惑星間不定期通信

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メキシコ旅行記 十四日目「ピラミッドの街、ふたたび」

 土曜日。休日である。

 昨日、エルネストにプエブラ行きのバスがどれなのか教えてもらっていた。先週乗って途中で降りたバスは実は間違っていなかったらしく、経由する道が違うだけで最終的にはプエブラに辿り着くのだということらしい。

 ということなので朝食の後にすぐバスに乗り込んだ。現在地を見失わないように地図から目を離さないようにしていたのだが、プエブラの中心街から2キロくらい離れた場所で終点だということで降ろされてしまった。

 街の中心を目指すまでの道のりで街の巨大さを実感する。チョルーラの街とは比較にならないほど栄えている。飲食店や市場だけでなく本屋などの文化的な店も多い。2軒ほど書店に入ってみたが、必ず店員に挨拶された。怪しまれているのだろうか。スティーブンキングのスペイン語訳が平積みになっているほか、南米らしくバルガス・リョサボルヘスの著作も見かけた。村上春樹は置かれていなかった。

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プエブラの中心から少し外れた国道沿い。中心から離れていてもチョルーラよりは都会である。

 プエブラは街全体が世界遺産に指定されているほど歴史が古く美しい街並みである。南米らしいのっぺりとしたパステルカラーの建物と、ヨーロッパ風の緻密な装飾が凝らされた建物が共存している。プエブラはメキシコ先住民族の生活圏をスペインが征服したのではなく、スペインが一から入植したものであり、秩序だった都市計画を基に造られている。通りが碁盤の目のようになっていることや都市の成り立ちなんかは京都のイメージに近いものがある。

 まず街を歩く人の多さに驚く。街の人口だけでなく観光客の数も相当である。地球の歩き方を抱えた日本人観光客をメキシコに来てから初めて見かけた。

 土産物屋が並ぶ歩行者天国を歩くと、物乞いが多いことに気付く。彼らは四肢のいずれかが欠損していており、それでも器用に楽器を演奏して身銭を稼ぐものもいれば、単純に道端で拝みながら寄付を募っている。チョルーラにも物乞いを見かけたけど、プエブラの街ではその数が圧倒的に多い。海外ではそういった物乞いというのは珍しくはないけれど、初めて見たときにはぎょっとしてしまった。彼らは僕に憐憫や同情ではなく、あるいは嫌悪でもなくて、罪悪感に似たものを想起させる。理由は分からないが、僕は彼らを見ると足早にその場を去りたくなるのだ。たぶんそういった現実は日本では目に入らないように覆われていて、僕自身も目を背けてきたからなのかもしれない。受け入れがたい現実というのは直視しがたいものなのだ、何事も。

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プエブラの中心街。ヨーロッパの町並みに近い。

 チョルーラの街にも教会が多いが、プエブラもあちらこちらに教会が散在している。日本でいうコンビニと同じくらい多い。休みだからか結婚式が執り行われているところもあり、ウェディングドレスを着た花嫁や楽器を抱えた少年隊をよく見かけた。入場するのに記帳を求められるところがあったので、職業欄にscientistと記載しておいた。嘘ではないはずである。

 

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街の中央に聳えるカテドラル。

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街の教会では結婚式が執り行われていた。新郎も新婦もかなりたくましい体型をしている。

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サント・ドミンゴ教会の金装飾。もっといいカメラで撮りたかった。

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砂糖菓子の家(左)。可愛らしいタイルの壁が特徴的。

 ガイドブックにも載っているようなサントドミンゴ教会やカテドラル、砂糖菓子の家といった場所を観光した。どれも日本では見られないようなものを見ることができたので良かったのだが、特に面白かったのは革命家セルダンの家だ。

  アキレス・セルダンは二十世紀初頭に起こったメキシコ革命で活動した革命家である。

 そもそもメキシコ革命とはどういうものか。革命と言っても十年以上続く長い戦いの中で、政権の交代があり複数の権力者たちが立ち現れては消えていくので複雑である。そのなかでもアキレス・セルダンは革命の初期に現れた人物だ。

 一九世紀後半にフランスの侵略を撃退し大統領の座についたポルフィリオ・ディアスはメキシコの近代化を行い、それに成功した。ディアスは外国資本を無原則に誘致し、それにより交通と通信のインフラを整えた。この時代、植民地への投資が世界的な経済トレンドとなっており、特にアメリカによる投資が大きかった。

 確かにメキシコ国は豊かになったが、それは国外の資本によるものであり、自国の資源を別の国に切り売りしていることにもなる。一部の資本家を除いて国内の労働者は次第に貧しくなり、貧富の差が拡大していった。

 そして、1907年、世界恐慌が起こる。アメリカで起こった金融危機は、アメリカの資本で成り立っているメキシコ経済にも大きなダメージを与えた。ディアス大統領に対する不満は頂点に達し、農園領主の中から対抗しようとする勢力が現れた。そして大統領選挙に出馬したのがフランシスコ・マデーロである。マデーロに同調してメキシコ各地で反乱が起こる。そしてプエブラ武装蜂起を起こしたのがアキレス・セルダンである。

 セルダンの蜂起は即座に鎮圧された。セルダンは自宅に突入してきた警官隊によって射殺された。その家が当時のままに保存され、残っている。

 当時のまま、というのは警官隊が突入してきたそのときのままなのだ。家自体はこじんまりとした昔の集合住宅であり、「ローマの休日」でグレゴリー・ペックが住んでいた家のような、小さな階段を上った二階の部屋がセルダンの部屋である。壁に無数の銃痕が残り、壁に掛けられた大きな鏡は生々しく割れたままになっている。このように歴史の傷跡が残っている場所を見ることができたのは面白かった。メキシコ人たちがこの革命の歴史を大切に保存しているということは、彼らにとって大きな意味を持つ歴史なのだろう。だが地球の裏側の僕たちは、この国の革命なんてこれっぽっちも知らないのだ。

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銃痕の残る鏡。

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グレゴリー・ペックが住んでいたマンションのような階段。

 帰りもまたバスに乗って帰る。いちおう地球の歩き方にはバスターミナルの場所が書いてあるのだが、書かれた場所に行ってもそれらしいターミナルはない。走っていくバスたちを辿って路地を曲がると、田舎のコンビニの駐車場くらいの規模のターミナルがあった。コンビニの駐車場かと思うくらい何もないただの空き地である。ストリートの番号をあらかじめ知っていたからなんとかたどり着けたが、知らなかったら探し出せないだろう。

 ターミナルに着いても行き先案内表なんて無いので、並んでいるおじさんに「チョルーラ?」と尋ねると、煩わしそうに頷いたのでそのまま乗り込んだ。

 だが、途中までは来た時と同じ国道を進んでいたのだが、途中で路地に入り住宅街へと向かい始め、やがて舗装されていない道を進み出した。嫌な予感がしたので隣に座っていたおばさんに「チョルーラ、セントロ?」と尋ねると、おばさんは首を横に振った。

 慌てて降りたが、ここがどこなのか全くわからなかった。標識に書かれた地名は手持ちの地図には載っていなかった。

 背筋に嫌な汗が伝い始める。

 周りを見渡すと、背の低い住宅と舗装されていない茶色い土で覆われた道しか無い。往来には誰も人がおらず、薄汚れた野良犬しか歩いていない。

 だいたいこっちの方角だろう、と歩き出してみたが一向に知っている場所には出ない。やがてバスが行き交う舗装された道に出た。ここで、バスの行き先を見ればどちらの道がチョルーラへ走っていくのかわかるだろうと僕は思った。しかしメキシコはそんな僕の思考を打ち砕く。車道のどちらの向きに走っているバスも行き先がチョルーラになっていたのだ。そんな馬鹿なことがあり得るだろうか。あるいはバスは環状になっていてどれに乗ってもチョルーラに行き着くことができるというのか。

 打ちひしがれた僕はなかばやけくそ気味にとりあえず適当に方角を決めてさらに歩いた。するとコンビニがあったので店員のおじさんに方角を聞くことにした。

 店員のおじさんは全く英語を話すことができなかったので、地球の歩き方を見ながら拙いスペイン語で尋ねるが全く要領を得ない。地図を指差しながらここに行きたいと言うが、困惑した表情を見せるばかりである。おじさんはかなり良い人で、言語が通じない僕に対して真剣に対応してくれたが、言葉の壁は厚く、

 途方に暮れかけた僕だが、ふとここはピラミッドの街ではないかと思いついて、
「チョルーラ、ピラミッド」と言うと、
「チョルーラ、ピラミデス?」

 おじさんはようやく分かったという顔をして、店の外を出て遠くの方角を指差した。その方角に目を凝らすと、建物に隠れて見えにくいが確かにピラミッドの上に立つレメディオス教会が見えた。丘の上の教会からは遠くの街まで見渡せたということは、この街はどこにいてもピラミッドを見つけることができるということだと気付かなかった。

「Gracias(ありがとう)!」

 僕が話せる数少ないスペイン語を言うと、おじさんも嬉しそうに笑って頷いた。
 メキシコで経験した中で最も快い瞬間だった。おじさんとのやりとりで、僕はこの国を好きになれる気がした。

 このやりとりがあってから、僕は日本で外国人に道を尋ねられた時はなるべく親切に答えるようにしている。名古屋で外国人を見かけること自体あまり無いことだけれど、なぜか分からないが僕はよく道を尋ねられる。僕がメキシコで抱いた気持ちを、彼らが日本に対して持ってもらえれば幸いだ。
 
 それから二十分ほど歩いてチョルーラに無事にたどり着くことができた。レストランでいつもより多くチップを払い、良い気分で眠った。