惑星間不定期通信

小説を書いています。本や映画の感想やその他なども書きます。

小説を書くことについて

文学フリマに出す小説を書き終えました。まだこれから書き直しを行いますが。もしかしたらこの書き直しの作業が一番楽しく、そして作品の質を大きく左右するものかもしれません。今回の小説はとても手応えがあり、良いものが書けたのではないかと思っています。前にも書きましたが、だいたいいつもそう思っています。そしてこれもいつものように脳裏によぎることですが、前よりも良いものが書けたという思うときは、前作を読んでつまらない気持ちになってしまっていた人は読んでくれないのかなと考えてつらくなったり、前作も同じくらい上手く書けていればよかったのにと後悔することもあります。

 

――――以下は小説を書き終えた個人的な打ち上げとして日本酒をしこたま(死語)飲んだ勢いで書いた、とても個人的な文章です。ひとが読んでもあまり面白くないかもしれません。というのは、他人が読んで面白いと思うレベルの内容を担保しないという意味です。

 

そもそも僕は小説を書くときにあまり他人に楽しんでもらおうと思って書いていないな、とふと気付きました。言い換えると誰かのために書いたことがありません。いつも僕は自分自身が面白いと思えるものしか書きません。だから書いているときは心底楽しいし、書き上げた瞬間その作品は世界で一番面白い作品(のひとつ)になります。でも僕と言っても『そのときの僕』でしかなく、時間をおいて読み返してみると「なんでこんなものを書いたんだろう」と頭をひねることがあります。また、単に技術的に未熟だったために書きたかったことが充分に果たせていないこともあります。

なんにせよ、世の中でどんな小説が流行っているのかだとか、どんなものを書けばウケるのかとか、全く考えていません。商業作家ではこうはいきません。芸術としての純文学を除けば、エンターテイメントとして読者を楽しませる必要があります。

とはいえ、僕は自分自身の趣向はそれほど一般の感覚からはずれていないのではないかと思っているので(それが大きな思い違いだという可能性は小さくありませんが)、僕が面白いと思うものは他の人もそれなりに面白いのではないかと思っているのですがどうでしょう。僕はそれなりにメジャー作家が好きだし(ただし現代のメジャー作家ではないことが多いですが)、彼らの良いところをなるべく吸収するようにしています。だから僕の小説は村上春樹的な部分があったり夏目漱石的な部分があったりドストエフスキーサリンジャー佐藤亜紀円城塔伊藤計劃森博嗣太宰治秋山瑞人穂村弘などその他もろもろ数え切れない要素があると思います。

オリジナリティというのは先人の技術のミクスチャーあるいは発展であり、誰も見たことがない「個性」なんて存在せず、存在したとしても大したものではないと考えています。それは物理学や数学において突如新しい法則が生まれるようなことはなく、すべては先人が積み上げてきた学問に立脚しているのと同じではないでしょうか。

ええと、こんな話をしたかったわけではなくて。

とにかく僕にとって小説を書くという理由は何よりも僕が楽しいから書いています。高校二年生の頃に小説を書き始めたときからそれは同じです。高校生の頃の僕は今にして思うとちょっと異常で、授業もろくに聞かず四六時中本を読んでいるか文章を書いてるか、そのどちらでもなければ脳内で文章を組み立てていました。おかげで学業の成績はひどく落ちました。

大学の頃になるとただ楽しいからではなく技術的に上達するために努力するようになり、また同時期に精神を病み始めたこともあって、書くという行為が自己治療の意味を帯びはじめました。

箱庭療法という心理療法があります。文字通り箱の中に砂や玩具を置き自己表現することによって治療を行う手法です。小説を書くということはそれに似ています。識閾下まで潜り込み自己表現をすること。無意識下のレベルまで深化させ、そして物語をシミュレートするということは、自分の苦しみの根源は何なのかを把握する上で役に立ったのではないかと思います。もしも小説を書いていなければ僕はもっと混乱し現在のようなかたちを保てなかったのではないかと思うのは過言でしょうか。その行為を文字通りの自慰行為としてマスターベーションとみなしてしまえば、僕の小説を他人に読ませる意味なんてないのですが。

他人に読ませる意味。上記を踏まえるとその意味がわからなくなるかもしれません。自分自身のために書いているのであれば他人に読んでもらう必要なんてないのだから。おそらくその理由は、誰かに自分を認めてほしいという承認欲求と、僕が面白いと思うものをみんなにも面白がってほしいと思う紹介のような気持ちによるものなのかもしれません。

 こんなことを書くととんでもなく馬鹿で身の程知らずの自意識過剰かと思われるかもしれませんが、病気で知力が低下する前の僕は同年代としては日本で一番(小説としての)文章がうまい人間だと思っていました(病気によるものなのかそれとも治療に用いた抗うつ剤のせいなのかわかりませんが、記憶力と思考力と情報処理能力は二十歳前後に比べると半分くらいになりました)。

こと小説としての文章力で言えば現代作家で言えば村上春樹の次くらいにレベルが高いと本気で思っていました。そりゃ佐藤亜紀伊藤計劃円城塔秋山瑞人に比べたら僕なんてミジンコかもしれないけれど、ある種の技術力においては負けてないんじゃなかろーか、なんて思っていました。

たとえば以下の一節。


 寒さに目が醒め、車窓の外を見遣ると雪が積もっていた。同室者に訊けば道程は半ばも大分過ぎたという。同室者は擦り切れた服装をした初老の男で、枕元の灯りの件を詫びると気にしなくても良いと言い、冷えるからこれを飲むと良いと私に酒を差し出してきた。それを口にしてようやく人心地が付いた気がした。
 何をしに北国へ行くのか、と男は訛りのきつい口調で訊ねた。嫌なことがあって逃げ出してきたと正直に答えると男は呵呵と笑い、そんなような顔をしていると言った。漂白の旅にはちょうど好い、極寒の冬の風に吹かれればそこらの悩みにかかずらう余裕も無いだろう。私は力無く笑い返し、差し出されるがままに酒をかっくらって再び眠った。目覚めたときには終着駅で、男の姿は既に無かった。 

 たぶんここを読んだ人は特に何も感じないと思うのですが、僕としては自分の文章の中で一番上手く書けたのではないかと思っています。綺麗な表現や詩的センス云々ではなく、このような描写をこのように書くことができている小説はなかなか見たことがない(僕としてはこの部分は佐藤亜紀の「ミノタウロス」を意識して書きました)。

たぶん読んでる人は何言ってんだこいつとか、上記の引用文のどこが優れているのかちっともわからないと思うかもしれませんが、ようするに僕の中の面白いとかよく書けたとか、基準はこんな感じです。楽器の音作りに異常なまでにこだわるミュージシャンと似たようなものかもしれません。小説を書くことについて、何が良い文章で何を目指しているのか、もうすこしテクニカルな話はいつかきちんと解説したいと思います。

なんか一方的に書きたいことを書いたら、結局着地点がわからなくなって、しかも自分が自意識過剰の思い上がり野郎だと思われかれないようなことになってしまいましたが、とにかく今回書けた小説はよいと思います。

たぶん、きっと、おもしろい。すくなくともぼくにとっては。