼らを見ると足早にその場を去りたくなるのだ。たぶんそういった現実は日本では目に入らないように覆われていて、僕自身も目を背けてきたからなのかもしれない。受け入れがたい現実というのは直視しがたいものなのだ、何事も。

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プエブラの中心街。ヨーロッパの町並みに近い。

 チョルーラの街にも教会が多いが、プエブラもあちらこちらに教会が散在している。日本でいうコンビニと同じくらい多い。休みだからか結婚式が執り行われているところもあり、ウェディングドレスを着た花嫁や楽器を抱えた少年隊をよく見かけた。入場するのに記帳を求められるところがあったので、職業欄にscientistと記載しておいた。嘘ではないはずである。

 

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街の中央に聳えるカテドラル。

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街の教会では結婚式が執り行われていた。新郎も新婦もかなりたくましい体型をしている。

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サント・ドミンゴ教会の金装飾。もっといいカメラで撮りたかった。

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砂糖菓子の家(左)。可愛らしいタイルの壁が特徴的。

 ガイドブックにも載っているようなサントドミンゴ教会やカテドラル、砂糖菓子の家といった場所を観光した。どれも日本では見られないようなものを見ることができたので良かったのだが、特に面白かったのは革命家セルダンの家だ。

  アキレス・セルダンは二十世紀初頭に起こったメキシコ革命で活動した革命家である。

 そもそもメキシコ革命とはどういうものか。革命と言っても十年以上続く長い戦いの中で、政権の交代があり複数の権力者たちが立ち現れては消えていくので複雑である。そのなかでもアキレス・セルダンは革命の初期に現れた人物だ。

 一九世紀後半にフランスの侵略を撃退し大統領の座についたポルフィリオ・ディアスはメキシコの近代化を行い、それに成功した。ディアスは外国資本を無原則に誘致し、それにより交通と通信のインフラを整えた。この時代、植民地への投資が世界的な経済トレンドとなっており、特にアメリカによる投資が大きかった。

 確かにメキシコ国は豊かになったが、それは国外の資本によるものであり、自国の資源を別の国に切り売りしていることにもなる。一部の資本家を除いて国内の労働者は次第に貧しくなり、貧富の差が拡大していった。

 そして、1907年、世界恐慌が起こる。アメリカで起こった金融危機は、アメリカの資本で成り立っているメキシコ経済にも大きなダメージを与えた。ディアス大統領に対する不満は頂点に達し、農園領主の中から対抗しようとする勢力が現れた。そして大統領選挙に出馬したのがフランシスコ・マデーロである。マデーロに同調してメキシコ各地で反乱が起こる。そしてプエブラ武装蜂起を起こしたのがアキレス・セルダンである。

 セルダンの蜂起は即座に鎮圧された。セルダンは自宅に突入してきた警官隊によって射殺された。その家が当時のままに保存され、残っている。

 当時のまま、というのは警官隊が突入してきたそのときのままなのだ。家自体はこじんまりとした昔の集合住宅であり、「ローマの休日」でグレゴリー・ペックが住んでいた家のような、小さな階段を上った二階の部屋がセルダンの部屋である。壁に無数の銃痕が残り、壁に掛けられた大きな鏡は生々しく割れたままになっている。このように歴史の傷跡が残っている場所を見ることができたのは面白かった。メキシコ人たちがこの革命の歴史を大切に保存しているということは、彼らにとって大きな意味を持つ歴史なのだろう。だが地球の裏側の僕たちは、この国の革命なんてこれっぽっちも知らないのだ。

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銃痕の残る鏡。

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グレゴリー・ペックが住んでいたマンションのような階段。

 帰りもまたバスに乗って帰る。いちおう地球の歩き方にはバスターミナルの場所が書いてあるのだが、書かれた場所に行ってもそれらしいターミナルはない。走っていくバスたちを辿って路地を曲がると、田舎のコンビニの駐車場くらいの規模のターミナルがあった。コンビニの駐車場かと思うくらい何もないただの空き地である。ストリートの番号をあらかじめ知っていたからなんとかたどり着けたが、知らなかったら探し出せないだろう。

 ターミナルに着いても行き先案内表なんて無いので、並んでいるおじさんに「チョルーラ?」と尋ねると、煩わしそうに頷いたのでそのまま乗り込んだ。

 だが、途中までは来た時と同じ国道を進んでいたのだが、途中で路地に入り住宅街へと向かい始め、やがて舗装されていない道を進み出した。嫌な予感がしたので隣に座っていたおばさんに「チョルーラ、セントロ?」と尋ねると、おばさんは首を横に振った。

 慌てて降りたが、ここがどこなのか全くわからなかった。標識に書かれた地名は手持ちの地図には載っていなかった。

 背筋に嫌な汗が伝い始める。

 周りを見渡すと、背の低い住宅と舗装されていない茶色い土で覆われた道しか無い。往来には誰も人がおらず、薄汚れた野良犬しか歩いていない。

 だいたいこっちの方角だろう、と歩き出してみたが一向に知っている場所には出ない。やがてバスが行き交う舗装された道に出た。ここで、バスの行き先を見ればどちらの道がチョルーラへ走っていくのかわかるだろうと僕は思った。しかしメキシコはそんな僕の思考を打ち砕く。車道のどちらの向きに走っているバスも行き先がチョルーラになっていたのだ。そんな馬鹿なことがあり得るだろうか。あるいはバスは環状になっていてどれに乗ってもチョルーラに行き着くことができるというのか。

 打ちひしがれた僕はなかばやけくそ気味にとりあえず適当に方角を決めてさらに歩いた。するとコンビニがあったので店員のおじさんに方角を聞くことにした。

 店員のおじさんは全く英語を話すことができなかったので、地球の歩き方を見ながら拙いスペイン語で尋ねるが全く要領を得ない。地図を指差しながらここに行きたいと言うが、困惑した表情を見せるばかりである。おじさんはかなり良い人で、言語が通じない僕に対して真剣に対応してくれたが、言葉の壁は厚く、

 途方に暮れかけた僕だが、ふとここはピラミッドの街ではないかと思いついて、
「チョルーラ、ピラミッド」と言うと、
「チョルーラ、ピラミデス?」

 おじさんはようやく分かったという顔をして、店の外を出て遠くの方角を指差した。その方角に目を凝らすと、建物に隠れて見えにくいが確かにピラミッドの上に立つレメディオス教会が見えた。丘の上の教会からは遠くの街まで見渡せたということは、この街はどこにいてもピラミッドを見つけることができるということだと気付かなかった。

「Gracias(ありがとう)!」

 僕が話せる数少ないスペイン語を言うと、おじさんも嬉しそうに笑って頷いた。
 メキシコで経験した中で最も快い瞬間だった。おじさんとのやりとりで、僕はこの国を好きになれる気がした。

 このやりとりがあってから、僕は日本で外国人に道を尋ねられた時はなるべく親切に答えるようにしている。名古屋で外国人を見かけること自体あまり無いことだけれど、なぜか分からないが僕はよく道を尋ねられる。僕がメキシコで抱いた気持ちを、彼らが日本に対して持ってもらえれば幸いだ。
 
 それから二十分ほど歩いてチョルーラに無事にたどり着くことができた。レストランでいつもより多くチップを払い、良い気分で眠った。