惑星間不定期通信

小説を書いています。本や映画の感想やその他なども書きます。

メキシコ旅行記 六日目「トラディショナル食堂」

 この日の仕事はとてもしんどかった。これまで順調だった実験に暗雲が立ち込め始めている。難しい局面を迎え、憂鬱な気持ちになる。

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作業をする筆者。ひどい猫背である。

 一方、体調の方は良くなっていた。食欲がだいぶ回復し、朝食にモーニングセットの干し肉を焼いたものを食した。昼食に食堂に行くと、得体の知れない物体が本日のメニューとしてディスプレイに置かれていた。

「これは一体なに?」と僕が尋ねると

「こいつはメキシコのトラディショナルな食べ物だ」とエルネストは答えた。エルネストに食べ物のことを尋ねると、だいたいいつもトラディショナルだと言われているような気がする。

 得体の知れない何かの正体はチレス・エン・ノガダと呼ばれる代表的なプエブラ料理だった。ピーマンにも似た大きな緑唐辛子に挽肉を詰め、クリームソースを掛けてくるみとザクロの種をトッピングした料理である。白・緑・赤のカラフルな色合いはメキシコの国旗をイメージしているらしい。味付けは甘く(!)、緑唐辛子の辛味と苦味、ザクロの酸味と甘みが挽肉の味と不思議なマッチングを果たしている。美味しいが、たぶん本当にもっと美味しい料理なんだろうな、と思ってしまった。所詮は研究所の食堂なので、素材の限界を感じてしまった。

 結局、ここ以外でこの料理を食べることがなかったので惜しいことをした。日本ではプエブラ料理は食べられない。日本に帰ってからメキシコ料理の店を探したけれど、タコスやワカモレくらいしか出さない料理屋ばかりで残念だ。メキシコにはもっと美味しい物があることが周知されるとよいのだけれど、やはり地理的に遠い国だと伝わらないのかもしれない。

「こいつもトラディショナルなフードだぜ」
 エルネストはそう言ってデザートを差し出した。この食堂にはトラディショナルなものしか出ないのだろうか。だとしたら外国人に優しい食堂である。
 デザートはポン菓子にチョコレートソースを掛けたものだった。米は食べないのに米菓子はあるというのは意外である。味は想像通りというか見た目通りというか、ポン菓子にチョコレートを掛けた味だった。


 昼食後もハードに働いて、ホテルに帰ったのは19時近くになってしまった。20時に夕食を食べに行く約束だったが、部屋に戻ると猛烈な眠気に襲われて午前2時まで眠ってしまい、また食べそびれてしまった。中々生活リズムというのは矯正できないものらしい。
 朝まで寝直すことも出来ないので洗濯した。メキシコに来てからは日本から持ち込んだ粉洗剤を使い、洗面所で洗濯をしていた。ホテルの部屋にはベランダがないので、部屋干しするしかない。メキシコはとても湿度が低いので部屋干しでもすぐに乾いてしまう。

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洗濯を行ったホテルの洗面所。可愛らしいタラベラ焼きのタイルで彩られている。


 洗濯は一時間ほどで終わってしまった。結局朝まで本を読むことにした。メキシコに持ち込んでいたのはドストエフスキーの『白痴』、中原中也の詩集と、ポール・オースターの『孤独の発明』、ボードレールの『悪の華』。詩集が多いのは文字としての日本語に触れたくなるだろうと思ったからである。『白痴』は読み終えていたのでオースターを読むことにする。

 オースターは最初に読んだ『幻影の書』が面白かったが『ムーン・パレス』はまあまあで、この『孤独の発明』も特別に面白いわけではないのだけれど、オースターの不思議な文章の魅力で読ませてしまう。どんな話だったかというと思い出せないのだけれど。


 旅行に持ってくる本というのは何が適しているのか、いつも悩むところではある。だいたい僕はそのチョイスが上手くないのではないかと思う。少なくとも機内にドストエフスキーを持ち込むくらいには上手くない。そこにきてオースターというのは、旅行先でも軽く読めてしまうので悪くないのではないかと思う。

 メキシコで読む中原中也の詩集というのも中々悪くないもので、メキシコのような日本から遠く離れた場所で日本語に触れる機会が少ないと一種の渇望状態に陥るのだけれど、中也の言葉が染み入るように響く。皆さんもメキシコに行くときは中原中也の詩集を持っていくと良いですよ。真似る人はいないかもしれないけれど。

 

九歳の子供がありました
女の子供でありました
世界の空気が、彼女の有であるように
またそれは、凭っかかられるもののように
彼女は頸をかしげるのでした
私と話している時に。

私は炬燵にあたっていました
彼女は畳に坐っていました
冬の日の、珍しくよい天気の午前
私の室には、陽がいっぱいでした
彼女が頸かしげる
彼女の耳朶陽に透きました。

 

中原中也「羊の歌」