思い出は全部記憶しているけどね、記憶は全部は思い出せないんだ
幼い頃、僕は城の近くに住んでいた。
などというと異国の話のように聞こえるけど、父が公務員で名古屋城の近くの役所で働いていたので、名古屋城近郊の公務員住宅に住んでいただけである。名古屋城の付近には役所や省庁の他に図書館や市民体育館や公園など公的施設が集まっており、幼い僕は親に連れられてそのような施設で遊んでいた。
だが、小学校に入る際に引っ越したのでその辺りに住んでいた頃の記憶がほとんど無い。そもそも小学生以前の記憶自体が、UFOで連れ去られて上書きされたんじゃないかと思うくらいにほとんど残っていない。なにしろもう30年近く前の話だ。年月が僕の脳みその皺から古い記憶を洗い流してしまった。
今日までそう思っていた。
用があって県立図書館に自転車で行くことにした。
県立図書館に行ったことはなかった。と、今日まで思っていた。何しろ住んでいる場所から遠い。交通機関で行くにしても不便な場所にある。だいたい、区立図書館に行けば事足りるから県立図書館まで足を伸ばしたことなんてなかった。
グーグルマップで適当に道筋を決めて、自転車を漕いでいた。国道1号線を横切って環状線沿いに外堀通りを進んでいくと、傾きかけた陽光が並木道に影を落としていた。アスファルトの上に色づきかけた落葉が散っている。
その光景を見て最初は、写真でも撮りたいくらいに綺麗な景色だな、としか思わなかった。だが次の瞬間、脳の血管が逆流するような既視感に襲われて思わず立ち止まった。
自分はこの場所を知っている。
同じような時間にこの場所で、この光景を見たことがある。そのような確信を抱いた。
この道の先には小さな公園があるはずだ、と僕は思った。車道沿いから細い道が別れ、公園へと繋がっている。その公園には滑車のついたロープにしがみつくターザンロープの遊具があり、幼かった僕は一人ではそのターザンロープに乗れず母親に背を押してもらっていた。そのような情景が一瞬のうちにフラッシュバックした。
そして、その公園は蘇った僕の記憶と同じように存在した。
僕は公園に足を踏み入れ、しばし呆然と立ち尽くした。
幼い頃の僕は母の自転車の後ろに乗せられて、幼稚園の帰りにこの公園をよく訪れていた。近くのスポーツセンターで水泳を習っていて、その開始時間までこの公園で過ごしていた。
行ったことが無いと思っていた県立図書館も、着いてみるとたしかに幼い頃に訪れた記憶が蘇った。児童書コーナーが円形の部屋にあり、その内周に木製の椅子が設置されている。そこに座って子どもの僕は絵本を読んでいた。
何もかも、すべて今日まで忘れていた。
今日のこの出来事以外にも、最近幼い頃のことをよく思い出す。それは子どもが生まれたからだ。息子と一緒に遊んでいると自分が父親にあやされたときの記憶が蘇る。足の上に子を乗せて飛行機ごっこをしたとき、自分も同じ遊びが好きだったことをふいに思い出した。
息子が生まれてから、今までに体験したことのない新鮮な驚きと感動と苦労に満ちた日々を送っている。同時に、自分が子どもだった頃の記憶を追体験しているような気分にもなる。
きっと息子は将来この日々のことを覚えてはいないだろう。そもそも1歳にも満たない子の脳は記憶を留められるほど発達してはいない(一般的に言語を獲得するまでエピソード記憶を留めることは出来ないとされている)。
だけど、記憶に残らない何かがどこかの引き出しに仕舞われているのかもしれない。あるいは、成長のある段階から少しずつ引き出しが満たされていくのかもしれない。
いつかその引き出しが開けられる日は来るのだろうか、と僕は考える。
もしかしたらその引き出しは、息子に子どもができるまで開けられないかもしれない。僕が今日、そうだったように。そのときには僕はお祖父ちゃんになっているわけだけれど。
目まぐるしく子どもに振り回される毎日にそんなことを夢想する余裕なんてないけれど、せめて今日の出来事を忘れずにいよう。そのようなことを考えながら、僕は記憶の中の公園を後にした。