惑星間不定期通信

小説を書いています。本や映画の感想やその他なども書きます。

いまさら自作について「紫陽花が散らない理由」

 

 

「紫陽花が散らない理由」について。

 

この小説は「恋愛小説を書く」というミッションのもとに生み出された。書き始める前に文学フリマの出展ジャンルを「恋愛」にして退路を断つ、ということまでしている。そもそも僕は恋愛小説を読まない。恋愛要素が含まれている場合はあっても、真っ向から恋愛を描いたような小説は読まないし、そういった映画や漫画も好んでいない。

世の中の恋愛フィクションは関係性の物語だと思う。特に女性作者の作品はそれが顕著だ。男性作家が書く恋愛は、結局のところ自分自身の事しか書かれないことが多い。たとえば新海誠村上春樹の作品を思い浮かべてほしい。「ノルウェイの森」は物語開始時点で相手は死んでいるし、関係性というよりは直子や緑を通した自分自身の物語が描かれる。もしかしたら男性には女心というものが本質的に理解できないからそうならざるを得ないのかもしれない。なんの根拠もない適当な憶測だけれど。

 

ともかく、興味もあまりないし恋愛というもの自体が何なのかよくわかっていない(結婚した今もよくわからない)のに、恋愛小説を書こうと思ったのは友人に勧められたからだ。

「お前が恋愛を描いたら、何か珍妙なものが出来上がるんじゃないか」

確かにそうかもしれない。そう思って書いてしまった。

とはいえ、やはり恋愛のことは何だかよくわからないので、主人公が相手のことを好きかどうかわからないという物語を書くことにした。主人公を女性にしたのは、どうせ何かよくわからないのならば、徹底的によくわかっていないものにしてしまえ、と思ったからだ。女性のことはわからないし、女性が男性を好きになるという感覚もよくわからないけれど、よくわからないほうが想像を膨らますことができるのではないか、と思った。よくわからないものを書こうとするとき、僕は主人公を女性にしがちである。

結果、最後まで「恋愛が何かわからない」「相手のことが好きなのかどうかわからない」というままで終わってしまった。まあでもそういう恋愛小説があってもいいのではないかと僕は思う。むしろもっと混迷とした小説にしてもよかったかもしれない。次に恋愛小説を書くとしたらそもそも相手を好きにならない恋愛小説を書きたい。そのほうが面白そうだ。事件が起こらないミステリ小説もあるのだから、恋愛が発生しない恋愛小説があってもいいはずだ。そのジャンルは森見登美彦が開拓しているけれど、他にあまりないような気がする。

 

この小説もタイトルから思いついた。会社の敷地に紫陽花が植えられていて、雨季が過ぎても散らずに残っていた。その姿は正直に言ってあまり美しいものではなかった。どうして紫陽花の花は散らないのだろう、と疑問に思い調べてみたら、中々面白い理由だった。そのときには特に小説の題材にしようとは思っていなかったけれど、恋愛小説を書こうと決めた後にふとそのことを思い出してタイトルにすることにした。

この小説は社会人になってから初めて書いた作品である。学生の頃は時間的に自由度が高かったので好きなときに集中して書き、気が乗らないときにはだらだらとしてしまうことが多かったけれど、社会人になってからは平日に帰宅した後だと1時間から2時間程度しか自由な時間が取れず、計画を立てて書く必要に迫られた。

結果的には、一日に決められたページ数を書き続けるスタイルは僕の性に合うようだ。村上春樹森博嗣も同じ執筆スタイルだと知ったのは後になってからだった。気分が乗ってきたときに一気に書き上げると物語をコンパクトにまとめがちになってしまうが、一定のペースで書くようになってからは作品世界をじっくり考えることができるので合計枚数が多くなった。

 

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今まで登場人物にキャラクター性をあまり持たせなかったけれど、この作品はあえて意識して人物性の肉付けを行っている。やはり恋愛小説を目指すからには人間同士が関係する必要があるだろうと考え、作者の自問自答では駄目だと思った。塔子も南も小松くんも千鶴も全員どこか普通ではない一面があるのは、ふつうの人は普通ではない何かを多少なりとも持っているはずだという考えに基づいている。仮に徹頭徹尾普通な人間がいるとしたらある意味それは普通ではないので、やはり「普通」なんてこの世に存在しないことになる。

たいてい自分の書いた小説は読み返しても楽しくないというか物語のすべてを把握しているので面白くないのだけれど、この作品は今読んでも面白いと思える。それは前述したキャラクター性のおかげかもしれない。

 

登場人物と同じく、舞台を実在する鎌倉の街にすることによってリアリティを出そうと思った。この小説を書く少し前に鎌倉に一人旅していたので、その記憶を頼りに書いている。

住んでいる名古屋を舞台にしなかったのは、街が想起させるイメージが乏しいと思ったからだ。たとえば新宿駅で主人公が電車を待つ、と描写したときに、東京に住んでいる人でなくても何となく思い浮かべるイメージがあると思う。それが名古屋の本山駅に移したら「どこそれ?」となってしまう。もちろん長編で丁寧に描写すれば十分に街のイメージを作り上げられるだろうけれど、それはもう架空の街をひとつ作り上げるのとあまり変わらない。

あとは紫陽花=鎌倉のイメージが強かったのも舞台として選定した理由である。そうやって街自体が何かのイメージと強固に結びついているとフィクションとしては非常に扱いやすくなる。名古屋で思い浮かべるのはせいぜい味噌とドラゴンズくらいだろう。そういった残念な(失礼)イメージを払拭するのはかなり難しい。

名古屋は文化的なイメージが無いし、これからもそんなイメージは生まれないのではと思う。名古屋を舞台にした美しいフィクションがあるとしたら、その作者は天才だろう。