惑星間不定期通信

小説を書いています。本や映画の感想やその他なども書きます。

佐藤究『テスカトリポカ』 虚構を現実に、現実を虚構たらしめるもの

 

 

大傑作である。

 

第165回直木賞、第34回山本周五郎賞同時受賞。

受賞したこと自体はこの作品の凄さを物語らない。殆どの直木賞受賞作なんて文学史からすれば大したことのない作品ばかりだ。本作はこの内容で直木賞を受賞したことが凄いのだ。

直木賞芥川賞と並んで一般的にもっともメジャーな文学賞であるが、どういう作品に与えられるかは意外と知られていない。直木賞は大衆文学(エンターテイメント)を対象とし、十数年前までは中堅作家の円熟した作品に与えられる賞として、しばしば旬を逃した作家・作品が受賞していた。僕自身も直木賞作品は殆ど読んでこなかった。

直木賞はメジャーな文学賞なので受賞作は売れる。だからこそ、売れてほしい作品が選ばれる傾向がある。もちろん筆力、時代性、社会性といった面が第一で評価されるが、多くはまっとうな「大衆的な」作品が選ばれてきた。

だが本作は全く大衆的ではない。麻薬、児童臓器売買といったヘビーな題材を扱う本作にはモラルを持ち合わせた人間は殆ど出てこない。目を背けたくなるような暴力的・残虐的なシーンも多く、弱者が徹底的なまでに虐げられる場面ばかりだ。闇社会の資本主義が本作のテーマであり、大多数の人間に好かれる作品では決してないだろう。

候補作が出揃った段階で『テスカトリポカ』は圧倒的な質の高さから書評家たちから大本命とされていたが「果たしてこの作品が直木賞にふさわしいかという観点で考えると難しいかもしれない」とも言われていた。

だが『テスカトリポカ』はそんな心配は物ともせず、ねじ伏せるような形で直木賞を受賞した。審査員からも「文学とは人に希望を与えるものではないか」という反対意見が挙がったらしいが、「この悲惨は現実で起きていることであり、目を背けてはならない」ということになり受賞に至ったという。

 

そう、この作品の何が凄いかと言えば、虚構を現実に、現実を虚構たらしめる力である。

 

舞台はアメリカ国境の近くメキシコのクリアカンの街から始まる。麻薬カルテル自治部隊が衝突するこの街に生まれた少女は、兄をカルテルに殺され自由を求めてメキシコから川崎へと流れ着く。そして少女は暴力団員との間に子をもうけたが、やがて自分自身も薬物中毒へと堕ちてゆく。その子ども、土方コシモが本作の1人目の主人公である。コシモは生まれ持った怪力を持て余し、ある日激高し自分を殺そうとした父親を殺し、薬物中毒の幻覚の中で刃物で襲いかかる母親も素手で殺してしまう。そして少年更生施設へと送られ、怪力の他にもうひとつ生まれ持った才能である手先の器用さで彫刻を彫り続けながら出所の時を待ち続ける。

また、もうひとりの主人公であるバルミロ・カサソラは3人の兄弟ともに巨大麻カルテルのボスとして君臨していたが、敵対するカルテルの急襲により他の兄弟は全員死に、バルミロもすべてを失ってジャカルタへと逃れる。そこで出会ったひとりの男と共に日本へ渡り、新たな闇ビジネスを手掛かりに裏社会で返り咲くことを目指す。

この作品で扱われている麻薬取引の実態や臓器売買に関する事は現実に起こっていることである。作中では暗号通貨やGPS、ドローンといった最新技術を用いた取引方法が描かれる。作者の佐藤究氏は直木賞受賞の場で友人である危険地帯ジャーナリストの丸山ゴンザレス氏に感謝を述べていた。丸山ゴンザレス氏といえばテレビ番組「クレイジー・ジャーニー」で麻薬・銃取引やスラム街の実態を身一つで取材してきた人間である。丸山氏が取材していたメキシコ・ファベーラの街も本作に登場する。

『テスカトリポカ』はもちろん小説ではあるが、その文体はルポタージュに近い。レトリックを極力廃し会話文も殆どない。膨大な資料と取材によって形成されたバックボーンはとても強固なものであり、現実感と緊張感に満ちた描写によって物語られる。メキシコの麻薬戦争を描いた「ボーダー・ライン」という映画があるがそれに引けを取らない緊張感に満ちている。

 

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だがこの作品の魅力は、その現実感と両立した飛躍的なフィクションにある。タイトルの「テスカトリポカ」とはメキシコ先住民のアステカ文明の神のひとりである。バルミロは祖母から自分たちはアステカの戦士の祖先であるとして幼少期からアステカ神話を刷り込まれた。バルミロは敵対する人間を殺し、その心臓をテスカトリポカの神に捧げる。その呪術性と現実に則した闇社会ビジネスが互いに結びつき、フィクションの飛躍性と現実性を両立させることに成功させている。

バルミロと土方コシモが出会うとき闇ビジネスがテスカトリポカの神話のメタファーだったことが明らかになり物語は急展開を迎える。

小説を読んで息を呑み鳥肌が立つ体験をしたのはいつぶりだろうか。物語の先が気になって深夜まで読み耽ったのはいつぶりだろうか。心躍るような読書体験ーーありきたりな表現だが、本当に読書をしながら心が躍るなんて人生であと何回あるだろうか。そして、そんな体験を日本の現代作家の作品で得られるとは思わなかった。

直木賞を受賞したことでこの作品はより多くの人が読むだろう。そして多くの人がこの作品で描かれる現実とフィクションを直視できずに読むのをやめるだろう。だがそれでも多くの人の手に届き、日本文学の新たな可能性を見出す人が増えることを願う。