惑星間不定期通信

小説を書いています。本や映画の感想やその他なども書きます。

いまさら自作について「わたしの庭の惑星」

「わたしの庭の惑星」について。

 

2012年、大学4年生の時に表題作を書いた。小説を書くときにはタイトルがまず最初に思いつくパターンと、漠然と頭の中にあった『書きたいこと』が凝り固まって物語を書き始めて最後にタイトルを決めるパターンがある。これは前者だった。

たぶん大学構内を歩いているときか、図書館か本屋をうろついているときか、風呂に入っているときか、自転車に乗っている時に思いついたと思う。なぜならそれ以外に思いつく機会がほとんどないからだ。おそらく大学図書館の前を歩いてるときだったような気がする。

タイトルが思い浮かんでから、しばらくその意味を考えていた。「わたしの庭の惑星」とは一体なんだろう? 庭にあるのに惑星というのは矛盾している。「手のひらの中の宇宙」みたいだ。最初は惑星という言葉に囚われて、本物の惑星をもとにハードなSFを考えてみたけれどしっくりこない。なにせ庭にあるのだから惑星ではないし、惑星そのものがあるのではなくて、たとえば庭にワームホールのようなものが開いて宇宙にワープできるというのも面白くない。

いっそ惑星でなければ良いのではないか、と思いついたときに一気に物語が広がった気がした。「わたし」が「惑星」と呼ぶ何かが「庭」にある物語。さらに言えば主人公は「わたし」でなくてもいいのではないか。こんなふうに最初の着想からあえて足を踏み外したときにアイデアが湧き出るということはよくある。

この短編集の表紙絵についてもそうだった。「わたしの庭の惑星」を短編集の表題作にしようというのは最初から決めていて、laicadogさんから頂いた表題作の絵を表紙にしようと最初は考えていた。だがどうもしっくりこず、「別に表紙を表題作の絵にする必要はないのでは」と思い至って「水彩の街」の絵を表紙にしたらぴたりと来た。(「水彩の街」のカラーイラストを用意してくれていたので、たぶんlaicadogさんは最初からこちらのほうが表紙に相応しいと考えていたんじゃないかと思う)

この小説はそれまで使っていたWindowsのノートパソコンではなくMacBookを使用して初めて書いた小説だけれど、とくに道具の差はなかったような気がする。

この小説は大学の図書館の中で書いた。それまでは自室でしか書いたことがなかった。家で書くのも外で書くのも変わらないだろう、と思われるかもしれないが単に集中できるかどうかの問題である。図書館やカフェみたいな公共の場で物書きする行為に対して「気取っている」と思う人もいるかもしれないけれど、その場所がその人にとって集中するのに適しているかどうかだ。あえて気取ることで退路を断たれて集中できるのかもしれない。

得体の知れない巨大な物体が空に浮かんでいる、というイメージが湧いてからは、それが現実の出来事だとしたらどうだろうかと考えながら過ごした。街を歩きながら、空の上に巨大な球体が浮かんでいる様子を想像した。震災のあと、凄惨な映像がニュースで流れ続けていたせいか、街を歩いても現実感がないような感覚が僕の中にしばらくあった。自分がいまここにあるという感覚が希薄になっていたのかもしれない。そういった現実感の喪失や、巨大なエネルギーに飲み込まれる恐怖みたいなものを主人公に抱かせようと思った。

最初は連作短編にして、いろいろな人が「惑星」に取り憑かれるというのを考えた。もしかしたら今からそうしてもいいのかもしれない(気が向いたらそうしようかと思う)。小さな「惑星人」たちが球体から湧き出てきて街を支配するというアイデアもあった。とにかくいろいろなアイデアがあったけれど、文学フリマ用の短編にしようと考えていたので、原稿用紙50枚程度にまとめるためにアイデアを削った。

僕の小説が一番おもしろいのは自分の頭の中にあるときだと思う。着想を得たとき「自分は天才だ」と思うけれど、実際に書き出してみると全然大したことのないものになってしまうことが多い。「わたしの庭の惑星」は頭の中にあったイメージがそれほど劣化せずに書くことができたと思う。そういった自負があるからこそ表題作にした。

 

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もうひとつ、表紙絵になっている「水彩の街」について。

この小説は「雨雫の手記」というタイトルの失敗作(と思っている)の長編小説を短編にリサイズしたものである。「プロの小説家になるには長編小説を書かなければいけない」という強迫観念のもとに大学二年生の頃に書いた初めての長編小説だった。合計200枚ほどなので中編小説と言ったほうが正しいかもしれない。長編小説を書く力量がなかったので、短編小説を寄せ集めたみたいな不自然なものになってしまった。現在は公開していないが、一冊だけ出版して自室の本棚に戒めのように置いてある。僕としてはかなり切実な思いがあり、半年くらいかけてずっと集中して書いていた。

当時の僕は精神的にとても追い込められていた。大学が馴染めなかったことや、学業についていけないこと、小説家になりたいと思いながらも何も出来ていないことに対する苛立ちがその原因だったと思う。ノイズ・ミュージックのように起伏のない凪いだ世界に生きていたいと考えた結果、感情を剥奪された少女の話を書くことにした。主要な登場人物は二人で、お互いに理解し合えるのは世界に二人だけしかいない、そんなように見えつつも結局は誰とも理解し合えないという限界を書きたかった。書けなかったけれど。

「私たちはお互いに手をつなぐことは出来ない」

この頃の僕のテーマを表すとこうなる。しかし、物語に回答が出せず、登場人物を殺してしまった。結局のところ当時の僕には原稿用紙30枚ほどの短編をまとめるくらいの力量しかなかったので、冒頭の30枚はよく書けたけれど、残りはまとまらないものになってしまった。半年間ずっと同じ人物たちに付き合っていたので愛着のようなものがあり、最後には殺してしまったという申し訳無さもあって、短編にリサイズした。二人が幸福だった(ように錯覚していた)ところで物語を終わらせることで、彼女たちを閉じ込めた。この表紙の絵はそんな「切り取られた二人」が水槽の中を歩いている様子が描かれているようでとても気に入っています。

第六回文学フリマ大阪に出展します

開催日 2018年9月9日(日)
開催時間 11:00~17:00
会場 OMMビル 2F B・Cホール (大阪府大阪市)
ブース J-34

 

初の文学フリマ大阪参加になります。そして今回ジャンルは「詩歌」になります。なにもかもが初めてづくしです。既刊のほか、以下の本を初出展する予定です。

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…えー、こんな本を出すにあたってはいろいろと思うことがあるんですが、長い間小説をずっと書き続けてきて、もう少し活動を広げていきたいという気持ちが強くなり、このような「ふざけた」本を出すことにしました。

以前にも書きましたが、元々詩を書くのは好きじゃなくてむしろ苦手だったのですが、音楽活動を通じて歌詞を書くようになって、結構内外から良い評価を頂くことが多くこのたび思い切って本にしました。タイトルからしてどうかと思うような本ですが、これをきっかけに僕という人間に興味を持っていただければ小説も読んでもらえるのではないかと。ギャップがありすぎて受け入れられないかもしれません。いま一番恐れているのはそれです。

もしかしたら幻滅される人もいるかもしれませんが、僕はただ僕の本を読んでもらいたいだけで、いよいよ手段を選ばなくなってきたということです。

僕という人間は多面性が強くて、小説も好きだし音楽も好きだし、ふざけた文学も真面目な文学も好きですし、お笑いも映画も好きだし、根は理系で本業はシステムエンジニアだし(これは本意ではないですが)、もっと活動も多面的にしていければなと思います。

はじめての大阪文学フリマ、楽しみにしています。では。

 

「こどもの国」試し読み

 週末になるとお父さんの運転する車に乗って私はその場所へ連れて行かれる。朝の早い時間に出発し、革のシートに身を沈めてまどろみながら到着を待つ。住んでいる家から遠く離れ、いくつかの交差点とトンネルと森を抜けた先にこどもの国はある。

 こどもの国。

 私たちはその場所をそう呼んだ。私たちという言葉にお父さんは含まれない。私たちとはこどもの国にいる子どもたちのことであり大人たちは含んでいない。敷地と外部を隔てる門には長々しい名前が書かれているけれど私たちはその名前を使わない。ここはこどもの国であり私たちの国だ。

 お父さんの車は嫌いだ。

 どんな車の匂いも好きではないけれどお父さんの車に満ちている匂いは特に嫌いだ。消臭剤のラベンダーの匂い。後ろめたい何かを上書きするための匂い。


 お父さんが私をこどもの国へ送った後、知らない女の人に会いに行っていることを私は知っている。こどもの国から帰るとき、朝よりもラベンダーの匂いがきつくなっている。お父さんはそれで隠し通せていると思い込んでいる。お父さんは私が気付いていることに気付いていない。そのことについてお父さんに何か言うつもりはないし、なぜならそれはお父さんの人生だからだ。もちろんお父さんの人生には娘である私も含まれているのだろうけれど、それはかつての話であり今の時点においては含まれていないのではないかと思う。お父さんにとって、私という存在は週末に送り迎えする荷物でしかない。A地点からB地点に移動する点Pと同じだ。もちろん、お父さんはそんな風に考えながらアクセルを踏んでいるわけじゃないんだろうけれど。

 私の人生にお父さんは含まれているけれど、お父さんの人生に私は含まれない。こういう状態を論理学的になんて表現するんだっけ。

 こどもの国で習ったような気がするけれど、忘れてしまった。

 

 そんなとりとめのないことを考えているうちにこどもの国に着いた。
 車のドアを開けてこどもの国に降り立つと、森の腐葉土の匂いと焼却炉の煙っぽい匂いがして、ほっとした気持ちになる。森の地面を歩くと、降り積もった落ち葉によってまるでクッションのようにふかふかとした感触がする。この場所は私には自分の家よりも『帰るべき場所』のように思える。

 こどもの国では私と同じくらいの年の子どもたちがたくさんいる。たくさんと言っても学校よりは多くない。学校とは違って子どもたちは減ったり増えたりするけれど、全体の数は変わらない。定期的に行われるテストで低い点数しか取れないとこの場所から追い出される。しばらくすると新しい子どもたちが入ってくる。
 私たちはみんな新しくやってきた子とすぐに仲良くなれるし、誰かがいなくなったりしても悲しくならないようになっている。これはただの技術だ。慣れと言った方が正しいかもしれない。

「おはよう、愛ちゃん」
 いつものように私の到着を聖子先生が出迎えてくれた。
 聖子先生。
 聖なる子どもの先生。
 聖なるもの。清らかで尊いもの。汚れのないもの。
 聖子先生は好きではない。何故なのかはよくわからない。

「それはね、きっとアイがセイコ先生の世界に含まれていないからだよ」
 ヨシト君は私にそう言った。秋山善人君。善き行いをする人。行いの正しい人。
「セイコ先生の世界の全ての子どもたちは良い子どもたちで、良い子どもたちを良い人間に育てることがセイコ先生の人生の目的なんだ。だから、僕らみたいな子どもたちはセイコ先生の世界では存在してはいけないし、存在しているということを知られてはいけないんだ」

 名は体を表すという言葉を知ったのは学校だったかこどもの国でだったか、それとも何かの本で読んだのか忘れたけれど、人の名前というのは親からの願いが込められているらしい。自分の名前の由来を聞いてみましょうという宿題が出た。私の名前は聞くまでもなかった。

 私の名前は笠原愛。愛は、愛だ。それ以外の意味はない。

 愛は嫌いだ。

 愛というものが何なのかはよくわからない。愛。いとおしいと思う気持ち。いつくしみ恵むこと。私の家には愛はない。昔はあったのかもしれないけれど今はない。お父さんはお母さんを愛していないし、お母さんはお父さんを愛していない。そして、お父さんもお母さんも私を愛していない。喧嘩ばかりしているわけじゃない。むしろ何もない。おそらくお互いを空気と同じくらいにしか思っていないのだろう。

 きっと、私の家には愛がないから、私の名前が愛になったのだと思う。
 愛の代わりに私が生まれたのだ。

 

 自分の名前が嫌いだとヨシト君に伝えたら、僕もそうだと彼は言った。
「僕の母親はもう死んでいるんだ。正確に言うと殺された。誰に殺されたか分かるかい?」
 分からない、と私は首を振った。
「僕の母は法に殺されたんだ。母は死刑囚だった。生まれつき心が弱かったんだろうね、大学生の頃に精神を病んで、聴こえないはずの声が聴こえるようになったらしい。その声に従って無差別テロを起こした。休日のショッピングモールで劇薬をばら撒いた結果、4人が死に十数人が重体になった。母は当時大学院の学生だったから、そういう劇物を簡単に手に入れることができた。死刑は当然の判決だった」

 その事件のことは知っていた。全国でも大きなニュースになったらしいけれど、私の生まれる少し前のことの出来事だから実際にどれほど騒がれたのかは知らない。

「僕の父と母は刑務所の中で出会った。僕の父親は刑務官だった。母の担当になって次第に惹かれ合ったらしい。やがて獄中で僕を出産し、それからすぐに死刑が執行された。母の処刑後、間もなく父も自殺した。残されたのは僕だけってわけさ。だから僕は自分の両親のことは一切覚えていない。祖父母の家に預けられて、両親と同じ轍を踏まないように善人と名付けられた」

 そんな名前を好きになれるわけないだろ、とヨシト君は笑う。

「僕の父親は刑務官という職業に就いていたけれど、それは犯罪を憎んでいたからではなくて、犯罪者に憧れていたからじゃないかと思う」
「どうしてそう思うの?」私は尋ねた。
「僕がそうだからさ。遺伝なのかもしれない」
 ヨシト君はなんともなさそうに言う。
 悪に憧れる気持ち。それは私にも分かるような気がした。
「僕たちは両親に足りないものを背負わされて生まれてきたんだろうね」
 ヨシト君は私がこどもの国に入る前からここにいる。長くいればいるほど定期テストの難易度は上がっていく。たくさんの子どもたちが入っては追い出され、昔から残っているのは私たちしかいない。

 とにかく、私にとってヨシト君は他の子どもたちとは違っていた。私たちはお互いに『同盟』を組むことにした。人の名前を呼ぶときはカタカナを使うというのが同盟のルールだ。声に出すときはそんなの分からないけれど、それでも意識を変えることで言葉の意味から逃れられるような気がした。私は愛ではなくアイで、ヨシト君は善人ではない。

 私たちは森で拾った金属の薄い板にカタカナの名前を刻み、ペンダントのように首から下げた。戦場に行く兵士たちが戦死した際に名前が分かるように識別票を身に着けると何かの本で読んだ。それの真似だ。死ぬときは愛ではなくアイとして死にたい。
 自分の名前が好きじゃないだけでなく、決定的に私たちは他の子たちとは異なっている。みんなそれぞれの性格はあるけれど、だいたいみんなお行儀良く親や先生たちの言うことによく従った。要するに良い子なのだ。私たちは違う。
 こどもの国の本当の名前は別にある。

『よいこともりのくに』

 よいこともりのくに。良い子と森の国。良い子と守の国。良い事守の国。良い子どもたちが棲む森の国。良い子たちを守る国。そしてそれが世界の『善いこと』を守っていく。
 知能指数が高い子どもたちを集め、自然に囲まれた空間の中で先進的な教育を施し未来の礎となるエリートを育てるのがこの施設の目的だ。私たちは同年代の子どもたちより十年先の教育プログラムを受けている。ただ頭が良くて勉強ができるというだけでなく、集団生活によって社会性を高め、森の中で自然への理解を深める。
 良い子どもたちを育み、良い子どもたちは良い人間となり、この国を良いものへと導いていく。この場所はそんな信念に満ち満ちている。ここにいる大人たちは自分たちが良い子どもを育てているのだと疑わないし、子どもたちも自分が良い人間になろうとしていることを疑わない。

 でも本当にそうだろうか?

 知能が高く、社会性があり、環境を大切にすることが本当に良い人間の必要条件なのだろうか? そうやって疑うこと自体がすでに良い子ではない証拠なのではないだろうか?

 たとえば空に巨大な物体が浮かんでいるとする。それはとても巨大な黒い球体であり、空に穿たれた深い穴のように中を見通すことができない。その物体の名は『悪』であり、巨大な質量による引力は私を常に引きつけている。逃れがたいその作用はいつだって影のように私に纏わりついていた。私にとっての悪とはそのようなものだった。

 

 私たちはこの国にいる唯一のわるい子どもだった。

 

 

 ……続きは文学フリマ頒布予定の「こどもの国」にて。

「こどもの国」

第26回文学フリマ東京で頒布予定の「こどもの国」を制作中ですが、表紙を公開します。イラストはlaicadog様に描いていただきました。小説の雰囲気とマッチした、これまでとは違ったタッチの素敵な表紙になりました。

 

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ブースも決定しました。2階は初めてかもしれません。カテゴリは恋愛ですが、恋愛要素は多分無いです。男の子と女の子はいちおう出てきますが。

 

ブース位置 : エ-03 (Fホール(2F))

カテゴリ : 小説|恋愛

 

のちほど試し読みを公開しますので、続きが気になった方はぜひ。お待ちしております。

 

小説を書くことについて

文学フリマに出す小説を書き終えました。まだこれから書き直しを行いますが。もしかしたらこの書き直しの作業が一番楽しく、そして作品の質を大きく左右するものかもしれません。今回の小説はとても手応えがあり、良いものが書けたのではないかと思っています。前にも書きましたが、だいたいいつもそう思っています。そしてこれもいつものように脳裏によぎることですが、前よりも良いものが書けたという思うときは、前作を読んでつまらない気持ちになってしまっていた人は読んでくれないのかなと考えてつらくなったり、前作も同じくらい上手く書けていればよかったのにと後悔することもあります。

 

――――以下は小説を書き終えた個人的な打ち上げとして日本酒をしこたま(死語)飲んだ勢いで書いた、とても個人的な文章です。ひとが読んでもあまり面白くないかもしれません。というのは、他人が読んで面白いと思うレベルの内容を担保しないという意味です。

 

そもそも僕は小説を書くときにあまり他人に楽しんでもらおうと思って書いていないな、とふと気付きました。言い換えると誰かのために書いたことがありません。いつも僕は自分自身が面白いと思えるものしか書きません。だから書いているときは心底楽しいし、書き上げた瞬間その作品は世界で一番面白い作品(のひとつ)になります。でも僕と言っても『そのときの僕』でしかなく、時間をおいて読み返してみると「なんでこんなものを書いたんだろう」と頭をひねることがあります。また、単に技術的に未熟だったために書きたかったことが充分に果たせていないこともあります。

なんにせよ、世の中でどんな小説が流行っているのかだとか、どんなものを書けばウケるのかとか、全く考えていません。商業作家ではこうはいきません。芸術としての純文学を除けば、エンターテイメントとして読者を楽しませる必要があります。

とはいえ、僕は自分自身の趣向はそれほど一般の感覚からはずれていないのではないかと思っているので(それが大きな思い違いだという可能性は小さくありませんが)、僕が面白いと思うものは他の人もそれなりに面白いのではないかと思っているのですがどうでしょう。僕はそれなりにメジャー作家が好きだし(ただし現代のメジャー作家ではないことが多いですが)、彼らの良いところをなるべく吸収するようにしています。だから僕の小説は村上春樹的な部分があったり夏目漱石的な部分があったりドストエフスキーサリンジャー佐藤亜紀円城塔伊藤計劃森博嗣太宰治秋山瑞人穂村弘などその他もろもろ数え切れない要素があると思います。

オリジナリティというのは先人の技術のミクスチャーあるいは発展であり、誰も見たことがない「個性」なんて存在せず、存在したとしても大したものではないと考えています。それは物理学や数学において突如新しい法則が生まれるようなことはなく、すべては先人が積み上げてきた学問に立脚しているのと同じではないでしょうか。

ええと、こんな話をしたかったわけではなくて。

とにかく僕にとって小説を書くという理由は何よりも僕が楽しいから書いています。高校二年生の頃に小説を書き始めたときからそれは同じです。高校生の頃の僕は今にして思うとちょっと異常で、授業もろくに聞かず四六時中本を読んでいるか文章を書いてるか、そのどちらでもなければ脳内で文章を組み立てていました。おかげで学業の成績はひどく落ちました。

大学の頃になるとただ楽しいからではなく技術的に上達するために努力するようになり、また同時期に精神を病み始めたこともあって、書くという行為が自己治療の意味を帯びはじめました。

箱庭療法という心理療法があります。文字通り箱の中に砂や玩具を置き自己表現することによって治療を行う手法です。小説を書くということはそれに似ています。識閾下まで潜り込み自己表現をすること。無意識下のレベルまで深化させ、そして物語をシミュレートするということは、自分の苦しみの根源は何なのかを把握する上で役に立ったのではないかと思います。もしも小説を書いていなければ僕はもっと混乱し現在のようなかたちを保てなかったのではないかと思うのは過言でしょうか。その行為を文字通りの自慰行為としてマスターベーションとみなしてしまえば、僕の小説を他人に読ませる意味なんてないのですが。

他人に読ませる意味。上記を踏まえるとその意味がわからなくなるかもしれません。自分自身のために書いているのであれば他人に読んでもらう必要なんてないのだから。おそらくその理由は、誰かに自分を認めてほしいという承認欲求と、僕が面白いと思うものをみんなにも面白がってほしいと思う紹介のような気持ちによるものなのかもしれません。

 こんなことを書くととんでもなく馬鹿で身の程知らずの自意識過剰かと思われるかもしれませんが、病気で知力が低下する前の僕は同年代としては日本で一番(小説としての)文章がうまい人間だと思っていました(病気によるものなのかそれとも治療に用いた抗うつ剤のせいなのかわかりませんが、記憶力と思考力と情報処理能力は二十歳前後に比べると半分くらいになりました)。

こと小説としての文章力で言えば現代作家で言えば村上春樹の次くらいにレベルが高いと本気で思っていました。そりゃ佐藤亜紀伊藤計劃円城塔秋山瑞人に比べたら僕なんてミジンコかもしれないけれど、ある種の技術力においては負けてないんじゃなかろーか、なんて思っていました。

たとえば以下の一節。


 寒さに目が醒め、車窓の外を見遣ると雪が積もっていた。同室者に訊けば道程は半ばも大分過ぎたという。同室者は擦り切れた服装をした初老の男で、枕元の灯りの件を詫びると気にしなくても良いと言い、冷えるからこれを飲むと良いと私に酒を差し出してきた。それを口にしてようやく人心地が付いた気がした。
 何をしに北国へ行くのか、と男は訛りのきつい口調で訊ねた。嫌なことがあって逃げ出してきたと正直に答えると男は呵呵と笑い、そんなような顔をしていると言った。漂白の旅にはちょうど好い、極寒の冬の風に吹かれればそこらの悩みにかかずらう余裕も無いだろう。私は力無く笑い返し、差し出されるがままに酒をかっくらって再び眠った。目覚めたときには終着駅で、男の姿は既に無かった。 

 たぶんここを読んだ人は特に何も感じないと思うのですが、僕としては自分の文章の中で一番上手く書けたのではないかと思っています。綺麗な表現や詩的センス云々ではなく、このような描写をこのように書くことができている小説はなかなか見たことがない(僕としてはこの部分は佐藤亜紀の「ミノタウロス」を意識して書きました)。

たぶん読んでる人は何言ってんだこいつとか、上記の引用文のどこが優れているのかちっともわからないと思うかもしれませんが、ようするに僕の中の面白いとかよく書けたとか、基準はこんな感じです。楽器の音作りに異常なまでにこだわるミュージシャンと似たようなものかもしれません。小説を書くことについて、何が良い文章で何を目指しているのか、もうすこしテクニカルな話はいつかきちんと解説したいと思います。

なんか一方的に書きたいことを書いたら、結局着地点がわからなくなって、しかも自分が自意識過剰の思い上がり野郎だと思われかれないようなことになってしまいましたが、とにかく今回書けた小説はよいと思います。

たぶん、きっと、おもしろい。すくなくともぼくにとっては。

第26回文学フリマ出展します。

開催日 2018年5月6日(日)
開催時間 11:00~17:00
会場 東京流通センター 第二展示場
アクセス 東京モノレール流通センター駅」徒歩1分

 

一年半ぶりに文学フリマに出ます。新作短編小説を出す予定です。ようやく完成の目処が立ったので告知します。良いものが書けているのでは、という自負はありますが、いかんせん万人受けはしない気がします。いつものことかもしれません。

タイトルは「こどもの国」になる予定です。

 

私たちはこの国にいる唯一のわるい子どもだった。

 

既刊「わたしの庭の惑星」「紫陽花が散らない理由」「硝子と眼球」も在庫分+α持って行きます。ぜひ足を運んでいただければ幸いです。では。

詩を書くことについて

詩合というイベントに初参加しました。その場で出されたお題に沿って即興で詩を書くというイベントです。5人くらいの出場者がいて、お客さんの投票によってお題ごとの優秀作が決まり、最後に全ての作品の最優秀作を選ぶというルールです。

とはいえ、賞レースではなく、あくまでも目的はより良い詩を書くというものなので、あまり硬くならずに参加することができました。それでも緊張しましたが。最優秀作は残念ながら逃しましたが、お題ごとの優秀作には3度ほど選ばれたので健闘できたかなと思います。僕は昔から文学関係で他人と関わり合ったことが少なく、文学フリマでそういった出会いみたいなのを初めて経験したのですが、この詩合というイベントも刺激的でエキサイティングな体験でした。

即興詩を書くというのはとにかく脳みそをフル回転して自分の中にある引き出しをひっかきまわして言葉を探すことになるのですが、追いつめられたときに人間の本性が出るというかなんというか、自分の引き出しの狭さ・少なさを痛感しました。アラサー女子ネタか社畜ネタか動物ネタか下ネタくらいしかないもんな。この日記の下の方に作った詩を載せておきます。

 

文章を書くのは好きで小説も書いていましたが、詩を書くことだけは昔から苦手で、いわゆる普通の詩というのも作らないし、中学生の頃にギターを始めて曲を作ったりもしていましたが歌詞を書くのはとにかく苦手でした(正確に言うならば書きたくなかった)。もともと僕は言葉を積み重ねることによる面白さみたいなのに興味があって、意味を読者に委ねがちな「詩」というのは範疇にありませんでした。しかし、萩原朔太郎の詩やその考え方に触れ、その考えを改めました。

 

詩の表現の目的は単に情調のための情調を表現することではない。幻覚のための幻覚を描くことでもない。同時にまたある種の思想を宣伝演繹することのためでもない。詩の本来の目的は寧ろそれらの者を通じて、人心の内部に顫動する所の感情そのものの本質を凝視し、かつ感情をさかんに流露させることである。

萩原朔太郎「月に吠える」序文より引用

私のこの肉体とこの感情とは、もちろん世界中で私一人しか所有して居ない。またそれを完全に理解してゐる人も私一人しかない。これは極めて極めて特異な性質をもつたものである。けれども、それはまた同時に、世界の何ぴとにも共通なものでなければならない。この特異にして共通なるここの感情の焦点に、詩歌のほんとの『よろこび』と『秘密性』とが存在するのだ。この道理をはなれて、私は自ら詩を作る意義を知らない。 

同上より引用

 

この序文を読んだ大学生の頃の僕は、以下のような日記を残しています。

なんていうか、僕が常々詩人や詩という芸術そのものに対して抱いていた不信感がこの序文で一瞬に払拭された。所詮綺麗事とか個人的な主観を、体裁の良い言葉で虚飾してるんだろ中身なんてないんだろ、もしくは煙に巻いて孤立した優越感に浸ってるだけなんだろ、という嫌悪をぶち壊しにしてくれた。というかそんなものは軽々と超越してる。

そうでなくても詩が持つ表面的な情報量は他の芸術に比べれば圧倒的に少ない。それ故に、傲慢な鑑賞者は都合のいいようにそれを『理解』し、勝手な占有意識を抱く。僕はそれがどうしようもなく我慢できない。受け手に対しても、それを許した表現者に対しても。

 

 

中略

 

萩原朔太郎はこの序文に於いて、自分の芸術が理解される対象を減らすために難解に走ることを忌避した。独自性と共通性の両義を表現することが自らの求める芸術なのだと宣言したのである。僕はここで諸手を挙げて賛同せざるを得ない。だからといって単純化・素朴化へと逃げるのではなく、真っ向からこの困難を実現していくのである。なんという強靭。なんという才気。詩人に抱いた不信感が詩人の手によって打ち消される。よもや、処女詩集の序文によってそれが為されるとは夢にも思っていなかった。

なんというかテンションの高さというか、文章の熱量というか、我ながら引いてしまいますが…。 よっぽど感動してたんでしょうね。

とにかくまあ、詩への向き合い方を見直した僕はその後萩原朔太郎を始め中原中也を読んだり穂村弘の短歌を読んだり、まぁその程度なんですが多少は詩を読むようになりました。その後、ふざけたバンドを組み脱力系の歌詞を書くようになって、歌詞を書く楽しさ面白さみたいなのがだんだんとわかってきたのですが、まさか詩を読むイベントに参加することになるとは夢にも思っていませんでした。

 

以下、作った詩です。ついでに昔作った歌詞も載せておきます。

 

■お題「ポップソング」

タイトル「過渡期」

 

レコードからCDへ
MDからiTuneへ
百年後の未来では
きっとシイタケとかシメジとか
そういうものを耳に突っ込む

 

僕は静かに耳を立て
君が立つキッチンの音を聴いている
僕の心のベストテン第一位は
たぶんそういう音楽だった

 後半部分はオザケンパクリオマージュですね。優秀賞受賞。

 

■お題「窓の外」

タイトル「都市伝説」

 

時速60kmで走る
車の窓から手を出すと
まるでおっぱいの感触らしい

 

そんなことを思い出した僕は
おもむろに手を伸ばす

 

暖かい春の午後
よく晴れた街の空気と
あの子のささやかな胸と
入りこんだ杉の花粉で
僕は、くしゃみをした

下ネタですね。緩急をつけてみました。

 

■お題「デッサン人形」

いろいろな角度から君を見てみたい
恥ずかしい格好をさせてみたい
だけど想像力が足りてない
そういうときに使います

もうほんと何も思いつきませんでした。タイトルも思いつかない。

 

■お題「くじら」

タイトル「トト」

 

トイレの中で泳いでる
おしりに向かって潮を吹く
トト<TOTO>と名付けた
ちいさな私のクジラさん

これが一番良くできたかなと思ったんですが、他の方の詩がとても良くて優秀賞は取れず。結局そのときの優秀賞作品が最優秀賞になりました。

 

 ■お題「都会」

ここはナゴヤ県ナゴヤシティ
トヨタと河村が支配する街

 

名古屋なんてつまんないよね
そう言って東京へ出たマリコ
子育てのために帰ってきた

 

「東京は都会でしたか?」
「名古屋は都会じゃないですか?」
大名古屋ビルヂングのスタバで
その言葉をフラペチーノといっしょに飲み込んだ

 このお題も何も思い浮かばず苦し紛れで手頃なテーマを選びました。意外にも優秀賞。

最後の文節は「つまらない街で育てた子どもは、つまらない子どもですか?」のほうがよかったなあと発表した後に思いました。

 

 ■お題「電気のない部屋」

タイトル「本音」


キャンプに行くのはいいけれど
スマホの充電どうするの?

 

タイトル「イマジン」

 

想像してごらん
もしも電気がなくなったら
プログラミングもできないよ

 

想像してごらん
もしも電気がなくなったら
上司のメールは返さなくていい

 

ありがとう原子力
ありがとう化石燃料

 

みなさんのおかげです

 2個作りましたが評価対象に選んだのはふたつめ。明らかなオマージュですが優秀賞受賞。

あんまりネタが思い浮かばず、社畜ネタに走る。

 

 

最後に歌詞を貼っておきます。スタジオで即興で歌った歌詞です。だからある意味本当の即興詩なのかもしれない。一切書き直しもしていないし。

おかしいなあ、萩原朔太郎に感動した人間がこんな詩を書くかな?

マンボウ
おまえマンボウ
まるでマンボウ
そしてマンボウ

 

マンボウ
まるでマンボウ
おまえマンボウ
赤ん坊が笑ってるよ

 

マンボウの赤ん坊が
たくさん今年も生まれました
わたしの家の水槽は
すごくいっぱい何かが浮いてます

 

マンボウ
それはマンボウ

 

お父さんもマンボウ
お母さんもマンボウ
マンボウ
そしてマンボウ
おれはマンボウ
君はマンボウ

 

聞こえるかこのマンボウの声
聞こえるか叫び声、マンボウ
マンボウ、おまえマンボウ
生きてりゃマンボウ食べることだってあるよ

 

上手く歩けない
だってマンボウ
わたしマンボウ
空は飛べないよ
だってマンボウ
わたしマンボウ
マンボウ

 

歩けない
空も飛べない
泳げない
出来損ないのあたしだからこそ
歌うわ マンボウの唄を
何も出来ないわたしの
マンボウとしてのプライドだから

 

マンボウ
そしてマンボウ
レインボー
空に架かるレインボー
DING DONG
DING DONG
カツ丼…
マンボウ
マンボウ
マンボウ

 

マンボウマンボウマンボウマンボウマンボウ
マンボウ
yeah

 

君は知ってるかい
スーパーで売ってるマグロの肉は
実はマンボウ
それはマンボウ
食品名偽装の闇