惑星間不定期通信

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シン・エヴァンゲリオンの感想(の感想)

注意!この記事はネタバレしかありません。

 

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シン・エヴァンゲリオンを見ました。

結論から言うと非常に楽しめました。SNSではネタバレを過度に配慮する風潮があり「面白かった」と言うだけでもネタバレ警察が出動する始末。それも「本当にエヴァはまともな作品に仕上がったのか」「本当に完結するのか」という、旧劇場版に至るまでの顛末を知る往年のファンが抱える猜疑心があるからだと思います。しかし、蓋を開けてみればこれ以上ないほどの完成された完結編であり、終わる終わる詐欺を繰り返していたTV版〜旧劇場版The End of Evangelion(以下、旧劇場版)や不穏しかなかった新劇場版3作目Qからは考えられないほど「まともな作品」でした。

あまりにまともすぎて「こんなのエヴァじゃない」「裏切られた」「取り残された」と拗ねるオールドファンもいれば、「ようやく卒業できた」「成仏しました」と満足する人もいて、ネットにはそんな二極化した感想が見られます。それだけ自分の人生と重ねるファンがいるのだと思いますが、ネットの感想を見てもどうもしっくりこない。そもそもファン自身の人生なんてどうでもいいとぼくは思ってしまうので小学校の読書感想みたいな「ぼく・わたしにとってのエヴァンゲリオン」的感想は興味がありません。かといって、「シンジくんは庵野で、マリは安野モヨコだったんだよ!」という深読みや「ゴルゴダオブジェクトにいたのはナディアのアトランティス人だったんだ!」みたいな考察を見ても、どうも腑に落ちない。

一体なぜだろうかと考えてみると、シン・エヴァンゲリオンという作品は単一の観点から語ることができない多層的な作品だからなのだという思い至りました。いったいどういうことでしょうか。

 

ぼくが考えるシン・エヴァンゲリオンを語る上で最低限必要となる観点は以下の4つ(3つ)になります。

  1. 新劇場版エヴァンゲリオンという物語について
  2. (1.1) エヴァンゲリオンの物語で語られない背景設定について
  3. 庵野秀明監督の私小説的な側面について
  4. これまでの「エヴァンゲリオン」シリーズと、それらが起こした現象への回答

これらすべて多面的に捉えることによって初めてこの作品を語ることができるのではないか、と思います。ぼくはそれほど熱心なファンではないので、もっと語るべき観点があるかもしれません。他にも劇伴含む演出的な観点だったり映像技術的な観点もあると思いますが、ここではこの4つの観点で語りたいと思います。

では、ひとつずつ見ていきましょう。

 

1. エヴァンゲリオンという物語内について

 これは単純に、エヴァンゲリオンの作品で語られる碇シンジを主人公としたエヴァをめぐる物語のことです。これまでの旧劇場版までのエヴァではこの物語についてすら破綻していました。心理描写とストーリテーリングがないまぜになり、最終的によくわからないままアスカの首を締めて「気持ち悪い」と言われて旧劇場版は終わりました。

それにひきかえシン・エヴァンゲリオンはものすごくスッキリと終わります。全体的にコミュニケーション不全だったQは一体なんだったのか、精神的に成長を遂げたシンジくんを中心に関係者全員でヴンダーの上で本音トークを交わし、ゲンドウとも親子の対話をしわだかまりを解きます。ネルフ(ヴィレ)は月イチで飲み会をやっておけばこんなことにはならなかったし、司令室の主モニターでクラナド上映会をやっておけばもっとはやく解決したんじゃないか。*1

最終決戦に至るまでも往年のガイナックス作品のような熱いSF描写もあり純粋にエンタメ作品として優れていました。とにかく、あのしったかめっちゃかになっていたエヴァの物語を(少なくとも表面上は)綺麗に完結させたことだけでも、シン・エヴァンゲリオンウルトラCの難易度を成し遂げたといえるでしょう。Qからあんな綺麗に終われるとは誰も予測できなかったんじゃないか。

 

2.(1.1)エヴァンゲリオンの物語で語られない背景設定について

これはいわゆる考察の対象となる物語背景のことです。語られていないとしても物語を形成する要素ではあるのでほとんど1の観点に含まれます。そのため(1.1)としました。一般的に知られているようにエヴァンゲリオンはSF、心理学、聖書などをバックボーンとした膨大な裏設定があります。作中でほのめかされるワードをもとにそれらを紐解く「謎本」がかつて流行りました(懐かしい……)。

今回のシン・エヴァンゲリオンでもいくつかの謎に決着がつき、さらなる謎が追加されました。それらは作品を理解する上でとても重要ですが、ぼくにとってはあまり興味が湧きません。いくら考察をしても答えなんて出ないし、本当にその設定が練られているか、単に意味ありげなワードを散りばめているだけなのか分からないからです。答えが出ないことをあーだこーだと想像する楽しさは理解できますが、創作者の手のひらで転がされているようであまり気が乗りません。

これらの謎については解答が出ないことが解答のようなもので、つまり真相は不定なわけです。今回のシン・エヴァンゲリオンでもちょうどいい塩梅に考察の余地が残されました。この塩梅も全部計算されたものなのでしょう。TV版エヴァのあとに雨後の筍のごとく生産された裏設定てんこ盛りの電波・鬱アニメ群に比べると、本家の違いを見せつけたといえます。

 

3.庵野秀明監督の私小説的な側面について

Qの終わりでカヲル君の爆死を眼前で見届け、自らの浅慮によりフォースインパクトを引き起こしたシンジ君は完全に心神喪失し無気力かつ失語症に陥ります。これはQの制作で精魂尽き鬱状態となった庵野秀明監督を表していると受け取る見方ができます。庵野秀明監督は言うまでもなく作家性が非常に強く、ナディアなど過去の作品から分かる通り自分自身を作品の中に投影するクリエイターなので、シンジと庵野監督を同一視するのはあながち間違った見方ではないと言えます。

トウジやケンスケなど旧友のサポートや旧エヴァにいなかった新キャラである真希波=妻:安野モヨコの救済により、シンジ=庵野監督が鬱から立ち直りシン・エヴァンゲリオンを完結させたという解釈もできなくはないです。あくまでもゴシップのレベルですが旧エヴァのときに庵野監督はアスカ役の宮村優子にアプローチし拒絶されたといわれており、そのことが旧劇場版の展開に反映されたとされています。今作でのシンジの「ぼくもアスカのことが好きだったんだと思う」という台詞が意味深になってきますが、どうなのでしょうか。

監督のプライベートになるのでなんとも言えませんが、終わらない(終わらせられない)「エヴァの呪縛」に最も囚われていたのは庵野監督自身であったのは間違いなく、精神的に立ち直り完結させその呪縛と決別することができたのは本当によかったのではないかと思います。シン・ウルトラマンでもゴジラでもなんでも好きなだけ作って、これからも傑作を世に生み出してほしいです。

 

4.これまでの「エヴァンゲリオン」シリーズと、それらが起こした現象への回答

旧劇場版が完全な決着ではなかったこと、ループ的世界構造、またTV版26話でのもうひとつの可能性として示された「学園エヴァ」など、エヴァンゲリオンは物語の再解釈と再生産を許す構造となっており、スピンオフや同人誌などのアナザーストーリーが数多く生み出されました。

またエヴァンゲリオンが巻き起こした熱狂的な社会現象に対し、辟易した庵野監督は「ただのアニメに過ぎないから現実に還れ」というインタビューで語り、旧劇場版に挿入された劇場内の観客席の実写映像にそのメッセージを込めました。

シン・エヴァンゲリオンでは物語後半、マイナス宇宙と呼ばれる虚構世界でシンジとゲンドウが格闘します。マイナス宇宙では認知が実体化するため、シンジのこれまで経験した風景(=エヴァンゲリオンという虚構)の上で戦闘が繰り広げられ、壁を突き破るとTV撮影の舞台セットになっていたり、街が特撮セットで作られているかのようなメタ的な描写がされます。これはエヴァンゲリオンはアニメという虚構であることを改めて明示しており、虚構を現実化する新生の槍でこれまでのエヴァ機体たち(=数多に作成されたエヴァンゲリオンという作品シリーズ)を生贄に捧げることで、シンジと真希波は色付けされたアニメーションから原画へ、そして現実世界としての実写映像へ帰還します。その帰還によりアニメのキャラクターとして時が止まってしまっていたシンジも大人の姿へと成長することができたというわけです。

このような見方をすることで、庵野監督のメッセージとしては旧劇場版からは変わっておらず「現実に還れ」と言っていることが分かります。しかしその形がまったく異なっています。冷たく突き放すように観客自身を実写映像で見せつけ物語を破綻させた旧劇場版とは違い、シンジの願い(父との和解、傷ついた世界の再生)と「現実に還る」ことが結び付けられています。このように非常に自己批評的な描き方で、さらに物語としてもポジティブな形で、旧劇場版と同じテーマを示すことができたというのは驚くほかありません。

 

まとめ

まとめます。シン・エヴァンゲリオンは、①表層としてあるエヴァの物語、②それを支える基盤としての裏設定、③それらに投影された庵野秀明監督自身の人間性、④すべてを取り囲む外部としての「エヴァンゲリオン」という作品に対する受容、これら4つを射程に捉えそれぞれに見事な「完結」を提出してみせました。改めて凄まじい作品です。

もちろん欠点がないわけではありません。シンジがセラピストとしての才能を開花させたが如くエヴァパイロットたちのわだかまりを解き放ち補完を完遂させていくさまは予定調和的ではありました。そして物語の外縁で暗躍していたはずの真希波が主役に据えられたのは唐突感が否めません。父親と和解し、アスカ(昔のオンナ)との未練を捨て、真希波(新しいオンナ)とくっつくというのは、往年のファンからは反発があるようです。同窓会で昔の悪友がサラリーマンになって結婚して子どもを作っていたかのような、落ち着くところに落ち着いた感があるといえばそうかもしれません。だからこそ「同窓会」とか「卒業式」とか言われているのだと思います。

とはいえ、この結末は序の段階からの規定事項だったのかもしれません。序の最後にカヲルが「今度こそ君を幸せにしてみせる」と宣言しましたが、シンジの幸せとは父の和解に他なりません。

シンジの幸せが物語の結末だとして逆算すると、このような物語以外には考えられないとすら思ってしまいます。レイやアスカだけでは幸せにできなかったのだから新しいキャラクターが必要になるのは当然といえば当然です。真希波の描写が圧倒的に不足しているのが難点ですが、これ以上尺を使って掘り下げたところで完結が長引くだろうし、キャラクターを掘り下げれば掘り下げるほど不幸になるに決まっているので、これが最善だったと思います。

 

長々と語りましたが(原稿用紙15枚分も語ってしまった)、どの観点からみてもシン・エヴァンゲリオンはよくできた作品であり大傑作だと思います。これまでのすべてのエヴァンゲリオンを上書きし、さよならを告げる作品でした。しかし作中で「さよならはまた会うためのおまじない」と言われているように、再会を期待することもできます。どこまでもポジティブに受け取ることができる作品であり、エヴァンゲリオンというある意味で呪われていた作品がこのような結末を迎えることができたことに喜びを感じ、そしてこの巨大すぎるプロジェクト(エンドロールに流れる関係者の数の多さよ!)をまとめ上げて終わらせた庵野秀明監督に称賛の拍手を贈りたいです。ありがとう庵野監督、ありがとうエヴァンゲリオン

 

*1:冗談半分でクラナドの名前を出しましたが、クラナドの終盤の展開はシン・エヴァンゲリオンと完全に相似しています。クラナドでは妻を失った主人公朋也が残された娘と向き合うことができず育児を放棄し、地元に帰って仕事に打ち込みながら旧友の助けを得て立ち直り、娘との対話を経て失った妻の存在を娘の中に見出します。クラナドのメインライターである麻枝准エヴァの影響を少なからず受けていますが、セカイ系的物語から「セカイの最小単位としての家族」に着目していたのは驚くべき先見と言えるでしょう