惑星間不定期通信

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もし我々が彼のように飛べたのなら 『トップガン マーヴェリック』

大ヒット上映中『トップガン マーヴェリック』トム・クルーズ コメント動画が公開! | EarthCinemas

 

目覚ましい大ヒットで巷を騒がせている『トップガン マーヴェリック』である。

久々に劇場に行き鑑賞したのだが噂に違わず大傑作だった。ぼくがハリウッド映画に求めているもの、いや、『映画』に求めているものが全て詰まっていた。あまりに素晴らしすぎて何年かぶりに2回映画館で鑑賞してしまったくらいだ。

ぼくが映画に求めるものとは何か。それは、今までに見たことがないものを見ること、体験したことがないことを体験すること、そして映画に没入すること――くだけて言えば、ワクワクすることを求めている。

メイキング映像で主演・プロデュースをつとめたトム・クルーズはこう語っている。

「この手の体験は、ありのまま観客に伝えるためには、本物を撮るしか無い」

そうして本作は俳優たちを本物の戦闘機に乗せて撮影されている。もちろん戦闘機に乗るためには相応の訓練が必要となる。ただ乗るだけではなく演技もしなければならない。トム・クルーズパイロット免許を持ち自前のプロペラ戦闘機を乗り回している超人だが、もちろん他の共演者たちはそうではない。撮影にはかなり困難を極めたようだ。戦闘機のコックピットにカメラマンを乗せることはできないので、俳優たちは演技しながら自分自身でカメラ操作をしなければならなかった。撮影された映像は800時間にも及び、そこから映画に実際に使われたのは数十分しかないというから驚きだ。

そんな苦労をしなくても、現代においてはCGで何でも本物らしく撮ることができるはずだ。だがトム・クルーズや本作の監督であるジョセフ・コシンスキーはそれを許さなかった。なぜなら観客に体験をさせなければならないからだ

ぼくは映画を見ながら、まさに映画を体験した。まず前作の『トップガン』をリファインしたオープニングからぐっと引き込まれ、その後は完全に映画の中に入り込んでしまった。気がつけばぼくはマーヴェリックになってカワサキのバイクを駆り、F/A-18に乗って大空を飛んでいた。130分の映画の中で、スクリーンの外を意識することはまったくなかった。それは2回目の鑑賞でも同じだった。映画が終わりエンドロールが流れた時、心地よい虚脱感が身体を包んでいた。映画館で素晴らしい映画を観たときの幸福だけがそこにあった。

トップガン マーヴェリック』はおそろしくシンプルな映画だ。ストーリーに複雑さはまったくない。アメリカ軍が舞台だが敵は『ならずもの国家』とだけ呼ばれていて、政治的な含意や意味深なメタファーはない。それは目の肥えたアマチュア評論家たちがネットで批評し合う現代において、もはや軽薄とも言えるかもしれない。だがその軽さは、観客に体験させるという目的に対しノイズにならないように徹底的に意図されたものだ。「これは戦争映画ではなくスポーツ映画なのだ」とコシンスキー監督は語る。一作目にあたる『トップガン』が今も愛される名作であるのは、それが戦争映画ではなく競争を描いた物語であるからだとコシンスキー監督は分析した。そして、だからこそ映像は本物でなくてはならないのだと判断したのだろう。

また、この映画はコロナウィルスの影響により何度も上映が延期されていた。他の作品がネット配信での公開を行う中、本作は頑なに映画館での封切りにこだわった。それもやはり観客に体験させるために必要なことだからだ。巨大なスクリーンと立体的な音響によって、観客を映画の世界に没入させなければいけないからだ。本作はこの現代においてこれ以上無いくらいに映画的な映画と言えるだろう。

 

子どもの頃に映画を観た時、ワクワクしドキドキして夢中になったことが誰しもあるだろう。その興奮は大人になるにつれ、やがて失われてしまう。だがこの映画はそれを再び蘇らせてくれた。

かつて、ジャズ・サクソフォーンの名手スタン・ゲッツについて同じく伝説的なジャズの巨人であるジョン・コルトレーンはこう言った。「もし我々が彼のように吹けるのなら、みな彼のように吹いているだろう」と。

もし我々がマーヴェリックのように飛べるならば、みな彼のように飛ぶだろう。そしてあなたはカワサキのバイクで荒野を走り抜け、滑走路から飛び立つ戦闘機と並走するだろう。あなたはマーヴェリックになり、マーヴェリックはあなたになる。映画のタイトルに主人公の名が冠されているのは、おそらくそういうことなのだろうとぼくは思う。

そしてぼくたちは映画になり、映画はぼくたちになる。かつて、子どもの頃そうだったように。