惑星間不定期通信

小説を書いています。本や映画の感想やその他なども書きます。

シン・エヴァンゲリオンの感想(の感想)

注意!この記事はネタバレしかありません。

 

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シン・エヴァンゲリオンを見ました。

結論から言うと非常に楽しめました。SNSではネタバレを過度に配慮する風潮があり「面白かった」と言うだけでもネタバレ警察が出動する始末。それも「本当にエヴァはまともな作品に仕上がったのか」「本当に完結するのか」という、旧劇場版に至るまでの顛末を知る往年のファンが抱える猜疑心があるからだと思います。しかし、蓋を開けてみればこれ以上ないほどの完成された完結編であり、終わる終わる詐欺を繰り返していたTV版〜旧劇場版The End of Evangelion(以下、旧劇場版)や不穏しかなかった新劇場版3作目Qからは考えられないほど「まともな作品」でした。

あまりにまともすぎて「こんなのエヴァじゃない」「裏切られた」「取り残された」と拗ねるオールドファンもいれば、「ようやく卒業できた」「成仏しました」と満足する人もいて、ネットにはそんな二極化した感想が見られます。それだけ自分の人生と重ねるファンがいるのだと思いますが、ネットの感想を見てもどうもしっくりこない。そもそもファン自身の人生なんてどうでもいいとぼくは思ってしまうので小学校の読書感想みたいな「ぼく・わたしにとってのエヴァンゲリオン」的感想は興味がありません。かといって、「シンジくんは庵野で、マリは安野モヨコだったんだよ!」という深読みや「ゴルゴダオブジェクトにいたのはナディアのアトランティス人だったんだ!」みたいな考察を見ても、どうも腑に落ちない。

一体なぜだろうかと考えてみると、シン・エヴァンゲリオンという作品は単一の観点から語ることができない多層的な作品だからなのだという思い至りました。いったいどういうことでしょうか。

 

ぼくが考えるシン・エヴァンゲリオンを語る上で最低限必要となる観点は以下の4つ(3つ)になります。

  1. 新劇場版エヴァンゲリオンという物語について
  2. (1.1) エヴァンゲリオンの物語で語られない背景設定について
  3. 庵野秀明監督の私小説的な側面について
  4. これまでの「エヴァンゲリオン」シリーズと、それらが起こした現象への回答

これらすべて多面的に捉えることによって初めてこの作品を語ることができるのではないか、と思います。ぼくはそれほど熱心なファンではないので、もっと語るべき観点があるかもしれません。他にも劇伴含む演出的な観点だったり映像技術的な観点もあると思いますが、ここではこの4つの観点で語りたいと思います。

では、ひとつずつ見ていきましょう。

 

1. エヴァンゲリオンという物語内について

 これは単純に、エヴァンゲリオンの作品で語られる碇シンジを主人公としたエヴァをめぐる物語のことです。これまでの旧劇場版までのエヴァではこの物語についてすら破綻していました。心理描写とストーリテーリングがないまぜになり、最終的によくわからないままアスカの首を締めて「気持ち悪い」と言われて旧劇場版は終わりました。

それにひきかえシン・エヴァンゲリオンはものすごくスッキリと終わります。全体的にコミュニケーション不全だったQは一体なんだったのか、精神的に成長を遂げたシンジくんを中心に関係者全員でヴンダーの上で本音トークを交わし、ゲンドウとも親子の対話をしわだかまりを解きます。ネルフ(ヴィレ)は月イチで飲み会をやっておけばこんなことにはならなかったし、司令室の主モニターでクラナド上映会をやっておけばもっとはやく解決したんじゃないか。*1

最終決戦に至るまでも往年のガイナックス作品のような熱いSF描写もあり純粋にエンタメ作品として優れていました。とにかく、あのしったかめっちゃかになっていたエヴァの物語を(少なくとも表面上は)綺麗に完結させたことだけでも、シン・エヴァンゲリオンウルトラCの難易度を成し遂げたといえるでしょう。Qからあんな綺麗に終われるとは誰も予測できなかったんじゃないか。

 

2.(1.1)エヴァンゲリオンの物語で語られない背景設定について

これはいわゆる考察の対象となる物語背景のことです。語られていないとしても物語を形成する要素ではあるのでほとんど1の観点に含まれます。そのため(1.1)としました。一般的に知られているようにエヴァンゲリオンはSF、心理学、聖書などをバックボーンとした膨大な裏設定があります。作中でほのめかされるワードをもとにそれらを紐解く「謎本」がかつて流行りました(懐かしい……)。

今回のシン・エヴァンゲリオンでもいくつかの謎に決着がつき、さらなる謎が追加されました。それらは作品を理解する上でとても重要ですが、ぼくにとってはあまり興味が湧きません。いくら考察をしても答えなんて出ないし、本当にその設定が練られているか、単に意味ありげなワードを散りばめているだけなのか分からないからです。答えが出ないことをあーだこーだと想像する楽しさは理解できますが、創作者の手のひらで転がされているようであまり気が乗りません。

これらの謎については解答が出ないことが解答のようなもので、つまり真相は不定なわけです。今回のシン・エヴァンゲリオンでもちょうどいい塩梅に考察の余地が残されました。この塩梅も全部計算されたものなのでしょう。TV版エヴァのあとに雨後の筍のごとく生産された裏設定てんこ盛りの電波・鬱アニメ群に比べると、本家の違いを見せつけたといえます。

 

3.庵野秀明監督の私小説的な側面について

Qの終わりでカヲル君の爆死を眼前で見届け、自らの浅慮によりフォースインパクトを引き起こしたシンジ君は完全に心神喪失し無気力かつ失語症に陥ります。これはQの制作で精魂尽き鬱状態となった庵野秀明監督を表していると受け取る見方ができます。庵野秀明監督は言うまでもなく作家性が非常に強く、ナディアなど過去の作品から分かる通り自分自身を作品の中に投影するクリエイターなので、シンジと庵野監督を同一視するのはあながち間違った見方ではないと言えます。

トウジやケンスケなど旧友のサポートや旧エヴァにいなかった新キャラである真希波=妻:安野モヨコの救済により、シンジ=庵野監督が鬱から立ち直りシン・エヴァンゲリオンを完結させたという解釈もできなくはないです。あくまでもゴシップのレベルですが旧エヴァのときに庵野監督はアスカ役の宮村優子にアプローチし拒絶されたといわれており、そのことが旧劇場版の展開に反映されたとされています。今作でのシンジの「ぼくもアスカのことが好きだったんだと思う」という台詞が意味深になってきますが、どうなのでしょうか。

監督のプライベートになるのでなんとも言えませんが、終わらない(終わらせられない)「エヴァの呪縛」に最も囚われていたのは庵野監督自身であったのは間違いなく、精神的に立ち直り完結させその呪縛と決別することができたのは本当によかったのではないかと思います。シン・ウルトラマンでもゴジラでもなんでも好きなだけ作って、これからも傑作を世に生み出してほしいです。

 

4.これまでの「エヴァンゲリオン」シリーズと、それらが起こした現象への回答

旧劇場版が完全な決着ではなかったこと、ループ的世界構造、またTV版26話でのもうひとつの可能性として示された「学園エヴァ」など、エヴァンゲリオンは物語の再解釈と再生産を許す構造となっており、スピンオフや同人誌などのアナザーストーリーが数多く生み出されました。

またエヴァンゲリオンが巻き起こした熱狂的な社会現象に対し、辟易した庵野監督は「ただのアニメに過ぎないから現実に還れ」というインタビューで語り、旧劇場版に挿入された劇場内の観客席の実写映像にそのメッセージを込めました。

シン・エヴァンゲリオンでは物語後半、マイナス宇宙と呼ばれる虚構世界でシンジとゲンドウが格闘します。マイナス宇宙では認知が実体化するため、シンジのこれまで経験した風景(=エヴァンゲリオンという虚構)の上で戦闘が繰り広げられ、壁を突き破るとTV撮影の舞台セットになっていたり、街が特撮セットで作られているかのようなメタ的な描写がされます。これはエヴァンゲリオンはアニメという虚構であることを改めて明示しており、虚構を現実化する新生の槍でこれまでのエヴァ機体たち(=数多に作成されたエヴァンゲリオンという作品シリーズ)を生贄に捧げることで、シンジと真希波は色付けされたアニメーションから原画へ、そして現実世界としての実写映像へ帰還します。その帰還によりアニメのキャラクターとして時が止まってしまっていたシンジも大人の姿へと成長することができたというわけです。

このような見方をすることで、庵野監督のメッセージとしては旧劇場版からは変わっておらず「現実に還れ」と言っていることが分かります。しかしその形がまったく異なっています。冷たく突き放すように観客自身を実写映像で見せつけ物語を破綻させた旧劇場版とは違い、シンジの願い(父との和解、傷ついた世界の再生)と「現実に還る」ことが結び付けられています。このように非常に自己批評的な描き方で、さらに物語としてもポジティブな形で、旧劇場版と同じテーマを示すことができたというのは驚くほかありません。

 

まとめ

まとめます。シン・エヴァンゲリオンは、①表層としてあるエヴァの物語、②それを支える基盤としての裏設定、③それらに投影された庵野秀明監督自身の人間性、④すべてを取り囲む外部としての「エヴァンゲリオン」という作品に対する受容、これら4つを射程に捉えそれぞれに見事な「完結」を提出してみせました。改めて凄まじい作品です。

もちろん欠点がないわけではありません。シンジがセラピストとしての才能を開花させたが如くエヴァパイロットたちのわだかまりを解き放ち補完を完遂させていくさまは予定調和的ではありました。そして物語の外縁で暗躍していたはずの真希波が主役に据えられたのは唐突感が否めません。父親と和解し、アスカ(昔のオンナ)との未練を捨て、真希波(新しいオンナ)とくっつくというのは、往年のファンからは反発があるようです。同窓会で昔の悪友がサラリーマンになって結婚して子どもを作っていたかのような、落ち着くところに落ち着いた感があるといえばそうかもしれません。だからこそ「同窓会」とか「卒業式」とか言われているのだと思います。

とはいえ、この結末は序の段階からの規定事項だったのかもしれません。序の最後にカヲルが「今度こそ君を幸せにしてみせる」と宣言しましたが、シンジの幸せとは父の和解に他なりません。

シンジの幸せが物語の結末だとして逆算すると、このような物語以外には考えられないとすら思ってしまいます。レイやアスカだけでは幸せにできなかったのだから新しいキャラクターが必要になるのは当然といえば当然です。真希波の描写が圧倒的に不足しているのが難点ですが、これ以上尺を使って掘り下げたところで完結が長引くだろうし、キャラクターを掘り下げれば掘り下げるほど不幸になるに決まっているので、これが最善だったと思います。

 

長々と語りましたが(原稿用紙15枚分も語ってしまった)、どの観点からみてもシン・エヴァンゲリオンはよくできた作品であり大傑作だと思います。これまでのすべてのエヴァンゲリオンを上書きし、さよならを告げる作品でした。しかし作中で「さよならはまた会うためのおまじない」と言われているように、再会を期待することもできます。どこまでもポジティブに受け取ることができる作品であり、エヴァンゲリオンというある意味で呪われていた作品がこのような結末を迎えることができたことに喜びを感じ、そしてこの巨大すぎるプロジェクト(エンドロールに流れる関係者の数の多さよ!)をまとめ上げて終わらせた庵野秀明監督に称賛の拍手を贈りたいです。ありがとう庵野監督、ありがとうエヴァンゲリオン

 

*1:冗談半分でクラナドの名前を出しましたが、クラナドの終盤の展開はシン・エヴァンゲリオンと完全に相似しています。クラナドでは妻を失った主人公朋也が残された娘と向き合うことができず育児を放棄し、地元に帰って仕事に打ち込みながら旧友の助けを得て立ち直り、娘との対話を経て失った妻の存在を娘の中に見出します。クラナドのメインライターである麻枝准エヴァの影響を少なからず受けていますが、セカイ系的物語から「セカイの最小単位としての家族」に着目していたのは驚くべき先見と言えるでしょう

誰にも求められていないことを語ろう、Nizi Projectについて

(パフォーマンスを見終えて)

J.Y.Park「踊っている時ダンサーみたいです」

花橋梨緒「(誇らしげに)はい、ずっと小学校2年生から今まで8年間、本気でダンスをしてきました」

J.Y.Park「僕の話は褒め言葉ではありません

(梨緒の顔から笑みが消える)

J.Y.Park「歌手はダンサーのように見えてはいけません。歌手は歌手として見えなければいけません。ダンサーと歌手は違う職業です。今踊っていた時、まず一つ目、僕と心を通わせようとしない

花橋梨緒「…...はい」

J.Y.Park「見る人を説得しようとする努力も見えないし、自分が上手く踊ることだけを考えている

花橋梨緒「…...」

J.Y.Park「繋がっているこの紐を離さないまま踊るべきなのに”私は踊っているから見る見ないはどうぞご自由に”という印象を受けました」

 (参加者全員固唾を呑んでJ.Y.Parkの言葉を聴いている)

J.Y.Park「歌とダンスは見てくれる人のためにやることであり”自分”のためにやることではないからです」

 

誰も求められていないことを再び語ろうと思います。前回はこちら。

さて、Nizi Projectである。

前回は革靴で、今回はもっと需要が無い記事になりそうな気がするけれど、誰にも求められていないことを語るという目的なので構いません。

Nizi Project(虹プロ)は、TWICEなどを擁する韓国の大手事務所であるJYPエンターテイメントと日本のソニーミュージックによる、グローバルガールズグループを作る共同プロジェクトである。

日本8都市、アメリカ2都市にて1万人を超える応募者によるグローバルオーディションを経て、26人の選抜者による4泊5日の東京合宿を実施し、さらに14人の選抜者による半年の韓国合宿の末にデビューするメンバーを決定するという過酷な*1サバイバル・プロジェクトだ。

 ぼくは虹プロにハマってJYP事務所の他のアーティストからK-POPを聴き始めたので韓国の音楽事情はほとんど詳しくない。また、日本のアイドルについてもこれまで一切聴いてこなかった。なのでNizi Project、ひいては番組からデビューしたNiziuが過去のアイドルやオーディション番組と比較してどのような位置付けなのかを語ることはできない。あくまでも門外漢が初めて触れた感想だと思ってご容赦いただきたい。

Nizi ProjectはYoutubeで無料で見れる。ただしカットされているシーンが多いのでHuluでの視聴がオススメ

 

虹プロにハマった理由 〜または私は如何にしてアイドルを嫌うのをやめてNizi Projectを愛するようになったか〜

きっかけとしては、妻が先にハマり居間で流れている映像を横目で見ているうちにその魅力にずぶずぶとのめり込んでいったのが始まりである。今では妻よりも多く見返すほどになってしまった。

上に書いたように、ぼくはこれまでアイドルについて一切聴いてこなかった。ぼくが小学生の頃にモーニング娘。が大流行し、大学生になった頃にはAKB48を始めとした秋元康プロデュースの多人数アイドルグループの全盛期となっていた。

しかし、ぼくは子どもの頃からアイドルというものが好きになれなかった。そもそも女性の多人数集団になんとなく苦手意識があった*2。ぼくが好きだったのは宇多田ヒカルaikoなどの女性シンガーソングライターであり、複数人数の女性ユニットには基本的に興味がなかった。

 ぼくが女性タレントを好きになるのは主に格好よさとか、ストイックさにリスペクトを感じるときである。なのでアイドルたちの愛嬌や可愛さよりも、シンガーソングライターやドラマ・映画女優に憧れてきた。ぼくは今も昔も坂本真綾さんの大ファンだけど、それも彼女の仕事に対するストイックさや綴る文章に惹かれたところにある。

アイドルグループのオーディション番組とはいえ、虹プロについても好きになった理由は同じである。番組に出ている候補生たちはみんなストイックに夢に向けて努力し切磋琢磨する。プロデューサであるJ.Y.Park氏に厳しい言葉で否定されて涙を流しても、次のステージで挽回するためにまた努力する。その姿に感動し、リスペクトを抱いたのだ。

そもそも10代の中学生や高校生たちが、半年以上もオーディションにすべてをかけて、さらには学校をやめるか休学して、外国の言葉も通じないような環境下で叶うかどうかわからない夢のために四六時中努力し続けるなんて、想像しただけでぞっとしてしまう。モラトリアムに浸かりながら甘い夢を見続けてきた自分にとっては到底なし得ないことであり、尊敬するしかない。

 

Nizi Projectとはなにか、あるいはJ.Y.Parkとは何者か?

Nizi Projectがどのようなものか、改めて説明しておきたい。

評価軸としてはボーカル・ダンス・スター性・人柄の4つであり、各審査で一定以上の評価を得た者に対応したNiziキューブが与えられる。4つすべてのキューブを得たものが次のステージに進み、デビューすることができる。*3

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Niziキューブ

すべての評価をプロデューサーであるJ.Y.Parkが行い、パフォーマンスのあとに厳しくも冷静で的確な講評を行う。冒頭の引用は実際にパフォーマンスのあとに行われたやり取りである。

そもそもJ.Y.Parkとは何者なのだろうか?

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J.Y.Park。この服は私物なのだろうか

J.Y.ParkとはJYPエンターテイメントのCEOでありTWICEなど世界的ユニットを手掛けたプロデューサーであり、現役のシンガーソングライターでもある。チャート1位を獲得した曲は50を超え、90年代から現在まで第一線を退くことなく活動し続けており、そのことを歌詞にまでして自慢してさえいる。

 

www.youtube.com

90年代 2000年代 2010年代も
イケてるね
イケてるね
イケてるね

(中略)

君らが好きな
オッパ(おにいさん)たちとはかなり違うだろ
オッパたちが生まれる前に
デビューしたけど
オッパ達の間で
未だに賞までもらうよ俺は

韓国では「餅の好きなゴリラ」という意味で『トッゴ』という愛称で呼ばれており、日本でも『餅ゴリ』と呼ばれている。本人公認のあだ名だというから懐の大きい人間である。それにしてもこんなHUNTER×HUNTERゴレイヌとレイザーを足して2で割ったようなイカつい男がそれほどまでのヒットメイカーであるとはにわかに信じがたい。

 

ハンターハンターキャラ考察 ゴレイヌは弱くない - アナブレ

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ゴレイヌとレイザー。足して2で割ってください

J.Y.Parkがヒットメイカーであり一流のダンス歌手であり続けているのは、才能に恵まれているとか幸運だからではなく、恐ろしいまでの日々の努力の賜物によるものである。

韓国ではイケメンでなければダンス歌手としては売れないと言われており、J.Y.Parkも学生時代にデビューしたものの売れずに振るわなかった。しかし、J.Y.Parkはそこで夢を諦めず、バックダンサーとして再出発しつつ有名作曲家に師事して音楽理論を徹底的に学び直し、見事人気歌手として返り咲いた。

確固たる地位を築いた現在でも朝の2時間のジム・トレーニングとボイストレーニングを欠かさず、ライブでは何十曲も踊りながら口パク無しで歌い切る超人的なパフォーマンスを魅せる。社長業やプロデュース業の合間に曲を作り、自身のライブに向けたダンスや歌の練習もするなんて、どうやって時間を作っているのか全くもって信じられない。さらに学力も高く、韓国のトップ私立大学を卒業、帰国子女で英語も話すことができ、そのうえNizi Projectのために日本語まで習得したというから驚嘆するしかない。

 そんなJ.Y.Parkは自らの事務所の所属アーティストたちにも高い水準を求める。Nizi Projectにおける審査においてもそれは変わらない。厳しく的確な講評はすべて本人の実践してきた理論に基づくものだ。冒頭に引用したやり取りもその一部である。

 

Nizi Projectをどう見るか?

J.Y.Parkは歌とダンスはコミュニケーションだと繰り返し述べている。一方的にテクニックを見せつけるのではなく、観客のひとりひとりに「自分のためにパフォーマンスをしてくれている」と思わせなければいけない、とJ.Y.Parkは言う。彼の理論を聴いたあとに、プロの歌手とアマチュアである候補者たちのパフォーマンスを見くらべてみると、なるほど確かにそのとおりだなと感心してしまう。

1万人を超える応募者のなかで実際に番組でフィーチャーされるのは東京合宿に残った26人である。彼女たちはいずれもダンススクールに長年通っていたり、芸能事務所の練習生として活動していた経験を持っているのがほとんどである。しかし彼女たちの経験と自信はJ.Y.Parkの講評によって打ち砕かれていく。そして周囲のレベル差に圧倒される候補生もいる。

だが彼女たちは夢を目指し諦めずに努力する。指摘されたところを克服し、次のミッションで煌めくステージを魅せる。

そして舞台を降りたときに流す涙は、前とは違った意味となるのだ。

 

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J.Y.Parkに努力の成果を認めてもらい涙を流す梨緒

 またチームミッションでは3〜5人でユニットを組んでパフォーマンスを行う。リーダとなった人がどのようなリーダーシップを発揮するか、チームワークをどのようにして高めていくかというのも見どころのひとつだ。

番組の演出方針なのか、ギスギスした軋轢はほとんど見られない。10代の女の子たちが集まれば喧嘩の1つや10つくらい起きてるのだろうけれど、おそらく高すぎるハードルに対し一致団結して乗り越えるためには仲間割れなんてしていられないのではと思う。ぼくのような人間関係の嫌な面はあまり見たくない人でも安心して見ていられる。*4

 

それなりに長く語ってしまったがまだまだ語り足りない。というか内容についてほとんど触れられていない。J.Y.Parkの説明に紙幅を割きすぎてしまった。NiziuのリーダーとなったMAKOのリトルJ.Y.Parkとも言える努力超人ぶりや、MAYUKA*5のシンデレラストーリーなど、ひとりひとりの参加者についても語りたいことはたくさんあるのに。いっそのことNizi Project全話解説してもいいんじゃないか。とはいえ、いずれまた機会に。

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最後に推し(MAYUKA)の優勝画像を貼っておきます。はい、優勝。



*1:韓国ではアイドルのオーディション番組が数多くあり、骨折や肉離れなどで離脱する参加者が多発するほどさらに過酷である

*2:おそらく学生時代のトラウマ

*3:キューブがすべて集まっていなくても追加合格となるメンバーもいる

*4:そういうのが見たい人はバチュラーを見てください

*5:推し

誰にも求められないことを語ろう、まずは革靴について。

昨今、インターネットに求められる実用性や意味性が肥大化している気がする。個人の趣味やプライベートなことはSNSに閉じ込められて、SNSの外では役に立つ記事や意味のあるコンテンツしか残らなくなっている。

昔はもっとみんな自由にそこかしこで語り合っていたはずだ。そんなふうに回顧するのはぼくが年を重ねたからだろう。ぼく自身、こうやってブログを書くこともなくなってしまった。そもそもブログというもの自体がもはや絶滅危惧種みたいなものだし。

だから今日は誰にも求められないことを語ろうと思う。

というわけで最近ぼくがもっとも興味を抱いてことについて、つまり、革靴について語りたいと思う。

 

■なぜ革靴なのか

 一般的に男性が社会人になると車、スーツ、時計、そして革靴にお金を費やすようになるという。価値観が多様化する現代社会においてそのようなステレオタイプな趣味は下火になったとはいえ、まだまだ根強いようだ。

ぼくは車には乗らないし(運転が苦手なので)、仕事柄スーツもほとんど着ない。2020年はコロナの影響もあって一度しか着なかった。いちおう街の仕立て屋でパターンオーダして作ったスーツを持っているが、生地は特別高級なものじゃない。

時計については一時期良い物が欲しくなって集中的に調べたことがあった。だが調べれば調べるほど、値段と価値が乖離しているような気がしてならず興味を失ってしまった。高級時計は宝飾品の一種であり、何の基準で値段が付けられているのかぼくにはよくわからない。ドン・キホーテの2階で売られている時計と百貨店のショーケースに飾られる時計の違いがわからなかった。

時計の裏返しの理由になるけれど、ぼくが革靴にハマったのは値段と価値が(それなりに)わかりやすく比例しているところだと思う。基本的に革靴は職人による手作業で製作されており、紳士靴は特に見た目のパターンは決まっているので、差別化を図るとしたら品質しかない。

もちろんブランドによって上乗せされる価格もあるが、そのブランド性は長年の品質の積み重ねであり、職人技によるものである。

職人の技術によって作られた靴は芸術に近い。見ていて楽しいし、履いていても楽しい。

誠に残念なことだが、コロナ禍によるリモートワークの推進によって革靴の需要が減り、国内メーカの雄であるリーガルが100名の人員削減を実施するという。

www.yomiuri.co.jp

本格革靴の価値を理解し、吟味して手に入れた革靴を履くのはとても気分が高揚する。そのような心地を多くの人にも知っていただき、愛好家の数が少しでも増えれば幸いだ。

 

■高級な革靴と安い革靴の違い

まず最初に断っておきたいのは、価格が高いからといって実用的であるとか長く使えるというわけではない。むしろ高級になるとコーティングがされていない天然皮革が使われているため雨に弱かったり、取り扱いに気を使わなければいけない。実用性を求めるのであれば防水革靴やコンフォートシューズのほうが圧倒的に良い。高級革靴に求められているのは高級感であり、つまりは美しさなのだ。

では、実際に価格帯別に革靴を並べてみてみよう。最も基本的な黒のストレートチップで比較してみる。

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1万円以下の某メーカ製靴

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定価¥39,600 リーガル01DRCD

 

靴 通販 | ストレートチップ(革底)(23.5 ブラック): メンズ | 「リーガルオンラインショップ」 REGAL CORPORATION

 

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定価¥105,600 三陽山長 匠 友二郎

sanyo-i.jp

 

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定価¥169,000 エドワード・グリーン チェルシー

www.tradingpost-online.jp

 

えーと、まぁわからないですよね。

正面からの写真が一番差がわかりにくいから仕方がない。ならお前にはわかるのかと聞かれると、写真だけではわからないかもしれない(さすがに一番安いのはわかるが)。だが手にとって見れば、価格差を言い当てることは可能だと思う。

じゃあ価格によって何が違うのか? 

大きく分けると革質、製法、ディティーの差である。

 

  • 革質

高級靴になるとエキゾチックレザーと呼ばれるワニ革やリザード革などの希少な革が使われることもあるが、同じ牛革でもランクが存在する。

そもそも革は元々牛の皮膚であり、虫刺され、傷、シワ、血筋などムラがある。均質できめ細かく柔らかな仔牛の革(カーフレザー)が一般的に高級品とされている。

上記の1万円以下の某メーカ靴の場合、牛革の表面に樹脂加工を施したガラスレザーという素材が使われている。染色には主に顔料が使用されており、元々の皮膚の傷などは覆い隠すことができる。よく見ると質感がのっぺりとしているのがわかるだろう。

ガラスレザーには雨に強く、磨かなくても光沢が保たれるという長所がある。実用性が高いので日常使いには向いている。だがクリームが染み込まないため経年変化を楽しむことができず、樹脂が割れてしまうと終わりという欠点がある。だから高級靴にはまず使われない。

リーガル01DRCDからの上の値段の靴についてはどれもガラスレザーではない。写真では違いがわかりにくいが、高級になればなるほど肌がきめ細かくなり、透明感のある革質となる(写真の撮り方の差もあるけれど)。

  • 製法

 革靴の部位は、ものすごく大雑把に言うと足の甲を包んでいる上部(アッパー)と靴底(ソール)の2つに分けられる。その2つを結合する方法によって製法が分けられる。安価な革靴は「セメント製法(セメンテッド製法)」と呼ばれる接着剤による結合方法が使われる。機械による大量生産が可能なので価格を抑えることができる。

2〜3万円の価格帯を超えた本格革靴になってくると、アッパーとソールを縫い合わせて結合する手法がとられる。入門〜中級モデルではミシンで縫われているが、高級なものだと職人による手縫いで作られる。代表的な製法としてグッドイヤー・ウェルト製法やマッケイ製法などが挙げられる。それぞれの製法によって強度やデザインの自由度、履き心地が変わってくる。

また縫い合わされて結合する製法は、縫い解いて靴底を交換することができる。これはオールソールと呼ばれており、靴を長く大事に履くことができる。

 

高級な靴になればなるほど、職人の技術が結集した細工が施される。縫い目が細かく整っていることはもちろん、傍目には目立たない靴底やコバの意匠も凝らされる。

例えば、「匠 友二郎」の靴底を見てみよう。

 

 

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 製法についてアッパーとソールを縫い合わせると説明したが、この靴底には縫い目は見えない。これは靴底の表面を薄く起こして縫ったあと、起こした部分を戻して縫い目を隠す「伏せ縫い」という技術が使われている。

また、中央部が黒くくびれているが、これは「半カラス仕上げ」と「フィドルバック」と呼ばれており、見た目の美しさと包み込むような履き心地をもたらしている。

 

次に踵を見てみよう。同じく「匠 友二郎」の踵である。

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ご覧の通り、踵の部分が包み込むような形をしている。安価な革靴だとスニーカーのように真っ直ぐになっているが、 このような形によって足のホールド感が増す。ただしタイトな履き口となるため脱ぎ履きするのは不便だ。だから、高級革靴を履く人はマイ靴べらを常に持ち歩くのである。

また縫い目が一切なく1枚の革で構成されているのがわかるだろう。革は元々平面なものなので、このような曲線的な立体を形づくるためには高度な釣込技術と長い時間が必要になる。

 

ところでディティールについて、今回紹介した中でもっとも高価なエドワード・グリーンではなく三陽山長の「匠 友二郎」のほうを実例に挙げたのは、実はディティールについては「匠 友二郎」のほうが優れているからである。

ではなぜエドワード・グリーンのほうが1.5倍以上高価なのだろうか?

革質については実物を見比べたことがあるわけではないので、ぼくには優劣がつけられない。主な皮革製造業者(タンナー)はヨーロッパにあり、良質な皮革はヨーロッパのメーカに優先的に卸されるらしい。しかし、「匠 友二郎」も高級インポートレザーを使用しているらしいので、それほど大きな差は無いと思う。ブランド料や関税の問題もあり、一般的に国産の革靴のほうがコストパフォーマンスが良いのだ。

 強い憧れやこだわりがないのであれば、国産メーカを選択することをおすすめしたい。(とはいえ、イギリスやイタリアなど『本場の靴』には品質を超えた価値が宿っていると思う)

 

■これから本格革靴を買う人たちへ

 では、これから本格革靴に興味を持とうとしている人は、結局何を買えばいいのだろうか?

乱暴に断言してしまえば、「百貨店に行ってリーガルのDRCDシリーズか、スコッチグレインオデッサシリーズを買え」となる。

ではなぜ百貨店なのか? ○BCマートやショッピングモールの中に入っているようなカジュアルシューズ専門店で革靴を買うのは絶対にやめるべきである。革靴はシビアにサイズ選びをするべきであり、サイズだけでなく足型にも合う合わないがあるので専門技術を持ったシューフィッターが常駐している百貨店や革靴専門店で選んだほうが絶対に良い。

リーガルのDRCDシリーズか、スコッチグレインオデッサシリーズをオススメするのは、圧倒的にコストパフォーマンスが優れているからである。コスパで言えば他にももっと良いものはあるけれど、リーガルやスコッチグレインは全国の百貨店なら必ず取り扱っており手に入りやすく、個体差も小さい。

そして本格革靴を買うのであれば、必ず靴磨きグッズも買い揃えるべきである。ただし靴磨きの話をしだすと沼に陥るのでこれ以上はしないでおく。

靴を磨くなんて面倒だなと思うかもしれないが、本格革靴を買うと靴磨きが楽しくてしょうがなくなる。もうこれは実際に買ってみてほしいとしか言えない。

 

まだまだ語り足りないが、ここらへんで終わりにしよう。誰にも求められないことを語るにしても、節度は大事だ。ぼくが持っている革靴について紹介する記事もいつか書きたい。それこそ誰も求めてないだろうけど。

記憶の中の公園

思い出は全部記憶しているけどね、記憶は全部は思い出せないんだ

 

幼い頃、僕は城の近くに住んでいた。

などというと異国の話のように聞こえるけど、父が公務員で名古屋城の近くの役所で働いていたので、名古屋城近郊の公務員住宅に住んでいただけである。名古屋城の付近には役所や省庁の他に図書館や市民体育館や公園など公的施設が集まっており、幼い僕は親に連れられてそのような施設で遊んでいた。

だが、小学校に入る際に引っ越したのでその辺りに住んでいた頃の記憶がほとんど無い。そもそも小学生以前の記憶自体が、UFOで連れ去られて上書きされたんじゃないかと思うくらいにほとんど残っていない。なにしろもう30年近く前の話だ。年月が僕の脳みその皺から古い記憶を洗い流してしまった。

今日までそう思っていた。

 

用があって県立図書館に自転車で行くことにした。

県立図書館に行ったことはなかった。と、今日まで思っていた。何しろ住んでいる場所から遠い。交通機関で行くにしても不便な場所にある。だいたい、区立図書館に行けば事足りるから県立図書館まで足を伸ばしたことなんてなかった。

グーグルマップで適当に道筋を決めて、自転車を漕いでいた。国道1号線を横切って環状線沿いに外堀通りを進んでいくと、傾きかけた陽光が並木道に影を落としていた。アスファルトの上に色づきかけた落葉が散っている。

その光景を見て最初は、写真でも撮りたいくらいに綺麗な景色だな、としか思わなかった。だが次の瞬間、脳の血管が逆流するような既視感に襲われて思わず立ち止まった。

 

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自分はこの場所を知っている。

同じような時間にこの場所で、この光景を見たことがある。そのような確信を抱いた。

この道の先には小さな公園があるはずだ、と僕は思った。車道沿いから細い道が別れ、公園へと繋がっている。その公園には滑車のついたロープにしがみつくターザンロープの遊具があり、幼かった僕は一人ではそのターザンロープに乗れず母親に背を押してもらっていた。そのような情景が一瞬のうちにフラッシュバックした。

そして、その公園は蘇った僕の記憶と同じように存在した。

僕は公園に足を踏み入れ、しばし呆然と立ち尽くした。

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 幼い頃の僕は母の自転車の後ろに乗せられて、幼稚園の帰りにこの公園をよく訪れていた。近くのスポーツセンターで水泳を習っていて、その開始時間までこの公園で過ごしていた。

行ったことが無いと思っていた県立図書館も、着いてみるとたしかに幼い頃に訪れた記憶が蘇った。児童書コーナーが円形の部屋にあり、その内周に木製の椅子が設置されている。そこに座って子どもの僕は絵本を読んでいた。

何もかも、すべて今日まで忘れていた。

 

 今日のこの出来事以外にも、最近幼い頃のことをよく思い出す。それは子どもが生まれたからだ。息子と一緒に遊んでいると自分が父親にあやされたときの記憶が蘇る。足の上に子を乗せて飛行機ごっこをしたとき、自分も同じ遊びが好きだったことをふいに思い出した。

息子が生まれてから、今までに体験したことのない新鮮な驚きと感動と苦労に満ちた日々を送っている。同時に、自分が子どもだった頃の記憶を追体験しているような気分にもなる。

きっと息子は将来この日々のことを覚えてはいないだろう。そもそも1歳にも満たない子の脳は記憶を留められるほど発達してはいない(一般的に言語を獲得するまでエピソード記憶を留めることは出来ないとされている)。

だけど、記憶に残らない何かがどこかの引き出しに仕舞われているのかもしれない。あるいは、成長のある段階から少しずつ引き出しが満たされていくのかもしれない。

いつかその引き出しが開けられる日は来るのだろうか、と僕は考える。

もしかしたらその引き出しは、息子に子どもができるまで開けられないかもしれない。僕が今日、そうだったように。そのときには僕はお祖父ちゃんになっているわけだけれど。

目まぐるしく子どもに振り回される毎日にそんなことを夢想する余裕なんてないけれど、せめて今日の出来事を忘れずにいよう。そのようなことを考えながら、僕は記憶の中の公園を後にした。

「わたしの庭の惑星」試し読み

 

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 私の庭に浮かぶ巨大な球体。勿論、それは突如として上空から降ってきたわけでも風に吹かれて何処かから転がってきたわけでもない。もはや仰がねば全貌を視界に捉えることができないその物体を、私たちは惑星と呼んでいる。


「初めに種を植えました。数日後小さな芽が生えてきました。乳白色の芽の先端に丸い球が付いていて、最初それは葉が丸まっているのだろうと思いました。しかし球は広がることなく球のまま巨大化していきました」

 その一連の不可解な現象について彼女はそのように説明する。

「一ヶ月で惑星はわたしの背丈よりも大きくなり、すぐに家の屋根をも越してしまいました。どれだけ巨大化しても自重を持たないかのように、芽に繋がれたままこうして空に浮かんでいます」

「ちょっと待ってほしい。そもそもが種子から生えてきたというのなら、どうして君はあの物体を惑星などと呼び始めたんだ?」

 そんなくだらない質問が飛んでくるとは思わなかったというように、彼女は薄く口の端を持ち上げてみせる。

「名称に意味はありません。確かにあれは植物なのかもしれませんが、光合成をして大きくなっているとは到底思えないでしょう。謎の物体であるにしても、等速度で地球の周囲を公転していると考えるならばむしろ衛星と呼んだほうが正しいのかもしれません。ですが、わたしはあの物体が現在のままで留まっているとは思えないのです」
「君はあれが巨大化した先に何が待ち受けていると考えている?」

 この質問に対し、彼女は冷笑を消した。

「あれが何であれ、誰かの目に触れることは何か恐ろしい事態を招くのではないかと恐れています。不思議なことに他人には認識することができないようです。これまでに、いくら巨大化していこうとも誰かに気付かれることはありませんでした」
「じゃあ君の不安は杞憂だという訳だ。誰も見えないなら気付かれることも無い」
「でもあなたには見えているのでしょう?」

 首肯する。確かにそうだ。

「今はわたしとあなたにしか見えていませんが、いずれ他の人々もこの惑星に気付くでしょう。そのときのことを考えると、わたしは恐ろしくてたまらないのです」
「もしも全ての人たちにこれが見えるようになったら一体何が起こるのだろう?」

 私の問いに、彼女はゆるゆると首を横に振った。私はため息を吐く。結局我々には待つことしかできないのだ。

 惑星は今日も大きくなり続けている。

 その果てに何が待ち受けているのか、私たちは未だ知らない。
 
 その女に出逢ったのは、私が大学を卒業し教師としてその街に赴任した初めての秋だった。土地勘の無さから辺鄙な場所に居を構えてしまい、早朝の始発のバスに乗って通勤していたのだが、私の次に乗り込んでくる乗客が彼女だった。次に人が乗り込んでくるのは街が栄え始める先ことで、三十分ほどの時間を私たちは二人で過ごさねばならなかった。彼女がそのバスを利用するようになったのはその年の夏頃からのことで、一番後ろの席を陣取る私の斜め前にいつも座るようにしていた。年齢はおそらく私よりも幾らか上かといったところだが、油気のない髪が草臥れた印象を強くしている。初めに彼女を奇妙に思ったのは夏だというのに長袖の服と手袋を身に付けていたことと、傍目にも明らかに日に日に顔色が悪くなっていたことだった。

 素肌を隠すような服装をしていたのは何かの怪我や発疹をしていたからなのかもしれず、或いは単に宗教的もしくは職業的に肌を守らなければならない理由があるのかもしれない。前者の理由から、彼女は何か病気を抱えていて、顔色の悪さもそれによるものだと考える事も出来るだろう。いくら妙齢の異性だとして、そして奇妙な点をいくつか抱えていたとしても、単に毎朝乗り合わせるだけの縁を温めようと思う程私は厚顔でもなく、特に関わりも無く日は過ぎていた。

 ある日、彼女がいつも降りる停車場に近付いても停車ベルを鳴らそうとしなかった。運転手もその停車場に停まるのが半ば習慣のようになっている故に一向に停車ベルが鳴らないことを訝しみ、駅名を殊更大きな声で呼び掛けるものの、彼女は動かなかった。

 眠ってしまったのではないかと私が顔を覗き込むと、彼女は眠るどころか目を見開いて窓に張り付くようにして外を見つめていた。その異様さに大丈夫かと私が声を掛けると、はっとしたように振り向き「あなたにはあれが見えますか?」と彼女は遠くの一点を指差して訊ねた。

 その方向を見遣ると、そこには街を飲み込むような巨大な球体が浮かんでいた。

 あの大きさならすぐに気付いていたはずだろう、なのに私は彼女に言われるまでそれに気付かなかった。巨大な球体は朝日の光を遮り街に影を落としている。球が巨大ならばその影はさらに巨大で、もはやその巨大物体の一部を形成しているという意味で影の巨大さは球をさらに大きく見せていた。街を飲み込むような、というように形容したが、影を球の一部だとすると文字通りに街は球に飲み込まれていた。
「なんですか、あれは」

 我ながら馬鹿な質問だ。あれは何かと訊ねて、何か納得できるような回答が得られるわけが無い。
 とはいえ、彼女の回答も私の想像なぞ及びもつかないほど馬鹿馬鹿しいものだったのだが。

「わたしの庭の惑星です」と彼女は言った。
 大体このようにして私は惑星に出逢った。

 

 

.................続きは書籍にて。

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「死にたくなるほど好きならば」試し読み

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 僕の人生において、周期的に変な女の子と出逢うように宿命付けられているのではないかと気付いたのは、僕が高校生くらいの頃だったと記憶している。


 何年かに一度の頻度で惑星同士の軌道が重なり合うように、何らかの法則に基づく周期で彼女たちは僕の前に現れる。やがて僕はそろそろ変な女の子に遭遇するであろう時期を察知できるようになった。その予感に基づいて僕は神経を張り巡らせて注意した。
 けれど、結局のところ変な女の子との出逢いというのはいくら身構えたとしてもあまり意味がないのかもしれない。彼女たちは想定を超えて僕の人生をかき乱し、そして去っていく。とにかく、いくら対処できないとしても心構えは大事だ。たとえそれが悪あがきだとしても。


 やがて僕はひとつの特技を身に付けた。出逢った相手が変な女の子かどうかすぐに判別できるという特技だ。鍛錬を重ねるうちに、少し顔を合わせるだけでその子が僕の人生に宿命付けられている変な女の子かどうかわかるくらいにまでなった。

 そんな能力なんてほとんど役には立たないんじゃないかと思われるかもしれない。だけど、仲を深める前に変な女の子か判別できるというのは僕の人生においてとても重要だ。繰り返すけれど心構えはとにかく大事なのだ。

 僕はこれまでの人生で何人かの変な女の子と出逢い、そして別れた。彼女たちの何人かと恋人になったこともあるし、ならなかったこともある(全員と恋人関係になっていたとしたら、僕の身はとても持たなかっただろう)。

 彼女たちにはおよそ普通とは言えない人間性を持つ以外の共通項は見当たらなかったが、今となっては彼女たちとの関係は決裂し、もはや連絡さえ取れなくなってしまったという点においては共通している。彼女たちとの関係はいつも長続きしなかった。そしてこれからも再会することはないだろうと僕は思っている。何も根拠のない予感だけれど、それは確信と呼んでも良いくらい確かな予感だ。

 もしかしたらこれは宿命ではなく呪いなのかもしれない。僕の人生はそのような規定の上にあるのだという呪いだ。だとしたら僕を呪っているのは僕自身だろうけど。

 だけどたまに、いつか僕と彼女たちが一堂に会する日が来るのではないかと妄想することがある。ある日の朝、郵便受けに招待状が届いて、案内された会場を訪れるとこれまでに出逢った全ての変な女の子たちが僕を出迎える、そんな妄想だ。

 僕の宿命染みた呪いが全て解け、彼女たちの特異な人間性と僕の偏狭さによって招いてしまった軋轢やら何やらを水に流し、握手を交わして思い出話に花を咲かせる。そんな同窓会めいたハッピーエンドを僕は夢想する。何百年に一度の惑星直列のように、僕が生きているうちにはそんな日は来ないのかもしれないけれど。

 

         *     *     *

 
 大学に入学したときに僕は実家を離れた。一人暮らしを始めるにあたって僕はいくつかミスを犯した。その中でも最悪なミスは洗濯機を買わなかったことだった。

 実家に居た頃は家事をほとんど親に任せきりで甘やかされた生活しか送ってこなかったせいで、独りで暮らすことに対する想像力が欠如していた。家に帰れば温かい食事と風呂と布団が用意されていて毎朝清潔な服を着ることができる、そんなことは魔法でも妖精の仕業でも無く親の労力によるものであり、そんな当たり前の事実にいちいち打ちのめされながら必死に新しい環境に順応しなければならなかった。

 そう、想像力の欠如のせいで僕の部屋には洗濯機が存在しないのだ。両親や先に実家を出た兄も洗濯機を買えとは言ってくれなかった。もちろん訊かなかった僕が全面的に悪いのだが。ともかく、僕の部屋にはテレビやオーディオ機器や大きな本棚はあるのに洗濯機がない。要するに実家の自分の部屋にあったもの以外に対する想像力が足りていなかったのだ。

 おかげで週末にまとめてコインランドリーに持っていくか、小さなユニットバスの浴槽で手洗いをしなければならなかった。大学二年生になり、三年生になっても僕はコインランドリーに行くか浴槽で手洗いをしていた。ここまで来るといまさら洗濯機を買うわけにもいかない。

 テレビでコメディアンが「タイムマシンがあるとしたら、ポイントカードを作りますかと最初に尋ねられた日に戻りたい」という漫才をしていた。最初に来店したときに作らなかったポイントカードを今さら作ったとしても、これまでに断って得られなかったポイントは帰って来ない。ポイントカードの所持を尋ねられる度に後悔の念に囚われてしまう。だからタイムマシンで最初の日に戻りたい、という内容だ。そんなしょうもないことにタイムマシンを使うなと突っ込まれる話だったが僕はとても共感した。僕の洗濯機に対する思いも同じだったからだ。

 汚れた自分の下着を浴槽で洗う度に僕は後悔する。だが今さら買うのも敗北感を覚える。これまでの自分の行為が無駄になってしまう気がして、これからも無駄な行為を重ね続ける。

 暴落する株を損切りできずに手放せないトレーダーのように、過去に囚われて現在地点での正確な判断を下すことができない。僕の人生はそんなポイントカード的な亡霊に満ち満ちている。

 変な女の子たちについて思い返すのも、同じように後悔と自責に苛まれているせいだろうか。
 
 だいたいこんなような話を、僕はコインランドリーで遭遇した女の子に話した。
 彼女は僕の話に相槌さえ打たず黙って聞いていた。
 そして最後にひとことだけ、
「わかった」 
 白石さんはそう言った。

 いったい、何がわかったというのだろうか。
 僕がそう尋ねると白石さんは首を少し傾げて無言でこちらを見つめた。無感情に刺すような瞳が僕に向いている。いちいち説明しなければいけないのか、と言っているような目だった。

「いちいち説明しなければいけないの?」
 彼女は実際にそう言った。

 目で語るだけでは不足だと思ったのか、あるいは僕の洞察力を過小評価しているのかもしれない。

 僕は子どもの頃に公園で遊んでいたサッカーボールのことを思い出した。遊びすぎて空気が抜けてしまったボールは強く蹴り飛ばしても全く転がらなかった。それでも新しいボールを買ってもらえなかったから、球形でなく歪な物体になるまで使い続けていた。彼女との会話の弾性力はあのサッカーボールと同じくらいだった。

 僕は小さなため息をつき、轟々と唸りを上げる洗濯機を見遣った。赤いLEDが、洗濯乾燥が完了するまでの時間を示している。それは僕らに残された時間だ。

 僕らはコインランドリーの匂いに包まれている。

 そもそも僕はなぜこんな雨の日にコインランドリーに来なければいけなかったのか。
 浴槽で手洗いするのが億劫なときか、よほど汚れがひどいときにしかコインランドリーは使わない。理由は単純で金が勿体無いからだ。一般的な大学生はお金が無いのだ。

 雨の日にコインランドリーを利用することはまず無かった。せっかく清潔になった洗濯物が家に帰るまでに濡れてしまうからだ。だが、どうしても明日まともな服を用意する必要があって、こんな雨の日にコインランドリーを利用することになってしまった。ひらたく言うと明日デートする予定ができたのだ。

 それにしても、どうして女の子をデートに誘うというのはこんなにも絶望的にみじめな気持ちになるのだろう? うまく約束を取り付けることができても、何か重大な間違いを犯してしまったような浮遊感が足元にまとわりつく。デートなんて約束するんじゃなかった、独りで映画でも見ていればよかったのだと後悔する。いつもそんな感じだ。

 みじめなやりとりの後に携帯電話を握りしめながらそんな憂鬱な気持ちに沈んでいると、ふと明日着ていく服がないことに気付いた。外は雨模様で、今から洗ったとしても部屋干しでは乾きそうに無い。こういうときは何もかも噛み合わないんだ。舌打ちをして、僕は洗濯物をリュックに詰め込んで家を出た。

 

 そして、コインランドリーで白石さんに出会った。

 

         *     *     *

 

 白石さんは同じ学部の同期で、僕と同じ講義を受けていた。

 白石さんは講義室の前から三列目の右の机にいつも座っていた。なぜそんな細かいことをいちいち見ているかというと、それまで僕も同じ場所を陣取っていたからだ。その場所に座る理由は特に無いけれど慣れた場所というのは手放したく無いものだ。白石さんはいつも講義が始まるより少し早い時間から席を取っていた。しょうがないので僕は彼女の斜め後ろの四列目の席に座った。

 ある日、たまたま前の講義が早く終わったので、白石さんよりも早く席を取ることができた。すこしあとに講義室に入って来た彼女は僕の姿を見咎めると、入口で立ち止まり何も言わずしばらく僕を見つめた。僕は教科書を読むふりをしてその視線をやり過ごした。白石さんが歩き出して何も言わず僕の横を通り過ぎたときは一瞬ほっとしたが、彼女はそのまま僕の真後ろにぴたりと座った。白石さんは何か文句を言うわけではなかったが、無言の圧力が空気を媒介して伝播してくるのがはっきりと分かった。正直に言って、とても恐ろしかった。生きた心地がしなかった。それからは二度と彼女の定位置に座ることはなかった。

 しかし僕らのやり取りといえばそれくらいで、他に話したことはほとんどなかった。大学生の横の繋がりなんて希薄なものだ。ただ、近くに座っていると何となくひととなりは掴める。授業の内容をきちんと理解し、いつも独りで講義を受けていて、友達はそれほど多くない。彼女について知っていることはそれくらいだった。彼女は美人と言って良い容姿をしていたし、頭も良かったけれど、それだけの理由で仲良くなろうとするほど僕は異性に対して積極的ではなかった。
 
 僕が洗濯機に衣服を放り込み硬貨を入れて洗濯を開始しようとした、ちょうどそのときに白石さんがコインランドリーに入って来た。青色の傘を畳み、空いている洗濯機はどれかと店内を見渡したときに白石さんも僕に気付いた。

 だけど、説明したように僕らは学外で偶然出逢っても会話をするような仲では無い。無視するのも気まずいので僕は軽く会釈をしたが、彼女はちらりと僕の方を見ただけだった。そんなことでいちいち気分を害する人間ではないので、僕は軽く肩を竦めて聞こえない程度に小さく鼻を鳴らし、コインランドリー内に設置されたパイプ椅子に座って本を読みながら洗濯が終わることを待つことにした。

 洗濯から乾燥が終わるまで小一時間かかる。晴れていれば家に帰ることもあるけれど、だいたいは本を読んで待つことにしている。コインランドリーで本を読むのは好きだった。昔から僕は何かを待つというのは嫌いではなかった。たとえば空を眺めたり、街行く人を観察したり、こうして本を読んだり、暇を潰す方法を考えるのが好きだ。それにコインランドリーの暖かい乾燥機の匂いに包まれているとなぜか安心する。それに喫茶店とは違っていくら居座っても無料だ。もちろんコーヒーは出てこないけれど。

 白石さんは空いている洗濯機を見つけると、袋から衣服を取り出して中に入れ始めた。僕はすでに本に集中し始めていたが、視界の端でその姿を捉えていた。やけに洗濯物の量が多いな、と僕は思った。
「あっ」
 袋から洗濯機に移す際に、白石さんの手から衣服の一部がこぼれ落ちた。そして、偶然にも僕の足元にそれが滑ってきた。

 

 それは、白石さんの下着だった。
 紅色の、レースの付いた派手なブラジャーだった。

 

 その瞬間、確かに時が止まっていた。

 おそらく地球の自転も止まっていたんじゃないかと思う。

 僕は何も言えず、動くこともできなかった。落としましたよ、なんて拾えるわけがない。消しゴムを落としたのとは違うのだ。

 白石さんもしばらく静止していた。だが僕とは違い動揺しているのではなく、ただ無感情に落ちた下着に目を向けていた。まるで下着が自分で起き上がって彼女の手元に戻ってくるのを待っているかのようだった。白石さんがどれくらいそうしていたかはわからない。ものすごく長い時間だったような気がするし、一瞬だったかもしれない。当然のことながら下着は起き上がったりはせず、時間から切り取られた世界の一部としてコインランドリーの床に存在し続けていた。

 不意に彼女は僕の方を向き、口を開いた。
「ねえ、どう思う?」
 僕は彼女の言葉の意味がわからなかった。
「え、何が?」我ながら間抜けな声だった。
「私のブラジャー、どう思った?」
 白石さんはもう一度問いかける。

 この人は何を言っているんだろう、素朴な疑問が僕の脳内を支配した。

 一瞬の空白の後、僕は今までになく思考をフル回転させた。大学入試のときよりも脳を活用させ、圧縮された時間の中で彼女の問いに対する答えを探した。

 だが答えなんて出なかった。

 可愛いね、で良いのか。そんなはずがない。飼い犬を見せられた感想とは違うのだ。早く仕舞ったら、と冷たく言い放つのはどうか。気の利かない男だと思われるかもしれない。だけど気が利かないと思われたから何だというのか。色々考えているうちにだんだんと腹が立ってきた。なぜ僕が突然試されなければならないんだ。

「別に、どうも思わないけど」僕はぶっきらぼうを装って答えた。
「嘘」
 白石さんは即座に否定した。
「高梨君は嘘をついている」

 白石さんはそう言って、下着を拾い上げ洗濯機に投げ込んだ。洗濯機のドアを閉めボタンを押して洗濯を開始し、僕の方を振り返る。

 そのとき、僕は白石さんの顔を初めてまじまじと見た。

 思えば、予感は確かにしていたのだ。僕はもっと身構えておくべきだった。

 白石さんは正真正銘、パーフェクトに変な女の子だった。

「私はね、他人の下心を見ることができるの」
 白石さんは相変わらず無表情で僕を見つめている。
「高梨君、私の下着を見て興奮したでしょう?」

 

 

.................続きは書籍にて。

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 ほんとうの世界のすがたは決して美しくはなかった。 

 

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6年ぶりの短編集になります。 前作「わたしの庭の惑星」以降の全作品と書下ろし表題作を収録。「わたしの庭の惑星」も併せて再販します。

今回はBOOTHというサービスを利用させて頂いています。購入者の氏名や住所はぼくには分からない仕組みになっておりますので、個人情報を心配される方はご安心ください。※購入にはpixivアカウントが必要になります

 

■収録作

死にたくなるほど好きならば

紫陽花が散らない理由

あなたの物語

硝子と眼球

こどもの国