知らない街で暮らすというのは子ども時代に戻ることに似ているような気がする。
何も知らなかった頃を追体験すること、それが旅行の意義なのかもしれない。考えてみれば、言語がわからない場所に放り込まれる、というのも幼児体験に近いものではないだろうか。原体験を取り戻すということ。僕にとってのメキシコ滞在を言い換えるならばそういうことになる。
最初メキシコに着いた時はかなり鬱々としていたが、慣れてしまってからはむしろ日本にいる時よりも快適に過ごすことができた。時差ぼけの体が慣れていくのと同じペースで僕の精神もメキシコという国に馴染んだ。
メキシコは多様な側面を持つ国である。先進国なのかどうかということもそうだし、街ごとの特色も全く異なっている。スペイン植民地時代が色濃い地域ではヨーロッパ風の町並みを残しているし、メキシコシティの都市部はアメリカとメキシコの様式が混合しアメリカ郊外の田舎町の雰囲気がどこか漂っている。ブロック塀を積み上げて土壁のように塗り固め、一面を単色で塗装した建物が印象的だ。その塗装が剥げかかってどことなく街全体が廃墟のような雰囲気を持っているのにも関わらず、活気のある人々の生活とのコントラストを生み出し違和感が満ちるのだと思う。とにかく不思議な国だ。
僕はこれまで言葉の持つ力を信じていた。おそらくは過信と言っていいほどに。だが言葉が通じない世界に放り込まれて、どうしようもない孤独と無力感に襲われた。プエブラの街からバスに乗って知らない場所に連れて来られたとき、僕はまるで素っ裸でその場所に立っているように感じた。どこを歩いてもどこへも行けない気がした。
だが、必死になって身振り手振りで知らないおじさんから道を聞き出し、自分がどこに行けば良いのかわかったとき、僕はこれまで信じてきた「ことば」というものを勘違いしていたのだと思い知った。人と人との意思が繋がる時にことばは生まれるのだ。
僕はおそらく、言葉が存在することによって他人という存在が現れるのだと思っていた。今まで言葉で何もかも出来るという万能性を信じていた僕にとって、この経験はとてもクリティカルだった。
日本の空港に降り立つと、そこは意味の分かる言語で満ちた世界だった。
「ここはうるさすぎる」
僕はなによりもまずそう思った。
「帰りたい」誰ともなくそう呟いた。
でも、どこに?
メキシコは僕の帰る場所ではない。だがこの場所はうるさすぎる。
遠くへ行きたい、という牧野君の言葉を思い出す。
そう、僕は遠くの場所に帰りたいのだ。
それはとても矛盾しているけれど、でも確かにそうなのだ。
全てに疎外されて、どこにも馴染めないような気分になっていた学生時代の頃を思い出す。僕は凪いだ場所を求めていた。どこもかしこもうるさすぎた。自分の部屋の中でさえも苛むような声が止まなかった。
「帰りたい」
最近の僕は自宅でもそのように呟く。もしかしたら僕のあたまは取り返しのつかないくらいおかしくなっているのかもしれない。僕の帰る場所なんてどこにもないのだろう。帰りたい帰りたい。僕はそう呟きながら毎朝家を出る。
きっとどこか遠くにある、地球の裏側よりもずっと遠い、とても静かな場所を目指して僕は今日も旅に出る。