惑星間不定期通信

小説を書いています。本や映画の感想やその他なども書きます。

小説家になる方法

いきなりですが小説家になる方法をレクチャーします。

日頃「小説家になりたい」と思いながらも結局小説家になれず嫌々サラリーマンをやっている僕がそんなことをレクチャーしても何の説得力もないどころかむしろ滑稽でさえあるかもしれませんが、自分で言語化することによりなぜ自分が小説家になれないのか可視化できるのではないかと思います。ということで小説家になる方法を書きます

今回ここで言う『小説家』とはいわゆる同人出版やネット公開ではなく、出版社が出版し著者が原稿料・印税を得る商業出版で生計を立てる職業的小説家のことを指します*1

 

まず、最初に明言しておきますが、小説家になるのは難しくはありません。

 

なぜ小説家になるのは難しくないのか。その理由は小説家になる方法を解説していくことで明らかにしていきたいと思います。

大雑把に言って、小説家になる上での大きな障壁は2つあります。

 

1:技術的な障壁(=小説を書けるかという問題)

2:商業的な障壁(=出版社と契約を結ぶことができるかという問題)

 

1:小説を書くための技術的な障壁について

技術的な障壁について、これは小説を書く能力のことです。小説を読んだことがあっても書いたことは無い人がほとんどだと思います。とりあえず試しに書いてみましょう。ストーリーとかキャラクターとかは後回しにしてとりあえず書いてみてください。

もしいきなり中〜長編小説を書けたのならあなたは天才です。世の中には人生で最初に書いた小説でデビュー出来てしまう、あまつさえそれがこれまでの文壇を揺るがすような、そんな天才がいますが*2、ほとんどの人は原稿用紙数枚、あるいは数行程度書いたところで挫折するでしょう。

だからといって才能がないから小説家になれないというわけでは全くありません。というか、小説家になるのに才能なんていりません。なぜでしょうか?

 

それは、面白い小説なんて書けなくったって、小説家になれるからです。

 

 本屋さんに行ってみてください。面白い小説なんてほとんど売っていません。どこかで見たようなストーリーが平凡な文体で書かれた小説ばかりが並んでいます。ということは面白くない小説しか書けない人間でも小説家になれているということです*3

面白くない小説しか書けない人間でも小説家になれているということは、すなわち面白くない小説でも読む人間がいて商品として成り立っていることを示しています*4

たとえ手垢の付いたストーリーでも、人によっては新鮮に映り楽しむことができるでしょう。昔「世界の中心で愛を叫ぶ」が流行ったとき難病で死ぬヒロインの物語が大量に出回りましたが(現在も生産は続いていますが)、「世界の中心で愛を叫ぶ」を読んでいない人間にとっては、それが模倣だとも気付かず、感動的な物語だと感じることができます。

 新鮮な物語を書く必要なんてありません。

面白い小説なんて書かなくていいんです。

そしてまた、上手な文章を書く必要もありません。最低限読むのが苦痛でなければ、日本語として多少間違っていても良いくらいです。間違っていたら校閲さんが指摘してくれます。間違ったまま出版されている本もたくさんあります。

 

小説家になるために必要な小説のスキルは以下の通りです。

・少なくとも最後まで読ませる程度の求心力があるストーリー

・読むのが苦痛でない文章を書ける文章力

・原稿用紙三百枚程度の物語を書くことができる持続力

 ストーリーを書く上でのルールやノウハウについては、それについて書かれた本やサイトがたくさんあるので、それらを読めば身につきます。

文章力については、読み書きを繰り返していれば次第に向上していくでしょう。最も身につけるのが困難なのは長編を書き上げるための持続力で、これはもういわゆる根気なのでがんばってくださいとしか言えません。出来ない人は出来ないかもしれません。芥川龍之介も長編小説が書けませんでした。その場合は連作短編でも書いてください。

2:小説家としてデビューするための商業的な障壁について

 出版社から出版することで職業的小説家になることができます。漫画家には同人出版だけで生計を立てている人もいますが、同人出版で生きている小説家は多分いないと思います。職業的小説家としてデビューするためにはいくつか方法があります。

 

1:出版社・編集者とのコネを得る

2:スカウトされる

3:新人賞に応募する

 

 1については、例えばミュージシャンや俳優が出版社から打診されて小説を書くとか、個人的に編集者と知り合うとか、もともと出版・マスコミ業界に勤めていた人間が小説家に転身するとか、そういったことを包括してコネと呼んでいます。まあ、普通の人にはまず無理です。現実的な方法としては文壇バーに通いつめるとか、小説を書くためのカルチャースクールや文芸創作ゼミに参加して講師とつながりを得るとか、いまいち確実性に欠けるためあまりおすすめできません。

 

2について、ネットや同人即売会などで小説を発表し、出版業界の人間の目に止まるのを待つという方法です。 一昔前は稀なケースでしたが、最近は「小説家になろう」のようなポータルサイトが現れ、人気作品の著者が出版社からスカウトされてデビューするケースが増えています*5。とはいえネットは小説を読むのに適した媒体とは言い難く、またネットで話題を得るには運の要素も大きく影響します。

 

3がもっとも一般的であり現実的な方法になるでしょう。いわゆる投稿です。地方自治体が主催している新人賞は賞金のみで出版されないケースがありますが、出版社主催の長編小説を対象とした新人賞であれば、受賞=出版が確約されていることが多いです。また、賞にはそぐわないが筆力はあるとして落選した場合でもデビューするケースも少なくありません*6

 

 現在新人を対象とした文学賞は大小合わせて400程度存在すると言われています。その中で出版社主催で受賞すれば出版される賞は、正確ではありませんが100程度はあるのではないでしょうか。各新人賞にはジャンル・作風があり、純文学、エンタメ全般、ミステリ・SFといったように対象される作品が大きく異なります。どの新人賞に応募するかは書き上げた作品によって振り分けれなければいけません。ミステリの賞にSFを送っても落選しますし、純文学の傑作をライトノベルの賞に送っても選ばれないでしょう。また同じジャンルでも様々な出版社が賞を設けており、ミステリで言えば江戸川乱歩賞メフィスト賞アガサ・クリスティー賞などといった新人賞があります。

 

この中でどの賞に応募すればよいか?

 

それは間違いなく受賞しやすい賞に応募するべきです。一般的に新人賞にはいわゆる格というものがあり、乱暴に言ってしまえばスゴい賞とショボい賞があります。

では、何がスゴい賞で、何がショボい賞か。それは出版社の会社としての規模(=初版部数や受賞作に掛ける宣伝費)や、賞としての歴史、審査員の格によって左右されますが、およそ歴代の受賞者を見れば一目瞭然です。

有名作家が数多くデビューしている賞は格が高い賞だと思って間違いありません。ノンジャンルのエンタメで言えば小説すばる新人賞オール讀物新人賞が有名であり、直木賞作家を数多く輩出しています。こういった賞は応募作も多く、受賞作に求められる基準も高いです。応募作のレベルが全体的に低ければ受賞作なしとする場合も少なくありません。

また、純文学系の新人賞には芥川賞候補に選ばれ易い新人賞というのが存在し、それらは新人賞を受賞したあとのステップを見据えた野心的なアマチュア小説家が狙っているため総じてレベルが高くなります。

有名作家が数多くデビューしている賞というのは、受賞作の初版部数が多かったり、出版社がお金を掛けて宣伝してくれたり、他の出版社から声が掛かりやすい賞であるという側面があり、デビューした後のキャリアが整備されている場合が多いです。

ただ、今回レクチャーするのはあくまでも小説家になる方法なので、なった後のことなんて知ったこっちゃありません*7

 新設の賞でも構わないのでとにかく応募しましょう。落選しても翌年応募できないといったペナルティはありません。あまりに酷い作品ばかり送ってくる人間はブラックリストに載るという噂ですが、その場合は応募する出版社を変えれば良い話です。

 

格の高い有名新人賞は言わずもがなですが、新設の文学賞でも最近は数百作もの応募数があるそうです。受賞作が複数ある場合でも100倍以上の倍率を突破する必要があります。ですが、怯むことは全くありません。なぜなら応募作の8〜9割は小説と呼べないような酷いシロモノであるからです。最低限小説でありさえすれば第一関門はくぐり抜けたと言って過言ではありません。そうすると実質的な倍率は10〜20倍程度であり、コンスタントに作品を書き続けて応募し続けていれば、受賞することはさほど難しいことではありません。

 

まとめ:小説家になるのは難しくない、が......。

これまで述べてきたように、技術的にも商業的にも、小説家になることは難しくありません。毎年何百人もの人間が小説家としてデビューしていると言われています。小説家になることは狭き門ではありません。本気でなりたいと思い、そのための傾向と対策を練って作品を書き続ければ必ずなることができると言って良いでしょう。

ですが、十年後に小説家であり続ける人間は1割以下です。ほとんどの人間は書けなくなるか、売れなくなります。さらに小説が売れない時代なのでプロになっても小説家だけでは食べていけない場合がほとんどです。わずかな人気作家のみが専業作家として生きていくことができます。

 

そもそも、なぜ小説家になりたいのでしょうか?

嫌な上司や顧客の顔色を伺う必要がなく、毎朝満員電車に乗らなくてもいいから?

だとすればそれは間違いで、小説家も編集者や読者に振り回され、締切に追われ、売れなくなり書けなくなる恐怖と戦わなければいけません。定収入が無く雇用保障なんてものも一切ありません。

人気作家になって読者から好かれたいから?

人気作家になるには才能と運が必要です。面白い小説を書いたからといって売れるわけではないし、読者はいつまでもファンでいてくれるわけではありません。

小説を書くのが楽しいから、好きだから、という理由で小説家になりたい人が結局一番向いているのではないでしょうか。

面白い小説を書きたいという気持ちは小説家になりたいという欲求とは根本的に無関係です。面白い小説を書けるのなら小説家になんてならなくてもいいじゃないですか。ただし、僕は、そういう気持ちを言い訳にして小説家になれないことを正当化しているきらいがありますが。

 

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*1:僕としては小説を書いたならその時点で小説家だと思うのですが、そういう議論は面倒なのでしません。

*2:例えば村上春樹村上龍などはある日突然思い立って小説を書き、それが「風の歌を聴け」であり「限りなく透明に近いブルー」だったりするのだから、凡人が小説を書く意味なんて多分ないのかもしれません。

*3:かつては傑作を書いた作家が衰えて凡作しか書けなくなる、というパターンもありますが、大体はつまらない小説を書く作家の作品は昔から大したことありません。

*4:ただし多くの純文学作品は作品の質に依らず商品として成り立っていません。今回は芸術としての文芸ではなく、商業的な大衆小説を対象としています。

*5:代表的な例としては「君の膵臓をたべたい」の住野よる。「君の膵臓をたべたい」は新人賞に落選したものをネットに公開して人気を得るという「逆転現象」が起きている。

*6:代表的な例としては「とある魔術の禁書目録」の鎌池和馬ライトノベル系の新人賞(特に電撃大賞)はこのケースが多い。

*7:確かに新人賞には格がありますが、どんな経緯でデビューしたにせよ面白い小説を書き続けていれば小説家としてのキャリアは開けます。例えば山本周五郎賞を受賞しミステリ系のランキング上位の常連である米澤穂信ライトノベル系の角川学園小説大賞を受賞し、受賞した五年後に賞が廃止されレーベルが無くなるという目に遭ったものの、ミステリ作家としての力を評価されてミステリ系一般文芸レーベルから出版する機会を得ました

メキシコ旅行記 あとがきに代えて、旅の終わりに。

 知らない街で暮らすというのは子ども時代に戻ることに似ているような気がする。

 何も知らなかった頃を追体験すること、それが旅行の意義なのかもしれない。考えてみれば、言語がわからない場所に放り込まれる、というのも幼児体験に近いものではないだろうか。原体験を取り戻すということ。僕にとってのメキシコ滞在を言い換えるならばそういうことになる。

 最初メキシコに着いた時はかなり鬱々としていたが、慣れてしまってからはむしろ日本にいる時よりも快適に過ごすことができた。時差ぼけの体が慣れていくのと同じペースで僕の精神もメキシコという国に馴染んだ。

 メキシコは多様な側面を持つ国である。先進国なのかどうかということもそうだし、街ごとの特色も全く異なっている。スペイン植民地時代が色濃い地域ではヨーロッパ風の町並みを残しているし、メキシコシティの都市部はアメリカとメキシコの様式が混合しアメリカ郊外の田舎町の雰囲気がどこか漂っている。ブロック塀を積み上げて土壁のように塗り固め、一面を単色で塗装した建物が印象的だ。その塗装が剥げかかってどことなく街全体が廃墟のような雰囲気を持っているのにも関わらず、活気のある人々の生活とのコントラストを生み出し違和感が満ちるのだと思う。とにかく不思議な国だ。
 
 僕はこれまで言葉の持つ力を信じていた。おそらくは過信と言っていいほどに。だが言葉が通じない世界に放り込まれて、どうしようもない孤独と無力感に襲われた。プエブラの街からバスに乗って知らない場所に連れて来られたとき、僕はまるで素っ裸でその場所に立っているように感じた。どこを歩いてもどこへも行けない気がした。

 だが、必死になって身振り手振りで知らないおじさんから道を聞き出し、自分がどこに行けば良いのかわかったとき、僕はこれまで信じてきた「ことば」というものを勘違いしていたのだと思い知った。人と人との意思が繋がる時にことばは生まれるのだ。

 僕はおそらく、言葉が存在することによって他人という存在が現れるのだと思っていた。今まで言葉で何もかも出来るという万能性を信じていた僕にとって、この経験はとてもクリティカルだった。

 

 日本の空港に降り立つと、そこは意味の分かる言語で満ちた世界だった。

「ここはうるさすぎる」

 僕はなによりもまずそう思った。

「帰りたい」誰ともなくそう呟いた。

 でも、どこに?

 メキシコは僕の帰る場所ではない。だがこの場所はうるさすぎる。

 遠くへ行きたい、という牧野君の言葉を思い出す。

 そう、僕は遠くの場所に帰りたいのだ。

 それはとても矛盾しているけれど、でも確かにそうなのだ。

 全てに疎外されて、どこにも馴染めないような気分になっていた学生時代の頃を思い出す。僕は凪いだ場所を求めていた。どこもかしこもうるさすぎた。自分の部屋の中でさえも苛むような声が止まなかった。

「帰りたい」

 最近の僕は自宅でもそのように呟く。もしかしたら僕のあたまは取り返しのつかないくらいおかしくなっているのかもしれない。僕の帰る場所なんてどこにもないのだろう。帰りたい帰りたい。僕はそう呟きながら毎朝家を出る。

 きっとどこか遠くにある、地球の裏側よりもずっと遠い、とても静かな場所を目指して僕は今日も旅に出る。

 

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メキシコ旅行記 二十六日目「マジックリアリズム化する大学都市」

 木曜日。そして最終日である。

 朝食はホテルのビッフェ。いろいろなものを少しずつ食べる。シリアルとフレンチトーストが美味しい。食べ過ぎないように気をつけていたが、値段を見ると千円くらいしたのでもう少し食べておけば良かったと後悔。英語が通じるので危なげなくチェックアウトを済ます。

 迎えに来たエルネストたちの車に乗り込み、メキシコ国立自治大学を見学しに行った。

 メキシコ国立自治大学というのは、およそ日本の大学とは全く異なっている。まず、規模が違う。メキシコ国立自治大学のメインキャンパスはシウダ・ウニベルシタリアと呼ばれそのまま大学都市を意味する。そしてその名の通り、一個の街そのものなのである。

 大学の中にはなんでもある。本当になんでもだ。博物館、映画館、劇場、スポーツスタジアム(そこでオリンピックもワールドカップも開催された)。ウォータースライダー付きの巨大なリゾートプールさえもある。

 中央図書館や学部の本部棟の壁には現代芸術家による一面にモザイクタイル壁画が描かれており、そのスケールは日本のどの芸術作品よりも巨大である。メキシコ国立自治大学はアメリカ大陸で二番目に古い歴史を持ち、キャンパスそのものが世界遺産に登録されている。 

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中央図書館の壮大で緻密な壁画。壁画としては世界最大であるという。

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別の角度から。

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メキシコの代表的な壁画家シケイロスによる壁画。

 日本の筑波にも学園都市というものがあるけれど、あちらは大学のための都市、というイメージが近いと思う。筑波の街は研究に携わる人間のために都市が特化している。だが、このシウダ・ウニベルシタリアは大学が巨大化していった結果、街になってしまったのだ。まさに南米文学のマジックリアリズムの世界である。

 

  僕らはエルネストに案内され、圧倒されながらキャンパスを歩いた。気持ちの良い晴天で、綺麗に整備された芝生の上の歩くのは気分が良かった。青々とした芝生はどこまでも続いていて、大学生たちが自由に横になったりしていた。

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どこまでも続く芝生、というのが比喩表現でないくらいの広大な芝生。

 可愛い女の子がたまたま僕らの前を通りかかった。

「あれがメキシカンガールだ」とエルネストが顔をニヤつかせ、声を潜めて言った。

「メキシコの女の子はどうだ?」

 エルネストは前と同じ質問を僕にした。

「おっぱいがでかいね」

 僕はとても正直に答えた。

 嘘では無かった。たとえそれが肥満によるものだとしても。エルネストは爆笑した。下ネタというのは世界共通で受けるらしい。

 スタジアムをぐるりと回り、エルネストたちの研究室へ行った。研究室は日本の大学と同じような雰囲気で、雑多な機材で溢れていた。そのまま歩いて会議室へ向かう。

 キャンパスの雰囲気はハリウッド映画で見るアメリカの大学風景に似ている。いたるところに売店がある。チョルーラの街の住人よりは、学生もいくらかオシャレである。

 大学の施設に入るのに厳重なセキュリティがあることに驚いた。このキャンパスの中は、メキシコシティの治安に比べれば格段に良い。ここにいる人間たちがメキシコの最上位のインテリ層であり、この場所の治安はメキシコ警察ではなく大学の組織が運営している。だからこその自治大学である。

 三週間振りにホセ教授に会った。ケツを晒した以来である。「忙しくて会いに行けず申し訳ない」と何度も言っていた。当然ながら僕のケツについては一切触れなかった。

 大理石のテーブルが鎮座する荘厳な雰囲気の会議室で、ミーティングを行った。二、三時間くらい掛けて今回のメキシコでの研究成果を発表した。とても疲れたが、やりきった満足感があった。

 昼食はホセ教授が手配した車に乗り、大学の外にあるステーキハウスへ行った。前菜にひき肉がはいった揚げパンを食べる。前菜にしてはボリューミーだが、メキシコでは何も不自然なことではない。美味しい。鉄板に大量で色々な種類の肉が焼かれているものをみんなで取って食べる。日本では食べられないような量の肉である。

 鉄板の上には、肉と共に野菜も焼かれており、その中に巨大なインゲン豆のようなものがあった。何も考えずにそれを齧ったところ、口の中に突き刺すような痛みを感じた。痛みの後に、猛烈な熱さが僕の口内を襲った。それはインゲン豆ではなく、ハラペーニョだった。ハラペーニョを丸かじりしたときの辛さは、おそらくハラペーニョを丸かじりした人間にしかわからないだろう。

 悶絶する僕を見て、メキシコ人たちは皆笑った。僕としては全く持って笑っている場合ではなかった。

「これで君も友達に自慢できるぞ」などとホセが言う。ふざけるな、と僕は思う。

「塩を舐めると良いぞ」とエルネストが笑いながら塩の瓶を僕に手渡した。確かに塩を舐めると多少辛さは軽減された。

 結局大量の肉はみんなでは食べきれず、「飼い犬に食べさせよう」とホセが家に持って帰った。

 研究室に置いておいた荷物を取りに戻り、みんなに別れを言った。少し泣きそうになったが、別に向こうはそんなに感慨深げではなかった。また会うだろう、と思っているのかもしれない。これまでに会った全員のメンバーに別れを済ませ、手配された車に乗り込んだ。
 
 翌日、メキシコから日本までおよそ二十四時間掛けて帰った。

 成田空港に着いて、まず最初にわかめうどんを食べた。

 その味は今までの人生で食べたうどんの中で、最も感動的なものでした。

メキシコ旅行記 二十五日目「メキシコシティへ帰る」

 水曜日。徐々に日本時間に慣らすため夜更かししていて朝起きるのが少し辛い。

 トランクにいろいろと荷物を積み込んで、いつものカフェにてメキシコ自治大学のスタッフと待ち合わせる。このカフェで食べるのもこれで最後である。

 チュレータという豚肉にチリソースをかけたものを食べたのだが大変辛い。この国で食べたものの中で二番目に辛い。最後に痛い一撃を食らわされた気分になる。一緒に頼んでいたメキシカーナの卵が救いだった。

 朝食後に屋台でタマレスというメキシコのポピュラーなおやつを食べる。トウモロコシ粉を固めてトウモロコシの葉に包み蒸したもので、ほどよい甘さで美味しい。日本のういろうや蒸しパンのような味わいである。

 ホテルのチェックアウトを無事に済ませて研究所へ。データをコピーして部屋を片付ける。一時頃に研究所を後にし、エルネストの運転でメキシコシティへ戻る。

 ハイウェイの眺めは非常に良く、遠くの巨大な山々や広大な景色に圧倒された。

 車中、外の景色を眺めながら、僕はここへ来たときのことを思い出していた。来た時に車から眺めた外の景色はただただ恐ろしく、荒れていて、酷い場所だと思った。こんなところから早く帰りたいと思っていた。だがその荒々しい自然の美しさや、街の風景を愛おしくさえ思える。

 メキシコという国は、着いてすぐに好きになるような国では無いのかもれない。その土地に暮らしてみて、人々と触れ合い、料理を食べることによって、段々とその良さが理解できて好きになる。僕の中で、日本に帰りたいと言う気持ちと、まだまだこの国を見てみたいという気持ちが、不思議と両立していた。

 ハイウェイの途中の土産物屋でスウィートポテトを購入した。ひとつ30ペソ。そのままハイウェイを走り、途中のレストランで昼食を取る。鶏肉にパン粉をつけて焼いたものと、焼いたトルティーヤにチーズとキノコを挟んだものを食べる。エルネストが食べていた骨の髄のスープを少しもらった。ゼリーのようで悪くない味。

 レストランからの眺めが素晴らしく、遠くまでトウモロコシ畑が広がっており北海道を思い出した。そこから二時間ほどで今夜泊まるホテルへ。

 

 メキシコシティを落ち着いて眺めるのは初めてだった。メキシコシティの道路はかなり渋滞していた。確かに名古屋よりも都会なのだけれど、土地に余裕があって道が広いので東京の町並みとも異なっている。

 ホテルの途中でメキシコ国立自治大の傍を通った。大学の敷地内にある巨大なスタジアムや壁画が車窓から見えて、心が躍った。メトロバスと呼ばれる決められたレーンを走る二両連結のバスが見えた。車両の間は電車のように蛇腹で連結されていて快適そうである。

 ホテルは高層ビルの綺麗な建物で一泊6000円程度である。キングサイズのベッドがふたつの部屋である。アメニティもしっかりしている。ホテルの中にスポーツジムがあるというのでのぞいてみたが、二、三のウェイト器具とランニングマシーンがあるだけだったので期待外れであった。

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ホテルの窓から見える景色。メキシコシティの中心からは外れた郊外だが、それでもチョルーラよりは遥かに栄えている。

 夕食は通りを挟んだ向いのショッピングモールのフードコートでハンバーガーを食べる。安いがかなりボリュームがあり肉もしっかりしている。ホテルの前の通りはかなり大きく、片道6車線もある。それを横断するには横断歩道を渡らねばならない。横断歩道の両出口には警官が立っており、腰にリボルバーを威圧的にぶら下げている。なぜ両出口に警官が立っているのかというと、横断歩道で強盗に挟み撃ちにされて逃げ場所がなくなるということを防ぐために、両側からガードしているという訳である。チョルーラの街ではこのような露骨な警備というのは見たことが無かったので、メキシコシティの洗礼に軽く鳥肌が立つ思いがした。この街では歩道橋を渡ることさえ命がけなのだ。

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両出口に警官が立っている歩道橋。

 ショッピングモールは、チョルーラにあったしょぼくれたものではなく、現代的でブティックやらなんやらが並んでいるので日本のイオンとほとんど変わらなかった。なぜだかがっかりしてしまった自分が居た。特に何を買う訳でもなく、食事を終えてホテルに戻り、風呂に入る。

 ベッドはチョルーラのホテルよりもふかふかで寝心地が良さそうだが、日本の時差に合わせるために夜更かししなければならない。またあの悪夢のような時差ボケには悩まされたくない。

メキシコ旅行記 二十四日目「トウモロコシ畑の海と教会の旗」

 火曜日。寝る前にテキーラを飲んだせいか午前五時に目を覚ました。二度寝も出来ずドストエフスキー「白痴」の下巻を読み進める。

 朝食にいつものカフェに行くと開店準備がまだできておらずいつもの席に座れなかった。今週に入って徐々に開店準備が遅れている気がする。頼んだことの無いメニューに挑戦してみたら、我々が「餡子」と読んでいる豆の漉したものが大量にかけられたトルティーヤが出てきた。この「餡子」は塩茹でしたあずきのような豆をペースト上にしたような味で、素朴で悪くは無いが大量に食べたいような代物では無い。気持ちが萎えて、不調気味の食欲もますます出なくなる。

 ローテンションでバスに乗ると、いつもと同じ行き先のバスに乗ったはずなのに、乗客がいつもは見かけない女子高生ばかりだった。我々の行く先に高校なんてあっただろうか、と首を傾げているといつも直進する道で曲がり青々としたトウモロコシ畑を横切る道路を突っ走り始めた。

 慌ててバスを降りると、そこはトウモロコシ畑の真ん中の教会であった。祭りでも無いのに教会の尖塔の先には旗がぶら下げられている。

 僕たちはトウモロコシ畑の真ん中を歩いて、研究所に向かった。

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トウモロコシ畑の真ん中に建つ名の知らぬ教会

 三十分くらい歩いてようやく研究所にたどり着いて仕事を開始する。大量のコネクタを差し替える作業をして腱鞘炎になりかける。力を込めないとコネクタが差せないので指先も痛くなる。全てのコネクタを差し替え終えると午後一時になっていた。非常に疲れた。

 昼食は食堂にてツナサラダをアボガドにつめたものを食べる。食欲は湧かず。軽く食べられそうなメロンとバニラアイスを食べる。

 四時には仕事を終えると管理人に「今日も早いじゃないか」とからかわれる。もしかしたら日本人の残業文化がメキシコにも知れ渡っているのかもしれない。帰る際にエルネストが研究所内に歩いている犬を見て

「ドッグは日本語でなんて言うんだ?」と僕に尋ねた。

「イヌだよ」と僕は教えた。

 そうするとエルネストはアレハンドロの肩を叩きながら「イヌ! イヌ!」と呼び始めた。メキシカンジョークは意味がよくわからない。アレハンドロはエルネストよりも二回りくらい年上のはずだが、どういうわけかこの二人はかなりフレンドリーな関係のようだ。

 ホテルに戻り、すぐに風呂に入って洗濯をする。明日の朝にはホテルをチェックアウトするのでいつもよりも強く水を絞る。

 一通りやることを終えて夕食までネットサーフィンをしていたのだが、雨が強く降り出して雷が近くに落ちた際に、急にネットが使えなくなってしまった。

 以前にも天気が悪くなった際にネットが不通になってしまったことがあるが、やはり雷のせいなのかもしれない。しばらくするとネット回線は復活した。

 夕食はメキシコスタッフたちと広場沿いのレストランへ。ポブラーノソースの掛けられたチキンとテキーラを飲む。

「これはプエブラのトラディショナルな酒だ」と卵酒のような甘い酒を飲む。美味しい。テキーラも美味い。スーパーで買った安物とは大違いである。しかもおごってもらってしまった。食後は広場の出店をひやかす。先ほど飲んだ卵酒が売っていたので色々な種類を試飲する。美味しかったが既にテキーラを買ってしまっているので買わないでおいた。

 いくつかの出店では日本の商品も売っていて、招き猫や剣玉や日本刀のレプリカが売っていた。なぜかドーモくんのTシャツやぬいぐるみが散見されたが、もしかしてメキシコでは人気キャラなのかもしれない。

 明日はこの街を引き払ってメキシコシティに一泊し、ようやく日本に帰ることになる。

 おそらく、僕はこのチョルーラの街には二度と来ないだろうと思うと、街の景色が惜しく思えた。広場や教会の群れや滞在したホテルを目に焼き付けるようにして歩いた。

メキシコ旅行記 二十三日目「遥か果ての中国」

 月曜日。朝から少し寒い。

 朝食はいつものカフェにてトルティーヤがチリソースに浸されたものを食べる。皿全体に大量に盛られており食べきれず満腹になる。

 研究所にてひたすらプログラムを書く。色々とやることがあったのであっという間に時間が過ぎる。先週は腹痛でまともに働けなかったが、何もすることが無く隅っこでぐったりしているよりはマシだ。 

 昼食を取るために食堂に向かう途中ハビエロとすれ違う。

「今日の昼飯は中華料理だぜ」とハビエロは言った。

 しかして、昼食のメニューは牛肉とほうれん草のトマトソース煮込みであった。

 僕はハビエロに教えてあげたかった。中国ではトマトソースなんて使わないのだと

 もしかしたらメキシコ人が食べている中華料理は中華料理ではないのではないかという疑惑がふつふつと湧いてくる。よく考えたら中国は地球の反対側なのだから、歪んだ形で伝わってしまっているのかもしれない。中華料理に必要な甜麵醬やら花椒やらだって、たぶん高級スーパーにでも行かないと手に入らないだろう。こんな田舎の研究所の食堂にそんなものがあるはずがないのだ。

 名古屋市はメキシコと姉妹友好都市を結んでおり、小学校の給食にタコスが出たことがあるのだが、このメキシコで食べるタコスとは似ても似つかないような酷い味だった。それと同じ現象がメキシコの中華料理に起きているのかもしれない。
 
 四時頃には仕事を終えてチョルーラに戻る。

 夕食は広場沿いの店に行く。英語のメニューがあったので「これで好きなのが選べる!」と思うも、キノコのチーズフォンデュを頼んだらキノコしか入っていないものが出てきた。確かにメニュー通りなのだが、僕が欲しかったのはこれじゃないのだ。味は良いがひたすらチーズだけを食べ続けるのはつらい。なまじ内容がわかっていただけに起きてしまった出来事である。

 先輩はチレス・エン・ノガダを食べていたが「もう二度と食べたくない」と言っていた。悪い店ではなかったが、頼み方を間違えてしまった。

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日記の内容とは関係ないですが、ホテルの前はこんな感じのこじんまりとした路地になっています。

 店を出ると雨が降っており、やがて激しい雷雨になった。

 ホテルに帰ってパソコンをいじっていると、充電ができていないことに気付いた。心なしか部屋の電気がいつもより薄暗い。どうも雷雨のせいで電力が安定していないようだった。

 ホテルの電気が明るくなったときにアダプタを付け直したら充電可能になったが、それ以来アダプタの調子がおかしくなり、コンセントを抜き差ししないと充電されないようになってしまった。もしかしたら雷のせいで過電圧が加わり、壊れてしまったのかもしれない。

 電圧が元に戻り一安心したら今度は水道の勢いが弱くなる。風呂に入ろうと思ったのに入れなくなってしまった。当たり前のインフラの重要性を改めて感じながら、諦めるような気持ちで眠りに着いた。

メキシコ旅行記 二十二日目「マンネリ化する日曜」

 日曜日。

 朝はホテル近くのチェーンのカフェへ二週間振りに来てみた。適当に頼んだらスクランブルエッグになってしまった。それと菓子パンを食す。味は良いがいつものカフェに比べるとボリュームに欠ける。いつものカフェがボリューミーなだけかもしれない。
 食後にふらりの街を回る。日曜なので結婚式が行われているのかと思ったのだけれど、見かけることはなかった。もしかしたら仏滅なのかもしれない。メキシコにそういうような文化があるのかは知らないが。

 ミニスーパーにてテキーラ(ドン・フリオ)を購入する。日本で買えば四千円以上するが、二千円もしないくらいで買うことができる。ドン・フリオのテキーラはエルネストがお勧めしていたのだが、飲みやすく華やかな味でとても美味しかった。
 ホテルに戻りダラけていたのだが、いつホテルの清掃が来るかわからずトイレにも行けない。ホテル内のトイレはなぜか鍵がかかっていて使用できず、無駄にホテル内をうろうろして清掃が終わるのを待ったが正午になっても清掃は来ない。忙しいのだろうか。

 結局トイレは部屋でさっと済ませ、昼食へ。

 これまた二週間振りに例の中華料理屋に来た。前に来た時に美味しくなくて落胆したが、毎日メキシコ料理ばかり食べているとそんな中華料理でも再び食べたくなるものなのだ。

 今回食べたのはチャーハンと、ジャガイモの甘辛煮と、鶏肉と野菜の炒め物。全体的にすこし辛い。とりあえず辛くしておけば良いやみたいなニュアンスの辛さである。日本に帰りたい気持ちがまた強まる。

 食後はどこか散歩に行こうと思ったがチョルーラの街は正直もう見飽きたのでプエブラへ行くことにした。

  バス停からはダイレクトバスと呼ばれる終点までどこにも止まらないバスが出ていたのでそれに乗り込んだ。バスターミナルの近くまで一直線に連れて行ってくれた。とりあえずソカロを目指し、州庁舎の写真を撮る。カテドラルに入ろうとしたらミサの途中だったらしく奥に行けなかった。なんとなく気持ちが萎えたので適当に街をぶらつくだけにしておく。前回の来訪でめぼしい観光名所はあらかた見てしまったし、本屋でガルシアマルケスを見かけた以外は特に面白いことも無かった。

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プエブラの往来は観光客で賑わっている。子どもたちが吹いたシャボン玉が写真に写り込んでいる。

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奥に見えるのは州庁舎。

 帰りのバスの心配ばかり頭に浮かぶのでさっさと帰る。バスターミナルからバスに乗る。また前と違うバスに乗った。なんでろくに行き先もわからないのに毎回違うバスに乗るのか、馬鹿なのか自虐なのかと自問自答する。ギターを持った若い男に「チョルーラ、セントロ?」とバスを指差しながら尋ねると頷いたのでそれに乗った。

 途中までは大通りをひたすらまっすぐ進んでいたが、前回のように突然路地に入りだした。しかし前とまったく同じルートだったので焦ることは無い。無事にホテルの近くまでたどり着くことができた。今回のプエブラ来訪は完全に無事に帰ることが目的と化していた。満足。

 夕食はドミノピザへ。お祭りで広場には人が多い。広場に出来た即席遊園地が客で賑わっていた。屋台は美味しそうだが衛生的に怖いので止めておいた。

 ドミノピザで会計で問題が発生し、お釣りがもらえなかった。僕なんかはこういうことがあったときにはすぐに仕方が無いと諦めてしまうタチなので、お釣りなんてチップ代わりにくれてやれと思ったのだけれど、先輩はかなり怒ってバイトに文句を言ったのだが、なにぶん日本語なので向こうも困惑するばかりである。結局お釣りはもらえず、出されたピザを黙って食った。

 帰宅して風呂に入り洗濯をしてテキーラで晩酌。就寝。