惑星間不定期通信

小説を書いています。本や映画の感想やその他なども書きます。

いまさら自作について「わたしの庭の惑星」

「わたしの庭の惑星」について。

 

2012年、大学4年生の時に表題作を書いた。小説を書くときにはタイトルがまず最初に思いつくパターンと、漠然と頭の中にあった『書きたいこと』が凝り固まって物語を書き始めて最後にタイトルを決めるパターンがある。これは前者だった。

たぶん大学構内を歩いているときか、図書館か本屋をうろついているときか、風呂に入っているときか、自転車に乗っている時に思いついたと思う。なぜならそれ以外に思いつく機会がほとんどないからだ。おそらく大学図書館の前を歩いてるときだったような気がする。

タイトルが思い浮かんでから、しばらくその意味を考えていた。「わたしの庭の惑星」とは一体なんだろう? 庭にあるのに惑星というのは矛盾している。「手のひらの中の宇宙」みたいだ。最初は惑星という言葉に囚われて、本物の惑星をもとにハードなSFを考えてみたけれどしっくりこない。なにせ庭にあるのだから惑星ではないし、惑星そのものがあるのではなくて、たとえば庭にワームホールのようなものが開いて宇宙にワープできるというのも面白くない。

いっそ惑星でなければ良いのではないか、と思いついたときに一気に物語が広がった気がした。「わたし」が「惑星」と呼ぶ何かが「庭」にある物語。さらに言えば主人公は「わたし」でなくてもいいのではないか。こんなふうに最初の着想からあえて足を踏み外したときにアイデアが湧き出るということはよくある。

この短編集の表紙絵についてもそうだった。「わたしの庭の惑星」を短編集の表題作にしようというのは最初から決めていて、laicadogさんから頂いた表題作の絵を表紙にしようと最初は考えていた。だがどうもしっくりこず、「別に表紙を表題作の絵にする必要はないのでは」と思い至って「水彩の街」の絵を表紙にしたらぴたりと来た。(「水彩の街」のカラーイラストを用意してくれていたので、たぶんlaicadogさんは最初からこちらのほうが表紙に相応しいと考えていたんじゃないかと思う)

この小説はそれまで使っていたWindowsのノートパソコンではなくMacBookを使用して初めて書いた小説だけれど、とくに道具の差はなかったような気がする。

この小説は大学の図書館の中で書いた。それまでは自室でしか書いたことがなかった。家で書くのも外で書くのも変わらないだろう、と思われるかもしれないが単に集中できるかどうかの問題である。図書館やカフェみたいな公共の場で物書きする行為に対して「気取っている」と思う人もいるかもしれないけれど、その場所がその人にとって集中するのに適しているかどうかだ。あえて気取ることで退路を断たれて集中できるのかもしれない。

得体の知れない巨大な物体が空に浮かんでいる、というイメージが湧いてからは、それが現実の出来事だとしたらどうだろうかと考えながら過ごした。街を歩きながら、空の上に巨大な球体が浮かんでいる様子を想像した。震災のあと、凄惨な映像がニュースで流れ続けていたせいか、街を歩いても現実感がないような感覚が僕の中にしばらくあった。自分がいまここにあるという感覚が希薄になっていたのかもしれない。そういった現実感の喪失や、巨大なエネルギーに飲み込まれる恐怖みたいなものを主人公に抱かせようと思った。

最初は連作短編にして、いろいろな人が「惑星」に取り憑かれるというのを考えた。もしかしたら今からそうしてもいいのかもしれない(気が向いたらそうしようかと思う)。小さな「惑星人」たちが球体から湧き出てきて街を支配するというアイデアもあった。とにかくいろいろなアイデアがあったけれど、文学フリマ用の短編にしようと考えていたので、原稿用紙50枚程度にまとめるためにアイデアを削った。

僕の小説が一番おもしろいのは自分の頭の中にあるときだと思う。着想を得たとき「自分は天才だ」と思うけれど、実際に書き出してみると全然大したことのないものになってしまうことが多い。「わたしの庭の惑星」は頭の中にあったイメージがそれほど劣化せずに書くことができたと思う。そういった自負があるからこそ表題作にした。

 

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もうひとつ、表紙絵になっている「水彩の街」について。

この小説は「雨雫の手記」というタイトルの失敗作(と思っている)の長編小説を短編にリサイズしたものである。「プロの小説家になるには長編小説を書かなければいけない」という強迫観念のもとに大学二年生の頃に書いた初めての長編小説だった。合計200枚ほどなので中編小説と言ったほうが正しいかもしれない。長編小説を書く力量がなかったので、短編小説を寄せ集めたみたいな不自然なものになってしまった。現在は公開していないが、一冊だけ出版して自室の本棚に戒めのように置いてある。僕としてはかなり切実な思いがあり、半年くらいかけてずっと集中して書いていた。

当時の僕は精神的にとても追い込められていた。大学が馴染めなかったことや、学業についていけないこと、小説家になりたいと思いながらも何も出来ていないことに対する苛立ちがその原因だったと思う。ノイズ・ミュージックのように起伏のない凪いだ世界に生きていたいと考えた結果、感情を剥奪された少女の話を書くことにした。主要な登場人物は二人で、お互いに理解し合えるのは世界に二人だけしかいない、そんなように見えつつも結局は誰とも理解し合えないという限界を書きたかった。書けなかったけれど。

「私たちはお互いに手をつなぐことは出来ない」

この頃の僕のテーマを表すとこうなる。しかし、物語に回答が出せず、登場人物を殺してしまった。結局のところ当時の僕には原稿用紙30枚ほどの短編をまとめるくらいの力量しかなかったので、冒頭の30枚はよく書けたけれど、残りはまとまらないものになってしまった。半年間ずっと同じ人物たちに付き合っていたので愛着のようなものがあり、最後には殺してしまったという申し訳無さもあって、短編にリサイズした。二人が幸福だった(ように錯覚していた)ところで物語を終わらせることで、彼女たちを閉じ込めた。この表紙の絵はそんな「切り取られた二人」が水槽の中を歩いている様子が描かれているようでとても気に入っています。