惑星間不定期通信

小説を書いています。本や映画の感想やその他なども書きます。

第三回文学フリマ京都に出展します

開催日 2019年1月20日(日)
開催時間 11:00~16:00
会場 京都市勧業館みやこめっせ」 1F 第二展示場C・D
ブース う-29

 

 前回の大阪に引き続き、京都文学フリマ初参戦です。京都はとても思い出深い街で学生時代には何度も訪れており大学院生の頃に一週間ほど長期滞在したことがありますが、こんな街で学生生活を送りたかったと切実に後悔しました。街の持つ魔術的な雰囲気、非現実的な世界で非現実的な生活を過ごしたかった。この上なく世俗的な街で世俗に染まりきってしまった今になって、そんな京都で本を売るのはなんとなく感慨深いです。

今回は新作はありません。既刊を持っていきます。その代わりと言っては何ですが、今回のためにCMを作り直しました。といっても、作ったのはだいぶ前なんですけどね。CMは最初の短編集「わたしの庭の惑星」を書いたとき以来作っていなかったので、他の作品に対してなんだか申し訳ないような気になっていましたが、これでようやくすっきりしました。

 


CM わたしの庭の惑星〜こどもの国

 

昔作ったCMも貼っておきます。動画作りのセンスは昔の方があった…というよりは動画に割けるリソースが昔の方があったというべきですね。


短編集『わたしの庭の惑星』CM ショートバージョン

 


短編集『わたしの庭の惑星』CM 第二弾

 

自作解説はこちら。

 

planetarywords.hatenablog.com

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それでは、京都文学フリマよろしくお願いします。

2018年に読んだ本の感想

2018年はあまり映画を観られませんでした。近所のTSUTAYAが潰れてしまったせいです。町からどんどんレンタルビデオショップが消えています。ここ数年で4〜5件は潰れたのでは。マイナー作品を探すために数件駆けずりまわった思い出がありますが、今や地下鉄で2駅先の町まで遠出しないとレンタルビデオショップがありません。そこもいずれ消えてしまうのでしょう。それもこれも、動画配信サービスが充実してきたからでしょうね。自宅で簡単に観たいものを探すことができて、わざわざ店に返却する必要もありません。けれど、観たい作品がピンポイントになかったり、なんとなくぶらっと行って気になったものを適当に観るという機会が失われてしまったりで、あまり動画配信サービスというものに馴染めません。いちおう加入はしているんですが。

 その代わり、社会人になってから一番本を読むことができました。年末年始にこうして本の感想を書いているので、初めのうちは「きちんと読んだ直後に感想を書きのこそう」と思うのですが、年の後半になるについれてサボりがちになりますね。そして今苦労するという。毎年そんな感じです。後半の感想が雑なのはそのせいです。

 

豊饒の海 第三巻 暁の寺 (あかつきのてら) (新潮文庫)

豊饒の海 第三巻 暁の寺 (あかつきのてら) (新潮文庫)

 

 

 ■1冊目 「暁の寺豊饒の海・第三巻」三島由紀夫

大長編物では物語性よりも登場人物の人物性に囚われて自家中毒に陥ることがあるけれど、この作品ではそれに片脚を突っ込むかと思いきや、偏執的な性愛や美学的描写によって振り切っている。三島由紀夫の作品ではありがちなそれらの傾向は過去の二巻では意図的に温存されていたのかと思うほど、準主人公として観測者に甘んじていた本多は俄かにその人格を露わにした。その転向には戸惑いを覚えたけれど、異国での体験談と重厚な唯識論が本多の転向の伏線となっており、違和感は無く、最終巻に向けてその変遷が物語の帰結へ導いて行く。

 

 

豊饒の海 第四巻 天人五衰 (てんにんごすい) (新潮文庫)

豊饒の海 第四巻 天人五衰 (てんにんごすい) (新潮文庫)

 

 

 ■2冊目 「天人五衰豊饒の海・第四巻」三島由紀夫

豊饒の海最終巻はあまりの面白さに一気読みしてしまった。醜く老い衰えていく本多の前に現れた最後の転生。物語の最後は今まで積み上げてきたものを全て覆すようなものだったが、終わりも始まりも全て同じ地点で語られていたような不思議な感覚に襲われた気がした。果たして透は始めから転生者でなかったのか、本多の関与によって天人五衰となったのか。円環の物語の結末に、放り出すかのような門跡の一言は、これまでの物語的過ぎるほどのこの小説に非物語性を投げ込んでいる。とにかく、凄まじい本としか言えない。

 

 

Happy Youth of a Desperate Country: The Disconnect between Japan's Malaise and Its Millennials (JAPAN LIBRARY)

Happy Youth of a Desperate Country: The Disconnect between Japan's Malaise and Its Millennials (JAPAN LIBRARY)

 

 ■3冊目 「絶望の国の幸福な若者たち」古市憲寿

思ったよりも目新しい意見がないのは7年前の本だからだろうか。著書の意見が世の中に浸透してきたから? 既存の若者論を戦時中から概観する手際は小気味よかったが、後半に行くにつれて論拠が怪しくなり、誰かが言っていたことに対する感想に近くなっている気がする。とはいえ、例え感想だとしてもそれほど的外れでもないので、まあ面白いなあという感じ。てっきり学術書だと思っていたけれど、これは新書ですね。と思ったらやっぱり実際新書化されていた。

 

 

みみずくは黄昏に飛びたつ

みみずくは黄昏に飛びたつ

 

 ■4冊目 「みみずくは黄昏に飛びたつ」川上 未映子,村上 春樹

小説家による小説家のインタビューって意外と今までなかったのでは。村上春樹の「小説の作り方」について、かなり技巧的な部分に至るまで詳細に語られている。例えば、推敲を何校するのかといった具体的なことまで。メタファーやイデアといった形而上学的な物事について、作者はその意味が何かとは考えないようにしている、ということが興味深かかった。多くの情報はこれまでのインタビューやエッセイで既に語られたことかもしれないが、この形で聞き出してみせた川上未映子の聞き手としての力に感服した。

 

 

 

ラインマーカーズ―The Best of Homura Hiroshi

ラインマーカーズ―The Best of Homura Hiroshi

 

 ■5冊目 「ラインマーカーズ―The Best of Homura Hiroshi」穂村弘

日常の中で発せられた何気ない、しかし何気なくはない言葉が詩になる。普通に生きていたら見逃してしまう一瞬を穂村弘は逃さない。だからこそ突拍子もないように見えて親近感を覚えるような詩が書けるのだろう。

「ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は」

 

 

弟子・藤井聡太の学び方

弟子・藤井聡太の学び方

 

 ■6冊目 「弟子・藤井聡太の学び方」杉本 昌隆

藤井くんファンなら必読の内容(言われなくてもファンなら読んでいるか)。藤井くんの幼いころの話だけでなく、杉本七段の弟子に対する姿勢は将棋界にかぎらずあらゆる分野での教育(コーチング)に通ずるものがあり興味深い。将棋界の徒弟制度についても詳しく書かれており、そういったマニアックな知識についても得られてたいへん面白かったです。最近はテレビに引っ張りだこな杉本先生だけれど、テレビで見る優しそうな人柄だけでなく、教育に対して確固たる信念を持っていることがわかり、杉本先生のファンになりました。

 

 

村上春樹 雑文集 (新潮文庫)

村上春樹 雑文集 (新潮文庫)

 

 ■7冊目 「村上春樹 雑文集」村上春樹

村上春樹のエッセイやら文学賞の受賞挨拶やらはたまた結婚式の祝電まで、雑多ともいえる文章を詰め合わせたまさに「雑文集」。事故に遭い骨折するという不運に見舞われたので(それは半分くらいこの本を買いに行ったせいでもあるけど)、気分が沈んでいたのだけれど、村上春樹の文章はそういったときに不思議なくらい染み込むように良く響く。メカニズムはわからないけれど、とにかく僕にとってこの作家は特別なものなのだと再認識した。たとえハルキストと揶揄されようとも。

 

 

 

アンネの日記 (文春文庫)

アンネの日記 (文春文庫)

 

 ■8冊目 「完全版 アンネの日記アンネ・フランク

「夜と霧」の映画と本で描かれたユダヤ人虐殺の悲惨さから、この少女が辿った運命を想像すると息が苦しくなる。この日記に書かれているのは、聡明で前向きなひとりの少女の日常だ。隠れ家で他人との同居生活を送り、終わりの見えない戦時下においても、希望とユーモアを失わず自分の輝かしい将来と才能を信じ文筆活動をやめなかった、その強さは確かに後世に伝わった。だからと言ってまだ彼女が人々の心の中に生きているとは言いたくない。彼女は人類の愚行に押し潰されてしまった。その損失は、この日記の存在よりも小さかったはずはないのだから。

 

 

村上朝日堂はいほー! (新潮文庫)

村上朝日堂はいほー! (新潮文庫)

 

 ■9冊目 「村上朝日堂はいほー! 」村上春樹

 読んだことがあるような無いような。手持ち無沙汰になるとすぐに村上春樹のエッセイを読んでしまう。後述する「ジェノサイドの丘」と同時に読んでいて、そちらがあまりにヘビーだったので良い箸休めになりました。

 

ジェノサイドの丘〈新装版〉―ルワンダ虐殺の隠された真実

ジェノサイドの丘〈新装版〉―ルワンダ虐殺の隠された真実

 

 ■10冊目 「ジェノサイドの丘〈新装版〉―ルワンダ虐殺の隠された真実」フィリップ・ゴーレイヴィッチ

2018年で、読んでる最中の衝撃が大きかった本。

国営ラジオは「妊婦を殺すときは胎児を引きずり出してから殺すように」とがなり立てている。昨日まで夕食を分け合った隣人が曲刀を振りかざし殺しに来る。難民キャンプで餓死する女性と子どもたちと、救援物資で肥え太る虐殺者たち。百万人もの人間が虐殺された。ユダヤ人のようにシステマティックに殺されたのではなく、国民が国民を殺した。全部真実で現実だ。遠い国の惨劇など僕達には関係がない、未開の野蛮人たちが勝手に殺し合っているだけだ。果たしてそうだろうか。今日もどこかで誰かが殺され、僕らは知らずに生きている。

 

 

メキシコ麻薬戦争: アメリカ大陸を引き裂く「犯罪者」たちの叛乱

メキシコ麻薬戦争: アメリカ大陸を引き裂く「犯罪者」たちの叛乱

 

 ■11冊目 「メキシコ麻薬戦争: アメリカ大陸を引き裂く「犯罪者」たちの叛乱」 ヨアン・グリロ

 市井の人々がどのようにして麻薬カルテルの抗争に巻き込まれていくのか非常に参考になった。翻訳者が原著の凄惨な描写をマイルドな表現に代えた、あるいはカットしたらしく、それがとても残念。多くの人に読まれるための配慮なのかもしれないけれど、真実は歪めるべきではないし、原著作者の思いを踏みにじる行為に近い。とはいえ、マイルドに代えられていたとしても、メキシコの麻薬戦争の悲惨さには目を覆いたくなる。メキシコの麻薬カルテルを舞台にした小説を書こうと思って本書を読んだけれど、現実をフィクションに落とし込むには、しばらく時間をおいて咀嚼する必要がありそうだ。

 

盤上の夜 (創元SF文庫)

盤上の夜 (創元SF文庫)

 

 ■12冊目 「盤上の夜」宮内 悠介

 どうしても小説を読むときに作者がどういう技法を使ってどういう意図で書いたのか、ということを頭の片隅で考えてしまうのだけれど、この作品はいくら考えて見てもそれが全く見えてこなかった。あるいは単純に作品が面白すぎたのかもしれないけれど、ここまで意図が巧妙に隠された小説を読むのも久しぶりだ。そしてこれが新人賞受賞一作目というのだからさらに驚く。

ボードゲームを題材にした小説はあまり知らない。競技者の人生、AIとの戦い、競技の成立の偽史など様々な方面で描く巧みさもありつつ、純粋な競技描写も面白い。ボルヘスっぽさもあり、SFっぽくもあり、ボードゲームという枠組みの使ってこのようなスリップストリーム文学を書くのはちょっと信じられないくらいの筆力だ。今ではすでに三島由紀夫賞を受賞、直木賞芥川賞候補にもなっているので、いまさら注目するのは遅いかもしれないけれど、他の著作も是非目を通したい。

 

村上ラヂオ (新潮文庫)

村上ラヂオ (新潮文庫)

 

 ■13冊目 「村上ラヂオ」村上春樹

 スペイン旅行中、長いバスの旅の間に読んだ。気軽に読めて気分転換になりますね。

 

コインロッカー・ベイビーズ(上) (講談社文庫)

コインロッカー・ベイビーズ(上) (講談社文庫)

 
コインロッカー・ベイビーズ(下) (講談社文庫)

コインロッカー・ベイビーズ(下) (講談社文庫)

 

 ■14冊目 「コインロッカー・ベイビーズ(上)」村上龍

 ■15冊目 「コインロッカー・ベイビーズ(下)」村上龍

キクが刑務所に入ってからが面白い。つまり下巻からが面白いことになるわけだが、上巻は非現実的で下巻はリアリズム的だからではなかろうか。上巻は存在し得ない近未来の狂った東京のイメージが強過ぎて今読むと食傷気味にも感じられるが、下巻からようやくコインロッカー・ベイビーズであるハシとキクの自分自身の物語が始まり、村上龍が上巻から巧妙に仕掛けていた周到な物語が実を結ぶ。破壊=外部に救いを見出したキクと、自閉=胎内のイメージを最期に見出したハシ。この小説をこんな風に締めることは、普通は出来ない。

 

ドン・キホーテ 全6冊 (岩波文庫)

ドン・キホーテ 全6冊 (岩波文庫)

 

 ■16冊目 「ドン・キホーテ〈前篇1〉」セルバンテス

 ■17冊目 「ドン・キホーテ〈前篇2〉」セルバンテス

 ■18冊目 「ドン・キホーテ〈前篇3〉」セルバンテス

 ■19冊目 「ドン・キホーテ〈後編1〉」セルバンテス

 ■20冊目 「ドン・キホーテ〈後編2〉」セルバンテス

  ■22冊目 「ドン・キホーテ〈後編3〉」セルバンテス

新婚旅行にスペインに行ったのだけど、至る所にドン・キホーテと従士サンチョの銅像が建っていたり(もちろんそれは訪れた場所が観光地だったからだろうけれど)、土産屋にはドン・キホーテの置物が売られたりしていて、それ程までに愛されている作品なのかと驚き、帰国してすぐに全巻買った。

世界で聖書の次に読まれているとのことだけど、およそ「普通の物語」では無い。メタフィクション的構造をとり、社会風刺や当時の流行小説のパロディに満ちている。一見するとなぜこの小説が世界的に通読されているのか分からないけれど、読み進めるうちにこの小説の面白さというか笑いどころは現在においても理解できることが分かってくる。「笑い」というのは物凄く批評的な行為であり、「普通」からあえて外すことで現実から異化されて笑いが生まれる。狂人ドン・キホーテの周りに普通の人間を配置するだけならこれほど面白くはならなかっただろうけれど、普通なようで普通では無い従士サンチョの存在がこの小説を現代にまで生き長らえさせているのではないか。

しばらく時間をおいて書かれた後編においては、前編の内容が作品世界に知れ渡っているというメタフィクションになっているが、人々がドン・キホーテをからかう様が行きすぎているというか、やりすぎなんじゃないのと思えてあまり好きになれなかった。

 ■21冊目 「難しいことはわかりませんが、お金の増やし方を教えてください!」山崎元,大橋弘

  Amazon kindleの格安契約期間に読んだ。ほとんど知っているような知識だったが読みやすくてわかりやすいので、最初に読んでおけばよかったかもしれない。今更読む必要はなかったですね。

 

コンテナ物語―世界を変えたのは「箱」の発明だった

コンテナ物語―世界を変えたのは「箱」の発明だった

 

 ■23冊目 「コンテナ物語―世界を変えたのは「箱」の発明だった」マルク・レビンソン

一見してただの鉄の箱でしかないコンテナがいかに世界の経済を塗り替えたのか、コンテナを「発明」した人間の生涯から物流の歴史まで、丁寧に物語っている。物流の革命が、金の流れの変化を生み出し、街や人々の生活までダイレクトに繋がっていく様がよくわかる。なぜ僕たちは地球の裏側の製品をAmazonで買うことができるのか? どうして巨大な工場を海の近くではなく内陸の田舎に建てることができるのか? 今まで疑問にも思わなかったことの裏側にあったこの物語は、ただの鉄の箱が主役なのに驚くほどスリリングだ。

 

 

 ■24冊目 「人工知能は人間を超えるか ディープラーニングの先にあるもの」松尾 豊

人口知能をテーマにした小説を書こうと思い、本書が入門として最適と目にしたので手に取りましたが、確かにこの本が一番網羅的かつ分かりやすい。 猫も杓子もAIな時代において、技術的な理解というのが大事なのだと改めて認識しました。

 

人工知能のための哲学塾

人工知能のための哲学塾

 

 ■25冊目 「人工知能のための哲学塾」松尾 豊

 人工知能をつくるためには、そもそも人間の知能とは何か、という命題に挑まなければいけない。これまでに組み上げられてきた哲学の体系を技術的に落とし込んでいくのはとても面白かったし、そのプロセスによって難解な哲学理論が理解しやすくなりさえした。

 

多動力 (NewsPicks Book)

多動力 (NewsPicks Book)

 

 ■26冊目 「多動力」堀江貴文

 言ってることは分かるけれど、どう考えても真似は出来ないなという感想。バイタリティの違いですかね。

 

 ■27冊目 「トコトンやさしい人工知能の本」

 そんなにやさしくなかったです。最先端の技術ワードを簡単に説明しようとしてむしろ難しくなっているような気がしないでも無い。

 

シンジケート

シンジケート

 

 ■28冊目 「シンジケート」穂村弘

 穂村弘以前/以後という時代区分をされてしまうほど、穂村弘の短歌はセンセーショナルでラディカルだ。このデビュー作で短歌の歴史を変わってしまうほどクールで、現在においても穂村弘のフォロワーはそこここに散見される。このシンジケートのあとがきとして収録されている短い散文は短歌に匹敵するほど衝撃的だった。短歌という枠組みに限らず、言葉に対する感覚、リズム、世界の切り取り方が卓抜していることがよくわかる作品。

 

小説家という職業 (集英社新書)

小説家という職業 (集英社新書)

 

 ■29冊目 「小説家という職業」森博嗣

 再読。森博嗣っていくらぐらい稼いでるんだっけ、ということを思い返したくなった。

 

武器よさらば (新潮文庫)

武器よさらば (新潮文庫)

 

 ■30冊目 「武器よさらばアーネスト・ヘミングウェイ

 高校生の頃に「老人と海」を読んだ時にはぴんとこなかったが、大人になってからヘミングウェイを読むとハードボイルドな文体が心地良い。

 

すべてがFになる (講談社文庫)

すべてがFになる (講談社文庫)

 
冷たい密室と博士たち (講談社文庫)

冷たい密室と博士たち (講談社文庫)

 

 

笑わない数学者 MATHEMATICAL GOODBYE (講談社文庫)

笑わない数学者 MATHEMATICAL GOODBYE (講談社文庫)

 

 

詩的私的ジャック (講談社文庫)

詩的私的ジャック (講談社文庫)

 

 ■31冊目 「すべてがFになる森博嗣

 ■32冊目 「冷たい密室と博士たち森博嗣

 ■35冊目 「笑わない数学者森博嗣

 ■36冊目 「詩的私的ジャック森博嗣 

 再読。最後に読んだのは高校生くらい? 犯人は覚えていてもトリックはいい感じにうろ覚えなので楽しいですね。科学技術に関しては今見ても古臭く無い、というかVRなどは現実の方がようやく追いついてきたくらいなので世界観がどれだけ先進的だったか改めて驚きます。むしろ、バスや施設内など公共の場で喫煙するシーンや平気で飲酒運転するあたりに時代を感じます。

 

エレンディラ (ちくま文庫)

エレンディラ (ちくま文庫)

 

 ■33冊目 「エレンディラガルシア・マルケス

滅びゆく港の漁村が繰り返し登場する。漁村は蟹に侵食されていたりシンプルに海に沈みそうになっていたり、天使と称される小汚い羽の生えた中年男性が漂着したりする。夢か現実か分からなくなるような御伽噺のような、それでも南米ならありえる話だよなと思ってしまうのは場の力でしょうか。

 

往復書簡 初恋と不倫

往復書簡 初恋と不倫

 

 ■34冊目 「往復書簡 初恋と不倫」坂元裕二

 2018年に読んだフィクションで1番面白かった。小気味いいリズムで牽引される会話劇の妙が素晴らしいのはもちろんだが、行間に無数の物語を想起させる力が凄まじい。身近な日常を描いていたと思ったら、急に不穏な描写が差し込まれて緊張が走る。最後に非現実的な着地を見せるのがちょっと残念だけれど、それを差し置いても有り余るほど素晴らしい「小説」でした。

 

紳士靴を嗜む はじめの一歩から極めるまで

紳士靴を嗜む はじめの一歩から極めるまで

 

 ■37冊目 「紳士靴を嗜む はじめの一歩から極めるまで」飯野 高広

突如として革靴にハマりました。この本はいきなり人間の足の骨の図から始まるほど基礎中の基礎を解説しており非常に勉強になりました。

 

Effective C++ 第3版 (ADDISON-WESLEY PROFESSIONAL COMPUTI)

Effective C++ 第3版 (ADDISON-WESLEY PROFESSIONAL COMPUTI)

 

 ■38冊目 「Effective C++ 第3版 (ADDISON-WESLEY PROFESSIONAL COMPUTI)」ス コット・メイヤーズ

 C++の聖書とまで言われているだけあって非常にためになることが書かれています。日々の業務ですでにノウハウとして身につけていることも多く「そうだったのか!」と目からウロコが落ちるとまではいきませんでしたが。情報系の学生なら、学部生のうちに読んでいるのでしょうね。

 

■39冊目 「ヴァリスフィリップ・K・ディック

 まさに怪作というかもはやほとんど小説の体を成していないのではと思えるくらい奇怪な小説。この教義というか「狂義」にどこまで付き合えるか?という問題な気がする。

 

バビロン 3 ―終― (講談社タイガ)

バビロン 3 ―終― (講談社タイガ)

 

 ■40冊目 「バビロン 3 ―終―」野崎まど

 終わらないんかい!という感想はもはやネタバレでしょうか。外連味のある文章は非常に好みであり、終始不穏なトーンが物語をぐいぐい牽引しており、一気読みしてしまった。しかし予想を裏切る展開とまでいかなかったのが残念。

HHKB lite2 for Macを購入したら導入にものすごく苦労した件について

大学生の頃に購入したMacBookPro 2011を今までずっと使用してきたが、さすがに動作が重くなりまともにインターネット鑑賞もできなくなってきた。文字をタイプしても反映されるまでに1秒程度のラグが生じるようになり、小説を書くのにも支障が出てきたのでいよいよ買い替えを決心した。

TouchBarに魅力を感じないので最新のMacBookPro2018ではなく2017モデルを購入した。動作は劇的に早くなったが、2011モデルのキーボードとのタッチの違いにどうしても慣れることができなかった。いちおう物書きを自称しているのにこれは致命的だった。あまり気が進まなかったが、外付けキーボードを購入することにした。

薄型にするための機能(バタフライキーボード)のせいで余計な外付けインターフェースを使うのは本末転倒な気がするけれど……。

 

ネットで評判が良かったHHKBのlite2 for Macキーボードを購入したのだけれど、導入するまでにもう心が折れそうなくらい大変だった。正直に言って家電量販店に返品しようかと本気で思ったし、本当に店の前まで持って行きさえした。カスタマーセンターの対応が丁寧だったので、なんとか導入まで頑張ることができた(結局自力で解決したけど)。HappyHackingの名はダテではなく、ハッカーでもない自分は使うことすら許されないのかと思った。

せっかく苦労したので、どのような解決方法を試したのか残しておこうと思う。

 

■環境

PC:MacBookPro2017

OS:HighSierra 10.13.6

 

■現象

まずは公式サイトから最新のデバイスドライバ(Ver.3.0.1)をダウンロードしインストールを行ない、キーボードを接続した。専用のキー割り当てツールが[システム環境設定]から起動できるようになったが、ツール上でキーボード入力を認識しない。日本語キーボードの文字設定画面が表示されるはずが、英語キーボードとして表示されている。

適当なテキストエディタに文字を入力してみると、どうやらJISキーボードではなく英キーボードとして認識されているらしく、「Kana」キーや[HH]キーの入力を受け付けず左コマンドキーは「`」(バッククオート)として入力される。

 

■やってみた対処方法

⑴ まずは公式サイトのFAQに沿って試してみた

どうもQ7の「High Sierra(10.13.1)で、Mac用ドライバーをインストールしたにもかかわらず、刻印どおりに入力できません。」と同じ現象のように思われる。

→しかし、「セキュリティとプライバシー」には何もブロックされた様子はなかった。

 

⑵基本的事項の確認

・キーボードを接続しているUSBポートの問題かと思い、別のポートで試してみた

 →効果なし。

・セーフブートで起動し、アンインストール→インストールを実施

 →効果なし

・「システム環境設定」→「キーボード」でキーボードをJIS認識させた状態でインストールを実施

 →効果なし

 

⑶正常認識させるのはあきらめてキーボードのリマップツールを使用する

ネットで調べてみたら、同じような現象に悩んでいる人がけっこうおり、Karabiner-elementsというキーリマップソフトで機能を補っているようだった。

なので、同じようにKarabiner-elementsをインストールしてみたが、どうも思うようにリマップされない。HHKBのキーボードドライバと競合しているのかと思って、ドライバをアンインストールしても、やはりリマップされない。Karabiner-elements側がHigh Sierraに未対応という情報もあったが、公式では対応されていると書いてあり、情報が錯綜していた。

 

⑷OSのバージョンをダウングレードする 

購入した時のOSが10.13.4だったので、Time machineのバックアップで戻してみた。

→効果なし。Karabiner-elementsを試してみたが、やはり正常に動作しない。

 

⑸HHKB(PFU)のカスタマーセンターに問い合わせる

自力での解決は諦めて、HHKB(PFU)のカスタマーセンターに問い合わせてみた。問い合わせてみると次の日の朝には返事が来た。上記の通りすでに試した対処方法を提示されたけれども、メールで再問い合わせしてみると、翌日朝にはリプライがあった。

IO情報の出力と、ターミナルで以下のコマンドの実行を試してみてはどうか、と提示された。

sudo kextutil -nt /Library/Extensions/HHKeyboard.kext

実行してみると、以下の結果が表示された。

Kext rejected due to insecure location: <OSKext 0x7ff40c910e10 [0x7fff8883daf0]> { URL = "file:///Library/StagedExtensions/Library/Extensions/HHKeyboard.kext/", ID = "jp.co.pfu.driver.HHKBLite2" }
Kext rejected due to insecure location: <OSKext 0x7ff40c910e10 [0x7fff8883daf0]> { URL = "file:///Library/StagedExtensions/Library/Extensions/HHKeyboard.kext/", ID = "jp.co.pfu.driver.HHKBLite2" }
Diagnostics for /Library/Extensions/HHKeyboard.kext:

どうもセキュリティで弾かれているようだ。

そしてkextutil実行時に「機能拡張がブロックされました」というメッセージが表示されたので、「セキュリティとプライバシー」画面にてブロックを許可してみた。

→しかし、やはりキーボードは正常認識されなかった。

 

⑹ふたたび、自力で調べる

カスタマーセンターへの問い合わせと並行して、自力で調べてみた。

Kext rejected due to insecure location」で検索してみると、日本語の解説はほとんど見つからなかったが、海外のFAQサイトにおいてSystem Integrity Protecton (SIP)が原因ではないかという書き込みを見つけた。

 

■最終的な解決方法

System Integrity Protecton (SIP)の無効化し、ドライバのアンインストール→インストールを実行したら、正常にJISキーボードとして認識されるようになった。

SIPの無効化方法については色々解説サイトがあるのでみてください。

外部インターフェース全般のドライバの不正認識の問題についての解説ページにはSIPについて書いてあったりするけれど、キーボードに限定するとと少なくとも日本語の解説ページには情報が見当たらなかった。

 

OSが新しくなるとサードパーティデバイスドライバは苦労するけれど、これほどまでに苦戦するとは……。

あとは、結局自力で解決できたけれど、カスタマーセンターの対応には感動した。僕が勤めている会社でも度々ユーザからの質問が飛んできて最優先で対応しているけれど、さすがに次の日の朝には回答できない。弊社のカスタマーセンター窓口は技術者ではないので、窓口→フィールドエンジニア→開発技術部(僕のところ)と質問が降りてくるまでに最低でも1日くらいのタイムラグが生じてしまう。きちんと窓口と技術者が通じている(もしくは技術者自身が窓口になっている)のだろう。さすがである。

キーボードを使用するまでの過程でけっこうMacのドライバ周りについては詳しくなれた。仕事でWindowsデバイスドライバの開発は関わったりするけれど、Macについては無知だったので良い勉強になった。

この記事もHHKB lite2 for Macで書いた。内臓キーボードよりはるかにタイプしやすい。廉価版なのでタイプ音は大きいけれど、家で使う分には問題ない。

これでガシガシ小説を書いていく予定です。

 

 

いまさら自作について「こどもの国」

 

「こどもの国」について。

 

半年前の作品なので「いまさら」と言うべきではないかもしれないけれど。

特殊な教育施設を舞台にした物語を作りたいとずっと思っていた。孤児院の話を書いてボツにしたこともあったのでこの作品はそのリベンジとも言える。

この作品はタイトルから思いついたというか、まず最初に仮題として考えていたものをそのままタイトルにした。「こどもの国」は僕が実際に通っていた幼児教育機関の名前だ、と思う。うろ覚えなので確かとは言えないけれど。

小説の中では「こどもの国」はエリート教育のための歪んだ隔離施設となっているけれど、もちろん僕の通っていた現実の「こどもの国」はそんな胡散臭いものではなくて、ちゃんとしたモンテッソーリ式の幼児教育施設だった。

将棋棋士藤井聡太七段の活躍によってモンテッソーリ教育がにわかに注目され、そういえば僕もそんな教育を受けていたことを思い出した(連勝記録を更新していた頃、東海地方のローカルニュースでは毎日のように藤井七段のニュースが流れていた)。

幼い頃にUFOに連れ去られたんじゃないだろうかと思うくらいに小学生以前の記憶をことごとく失っているので、具体的にどんな教育を受けたのかは覚えていない。先生の為に手回しのコーヒーミルで豆を挽いていた記憶だけがぼんやりとあるが、それは別にモンテッソーリ教育とは関係ないだろう。

大学生の頃のバイトでものすごく頭の良い小学生たちに勉強を教えていたことも影響しているかもしれない。高校三年生で習うような微積やベクトルを10歳に満たない子どもたちが解く様子を見てきた。

僕としては頭の良い子どもは(少なくとも頭の悪い子よりも)好きだし、幼児教育についても別に反対的な立場にはないのだけれど、どうしてこんな小説を書いてしまったのかはわからない。本当に。嘘ではないです。

 

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科学技術は人類の進歩だけではなく暴力や惨禍も間違いなく生み出してきたはずだし、科学の発展と戦争の歴史は切り離せない。マンハッタン計画では世界最高峰の科学者たちが結集して人類最悪の核兵器を誕生させた。フィクションみたいな「悪の科学者」だってきっと実在するだろうし、そうでなくても知性を悪用する人間なんてこの世にはたくさんいる。

悪意。

道徳心は後天的に教育される。家畜を殺して食べることは悪ではないが、愛玩動物を殺すことは悪だとされる。それはなぜか? 大人になるにつれて善悪のラベリングは出来るようになったけれど、社会が変わればラベルの見方は変わる。戦争になれば人殺しだって正当化される。そう考えると善悪の基準なんて子どもには無用なのではないか。

とはいえ本作の主人公たちは「なんだかとても悪いことがしたい」と言っているので、自分の行為が「悪」に分類されることを自覚している。悪への指向性は善に向かうそれよりも強い。一般的には善いとされることをするよりも悪いことをする方が快感だろう。僕はとにかく無邪気に悪い子どもたちを書きたかった。

今作のカメラワークというかストーリーテーリングはまたしても海外ドラマの「ブレイキングバッド」シリーズとその続編である「ベターコールソウル」シリーズに影響を受けている。善良だったはずの人々が思いがけず悪行に手を染める、という物語性にはそれほど影響されていないけれど、登場人物の行為が連鎖していく面白さみたいなものは取り入れたいと思った。

僕としてはよく書けた作品だと思っているけれど(それは単に最近書いたからかもしれない)、どうやらあんまり読者からの評価は芳しくない気がする。多分主人公たちがあまり好きになれないからではないかと思う。まあ、いけ好かない小賢しいガキを好きになるほうが難しいのかもしれない。

僕としては別に登場人物が好きになれなくったって面白い小説は面白いと思うのだけれど、魅力のある人物というのはやはり重要だし、主人公たちの行為の正当性みたいなものをきちんと描くべきだったと反省している。「ブレイキングバッド」でも、主人公のウォルターの悪行はやむを得ず追い詰められた末の行為として丁寧に描かれているから、どれだけ残虐な人間になっていってもウォルターを(ある意味では)応援したくなるのだろう。

僕としては徹頭徹尾悪い子どもを描きたかったのでその点では悔いはないけれど、そもそもコンセプトが悪かったかもしれない。僕の好みが一般的なものとは乖離していたということで……。

 

表紙絵は今までとはだいぶ印象が異なったダークなものとなっていて、前作の「硝子と眼球」のダークさとはまた違ったものになっています。これはlaicadogさんによる意図的なもので、既刊を並べたときに印象が平坦にならないようにという工夫です。そういう発想が僕には全く出てこないので非常に助かります。文芸書っぽい書影になり大変気に入っているので、僕としてはもっと売れてもいいんじゃないかと思っているのですが…。

いまさら自作について「硝子と眼球」

 

 

「硝子と眼球」について。

 

社会人生活が忙しかったせいもあるが、長いこと小説を書き上げることが出来なかった。全く書いていなかったわけではなく、ボツになった長編小説が2作ほどある。高校教師がロックスターを育てる話で、原稿用紙100枚くらい書いて面白くならなかったのでボツにした。長編を書き上げるためのモチベーションを保つことが出来なかったのは主人公に感情移入できなかったせいかもしれない。感情移入出来なくてもストーリーが面白いと確信していれば続けられたけれど、どうも面白く出来なかった。

これは良くないなと思い、否が応にも書き上げるために2年ぶりに文学フリマに申し込んだ。締め切りを決めてしまえば書くしかない。結局追い込まれないと成し遂げられない性分なのかもしれない(この性分は早急に直さないといけない)。ジャンルをミステリにしたのには、特に理由はない。

高校生の頃は講談社ノベルスを中心にミステリをよく読んでいた。好きだったのは森博嗣米澤穂信殊能将之連城三紀彦など。翻訳の古典ミステリも有名作には目を通した。だんだん読まなくなっていったのは、正直に言って小説としてのテクニックが上手くない作家が多すぎるからだ。謎解きばかりが重視されて文章レベルが低い作品が世に溢れすぎている。小説や文学としての面白さを求め始め、次第にSFや純文学に興味が移っていった。

 

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だから、ミステリを書くとなったときにパズル的な謎解き小説を書こうとは思っていなかった。だいたい、そんなものは書けそうにない。ちょうどその頃海外ドラマのハンニバルにハマっていた。ミステリというよりはサスペンスだと思うが、人の死因を調べるよりかは生きている人間の生命が脅かされる方が面白い。だから主人公が命を狙われたり、主人公に捜査の疑いが向けられるといったストーリー展開にしたいと思った。

長編にしてもう少し丁寧に描写すればもっと面白くなったと思うけれど、僕の技術が未熟だったので上手くいかなかった。そういう意味では、この作品は悔いが残ってしまっている。登場人物ももっと魅力的に描きたかった。やはり殺人鬼は魅力的でなければつまらない。

物語の着想としては、眼球を集める殺人鬼というイメージがまず生まれた。「なぜ眼球を集めるのか?」というのを考えながら書いていた。

うーん、ダメですね。ああすればよかった、とか、こうしたらもっと面白くなったのに、とかしか感想が出てこない。とはいえ、ストーリー展開的には今までにないものが描けたような気がしていて、スリリングさの演出に関しては次作の「こどもの国」に活かされていると思う。

表紙絵はかなりインパクトがあって、僕も気に入っています。文学フリマでも最初に手を取られるのはこの作品である傾向が強かったりする。絵に負けないくらいインパクトの強い小説を書けるように精進します。

 

いまさら自作について「紫陽花が散らない理由」

 

 

「紫陽花が散らない理由」について。

 

この小説は「恋愛小説を書く」というミッションのもとに生み出された。書き始める前に文学フリマの出展ジャンルを「恋愛」にして退路を断つ、ということまでしている。そもそも僕は恋愛小説を読まない。恋愛要素が含まれている場合はあっても、真っ向から恋愛を描いたような小説は読まないし、そういった映画や漫画も好んでいない。

世の中の恋愛フィクションは関係性の物語だと思う。特に女性作者の作品はそれが顕著だ。男性作家が書く恋愛は、結局のところ自分自身の事しか書かれないことが多い。たとえば新海誠村上春樹の作品を思い浮かべてほしい。「ノルウェイの森」は物語開始時点で相手は死んでいるし、関係性というよりは直子や緑を通した自分自身の物語が描かれる。もしかしたら男性には女心というものが本質的に理解できないからそうならざるを得ないのかもしれない。なんの根拠もない適当な憶測だけれど。

 

ともかく、興味もあまりないし恋愛というもの自体が何なのかよくわかっていない(結婚した今もよくわからない)のに、恋愛小説を書こうと思ったのは友人に勧められたからだ。

「お前が恋愛を描いたら、何か珍妙なものが出来上がるんじゃないか」

確かにそうかもしれない。そう思って書いてしまった。

とはいえ、やはり恋愛のことは何だかよくわからないので、主人公が相手のことを好きかどうかわからないという物語を書くことにした。主人公を女性にしたのは、どうせ何かよくわからないのならば、徹底的によくわかっていないものにしてしまえ、と思ったからだ。女性のことはわからないし、女性が男性を好きになるという感覚もよくわからないけれど、よくわからないほうが想像を膨らますことができるのではないか、と思った。よくわからないものを書こうとするとき、僕は主人公を女性にしがちである。

結果、最後まで「恋愛が何かわからない」「相手のことが好きなのかどうかわからない」というままで終わってしまった。まあでもそういう恋愛小説があってもいいのではないかと僕は思う。むしろもっと混迷とした小説にしてもよかったかもしれない。次に恋愛小説を書くとしたらそもそも相手を好きにならない恋愛小説を書きたい。そのほうが面白そうだ。事件が起こらないミステリ小説もあるのだから、恋愛が発生しない恋愛小説があってもいいはずだ。そのジャンルは森見登美彦が開拓しているけれど、他にあまりないような気がする。

 

この小説もタイトルから思いついた。会社の敷地に紫陽花が植えられていて、雨季が過ぎても散らずに残っていた。その姿は正直に言ってあまり美しいものではなかった。どうして紫陽花の花は散らないのだろう、と疑問に思い調べてみたら、中々面白い理由だった。そのときには特に小説の題材にしようとは思っていなかったけれど、恋愛小説を書こうと決めた後にふとそのことを思い出してタイトルにすることにした。

この小説は社会人になってから初めて書いた作品である。学生の頃は時間的に自由度が高かったので好きなときに集中して書き、気が乗らないときにはだらだらとしてしまうことが多かったけれど、社会人になってからは平日に帰宅した後だと1時間から2時間程度しか自由な時間が取れず、計画を立てて書く必要に迫られた。

結果的には、一日に決められたページ数を書き続けるスタイルは僕の性に合うようだ。村上春樹森博嗣も同じ執筆スタイルだと知ったのは後になってからだった。気分が乗ってきたときに一気に書き上げると物語をコンパクトにまとめがちになってしまうが、一定のペースで書くようになってからは作品世界をじっくり考えることができるので合計枚数が多くなった。

 

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今まで登場人物にキャラクター性をあまり持たせなかったけれど、この作品はあえて意識して人物性の肉付けを行っている。やはり恋愛小説を目指すからには人間同士が関係する必要があるだろうと考え、作者の自問自答では駄目だと思った。塔子も南も小松くんも千鶴も全員どこか普通ではない一面があるのは、ふつうの人は普通ではない何かを多少なりとも持っているはずだという考えに基づいている。仮に徹頭徹尾普通な人間がいるとしたらある意味それは普通ではないので、やはり「普通」なんてこの世に存在しないことになる。

たいてい自分の書いた小説は読み返しても楽しくないというか物語のすべてを把握しているので面白くないのだけれど、この作品は今読んでも面白いと思える。それは前述したキャラクター性のおかげかもしれない。

 

登場人物と同じく、舞台を実在する鎌倉の街にすることによってリアリティを出そうと思った。この小説を書く少し前に鎌倉に一人旅していたので、その記憶を頼りに書いている。

住んでいる名古屋を舞台にしなかったのは、街が想起させるイメージが乏しいと思ったからだ。たとえば新宿駅で主人公が電車を待つ、と描写したときに、東京に住んでいる人でなくても何となく思い浮かべるイメージがあると思う。それが名古屋の本山駅に移したら「どこそれ?」となってしまう。もちろん長編で丁寧に描写すれば十分に街のイメージを作り上げられるだろうけれど、それはもう架空の街をひとつ作り上げるのとあまり変わらない。

あとは紫陽花=鎌倉のイメージが強かったのも舞台として選定した理由である。そうやって街自体が何かのイメージと強固に結びついているとフィクションとしては非常に扱いやすくなる。名古屋で思い浮かべるのはせいぜい味噌とドラゴンズくらいだろう。そういった残念な(失礼)イメージを払拭するのはかなり難しい。

名古屋は文化的なイメージが無いし、これからもそんなイメージは生まれないのではと思う。名古屋を舞台にした美しいフィクションがあるとしたら、その作者は天才だろう。

いまさら自作について「わたしの庭の惑星」

「わたしの庭の惑星」について。

 

2012年、大学4年生の時に表題作を書いた。小説を書くときにはタイトルがまず最初に思いつくパターンと、漠然と頭の中にあった『書きたいこと』が凝り固まって物語を書き始めて最後にタイトルを決めるパターンがある。これは前者だった。

たぶん大学構内を歩いているときか、図書館か本屋をうろついているときか、風呂に入っているときか、自転車に乗っている時に思いついたと思う。なぜならそれ以外に思いつく機会がほとんどないからだ。おそらく大学図書館の前を歩いてるときだったような気がする。

タイトルが思い浮かんでから、しばらくその意味を考えていた。「わたしの庭の惑星」とは一体なんだろう? 庭にあるのに惑星というのは矛盾している。「手のひらの中の宇宙」みたいだ。最初は惑星という言葉に囚われて、本物の惑星をもとにハードなSFを考えてみたけれどしっくりこない。なにせ庭にあるのだから惑星ではないし、惑星そのものがあるのではなくて、たとえば庭にワームホールのようなものが開いて宇宙にワープできるというのも面白くない。

いっそ惑星でなければ良いのではないか、と思いついたときに一気に物語が広がった気がした。「わたし」が「惑星」と呼ぶ何かが「庭」にある物語。さらに言えば主人公は「わたし」でなくてもいいのではないか。こんなふうに最初の着想からあえて足を踏み外したときにアイデアが湧き出るということはよくある。

この短編集の表紙絵についてもそうだった。「わたしの庭の惑星」を短編集の表題作にしようというのは最初から決めていて、laicadogさんから頂いた表題作の絵を表紙にしようと最初は考えていた。だがどうもしっくりこず、「別に表紙を表題作の絵にする必要はないのでは」と思い至って「水彩の街」の絵を表紙にしたらぴたりと来た。(「水彩の街」のカラーイラストを用意してくれていたので、たぶんlaicadogさんは最初からこちらのほうが表紙に相応しいと考えていたんじゃないかと思う)

この小説はそれまで使っていたWindowsのノートパソコンではなくMacBookを使用して初めて書いた小説だけれど、とくに道具の差はなかったような気がする。

この小説は大学の図書館の中で書いた。それまでは自室でしか書いたことがなかった。家で書くのも外で書くのも変わらないだろう、と思われるかもしれないが単に集中できるかどうかの問題である。図書館やカフェみたいな公共の場で物書きする行為に対して「気取っている」と思う人もいるかもしれないけれど、その場所がその人にとって集中するのに適しているかどうかだ。あえて気取ることで退路を断たれて集中できるのかもしれない。

得体の知れない巨大な物体が空に浮かんでいる、というイメージが湧いてからは、それが現実の出来事だとしたらどうだろうかと考えながら過ごした。街を歩きながら、空の上に巨大な球体が浮かんでいる様子を想像した。震災のあと、凄惨な映像がニュースで流れ続けていたせいか、街を歩いても現実感がないような感覚が僕の中にしばらくあった。自分がいまここにあるという感覚が希薄になっていたのかもしれない。そういった現実感の喪失や、巨大なエネルギーに飲み込まれる恐怖みたいなものを主人公に抱かせようと思った。

最初は連作短編にして、いろいろな人が「惑星」に取り憑かれるというのを考えた。もしかしたら今からそうしてもいいのかもしれない(気が向いたらそうしようかと思う)。小さな「惑星人」たちが球体から湧き出てきて街を支配するというアイデアもあった。とにかくいろいろなアイデアがあったけれど、文学フリマ用の短編にしようと考えていたので、原稿用紙50枚程度にまとめるためにアイデアを削った。

僕の小説が一番おもしろいのは自分の頭の中にあるときだと思う。着想を得たとき「自分は天才だ」と思うけれど、実際に書き出してみると全然大したことのないものになってしまうことが多い。「わたしの庭の惑星」は頭の中にあったイメージがそれほど劣化せずに書くことができたと思う。そういった自負があるからこそ表題作にした。

 

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もうひとつ、表紙絵になっている「水彩の街」について。

この小説は「雨雫の手記」というタイトルの失敗作(と思っている)の長編小説を短編にリサイズしたものである。「プロの小説家になるには長編小説を書かなければいけない」という強迫観念のもとに大学二年生の頃に書いた初めての長編小説だった。合計200枚ほどなので中編小説と言ったほうが正しいかもしれない。長編小説を書く力量がなかったので、短編小説を寄せ集めたみたいな不自然なものになってしまった。現在は公開していないが、一冊だけ出版して自室の本棚に戒めのように置いてある。僕としてはかなり切実な思いがあり、半年くらいかけてずっと集中して書いていた。

当時の僕は精神的にとても追い込められていた。大学が馴染めなかったことや、学業についていけないこと、小説家になりたいと思いながらも何も出来ていないことに対する苛立ちがその原因だったと思う。ノイズ・ミュージックのように起伏のない凪いだ世界に生きていたいと考えた結果、感情を剥奪された少女の話を書くことにした。主要な登場人物は二人で、お互いに理解し合えるのは世界に二人だけしかいない、そんなように見えつつも結局は誰とも理解し合えないという限界を書きたかった。書けなかったけれど。

「私たちはお互いに手をつなぐことは出来ない」

この頃の僕のテーマを表すとこうなる。しかし、物語に回答が出せず、登場人物を殺してしまった。結局のところ当時の僕には原稿用紙30枚ほどの短編をまとめるくらいの力量しかなかったので、冒頭の30枚はよく書けたけれど、残りはまとまらないものになってしまった。半年間ずっと同じ人物たちに付き合っていたので愛着のようなものがあり、最後には殺してしまったという申し訳無さもあって、短編にリサイズした。二人が幸福だった(ように錯覚していた)ところで物語を終わらせることで、彼女たちを閉じ込めた。この表紙の絵はそんな「切り取られた二人」が水槽の中を歩いている様子が描かれているようでとても気に入っています。