惑星間不定期通信

小説を書いています。本や映画の感想やその他なども書きます。

メキシコ旅行記 六日目「トラディショナル食堂」

 この日の仕事はとてもしんどかった。これまで順調だった実験に暗雲が立ち込め始めている。難しい局面を迎え、憂鬱な気持ちになる。

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作業をする筆者。ひどい猫背である。

 一方、体調の方は良くなっていた。食欲がだいぶ回復し、朝食にモーニングセットの干し肉を焼いたものを食した。昼食に食堂に行くと、得体の知れない物体が本日のメニューとしてディスプレイに置かれていた。

「これは一体なに?」と僕が尋ねると

「こいつはメキシコのトラディショナルな食べ物だ」とエルネストは答えた。エルネストに食べ物のことを尋ねると、だいたいいつもトラディショナルだと言われているような気がする。

 得体の知れない何かの正体はチレス・エン・ノガダと呼ばれる代表的なプエブラ料理だった。ピーマンにも似た大きな緑唐辛子に挽肉を詰め、クリームソースを掛けてくるみとザクロの種をトッピングした料理である。白・緑・赤のカラフルな色合いはメキシコの国旗をイメージしているらしい。味付けは甘く(!)、緑唐辛子の辛味と苦味、ザクロの酸味と甘みが挽肉の味と不思議なマッチングを果たしている。美味しいが、たぶん本当にもっと美味しい料理なんだろうな、と思ってしまった。所詮は研究所の食堂なので、素材の限界を感じてしまった。

 結局、ここ以外でこの料理を食べることがなかったので惜しいことをした。日本ではプエブラ料理は食べられない。日本に帰ってからメキシコ料理の店を探したけれど、タコスやワカモレくらいしか出さない料理屋ばかりで残念だ。メキシコにはもっと美味しい物があることが周知されるとよいのだけれど、やはり地理的に遠い国だと伝わらないのかもしれない。

「こいつもトラディショナルなフードだぜ」
 エルネストはそう言ってデザートを差し出した。この食堂にはトラディショナルなものしか出ないのだろうか。だとしたら外国人に優しい食堂である。
 デザートはポン菓子にチョコレートソースを掛けたものだった。米は食べないのに米菓子はあるというのは意外である。味は想像通りというか見た目通りというか、ポン菓子にチョコレートを掛けた味だった。


 昼食後もハードに働いて、ホテルに帰ったのは19時近くになってしまった。20時に夕食を食べに行く約束だったが、部屋に戻ると猛烈な眠気に襲われて午前2時まで眠ってしまい、また食べそびれてしまった。中々生活リズムというのは矯正できないものらしい。
 朝まで寝直すことも出来ないので洗濯した。メキシコに来てからは日本から持ち込んだ粉洗剤を使い、洗面所で洗濯をしていた。ホテルの部屋にはベランダがないので、部屋干しするしかない。メキシコはとても湿度が低いので部屋干しでもすぐに乾いてしまう。

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洗濯を行ったホテルの洗面所。可愛らしいタラベラ焼きのタイルで彩られている。


 洗濯は一時間ほどで終わってしまった。結局朝まで本を読むことにした。メキシコに持ち込んでいたのはドストエフスキーの『白痴』、中原中也の詩集と、ポール・オースターの『孤独の発明』、ボードレールの『悪の華』。詩集が多いのは文字としての日本語に触れたくなるだろうと思ったからである。『白痴』は読み終えていたのでオースターを読むことにする。

 オースターは最初に読んだ『幻影の書』が面白かったが『ムーン・パレス』はまあまあで、この『孤独の発明』も特別に面白いわけではないのだけれど、オースターの不思議な文章の魅力で読ませてしまう。どんな話だったかというと思い出せないのだけれど。


 旅行に持ってくる本というのは何が適しているのか、いつも悩むところではある。だいたい僕はそのチョイスが上手くないのではないかと思う。少なくとも機内にドストエフスキーを持ち込むくらいには上手くない。そこにきてオースターというのは、旅行先でも軽く読めてしまうので悪くないのではないかと思う。

 メキシコで読む中原中也の詩集というのも中々悪くないもので、メキシコのような日本から遠く離れた場所で日本語に触れる機会が少ないと一種の渇望状態に陥るのだけれど、中也の言葉が染み入るように響く。皆さんもメキシコに行くときは中原中也の詩集を持っていくと良いですよ。真似る人はいないかもしれないけれど。

 

九歳の子供がありました
女の子供でありました
世界の空気が、彼女の有であるように
またそれは、凭っかかられるもののように
彼女は頸をかしげるのでした
私と話している時に。

私は炬燵にあたっていました
彼女は畳に坐っていました
冬の日の、珍しくよい天気の午前
私の室には、陽がいっぱいでした
彼女が頸かしげる
彼女の耳朶陽に透きました。

 

中原中也「羊の歌」

 

メキシコ旅行記 五日目「メキシコについて僕らが抱くイメージ」

 

 メキシコに対して抱くイメージと言えば麻薬とそれを取り仕切るマフィアの存在が大きいだろう。警察がマフィアに乗っ取られただとか、マフィアが軍よりもはるかに高性能な重火器を備えているだとか、見せしめに惨殺死体が道端に転がっていただとか、そういった話を日本にいるときによく聞いていたので、メキシコというのはよっぽど治安が悪いのだろうと思っていた。

 しかし、このチョルーラという街はとても平和である。明らかにそのスジの人間は見なかったし、夜中にジャージで出歩いても危険はなかった。

 危険なのはアメリカとの国境沿いの地方で、実際にマフィアが支配しているような街もあるという。
「メキシカンマフィアに比べたら日本のヤクザなんて赤ん坊みたいなものさ」
 とエルネストは言う。

 メキシコの麻薬抗争を描いた『ボーダ・ライン』という映画がある。メキシコ国境の最も危険な街フアレスへ異動になった新任のFBI捜査官の主人公は、着任早々に高速道路の高架に吊るし上げられた複数の死体を目にする。それは敵対する麻薬カルテルが見せしめのために行ったものだった。そしてそれは映画の中の誇張された出来事ではなく、同じような現実がこの国では日常として存在するのだ。

 

 エルネストは一度日本に来たことがあると話した。僕らの大学の研究室に短期留学のような形で来ていたという。研究室にいるコンさんという韓国人留学生の女の子は元気かとしきりに気にしていた。
「コンさんはとても可愛い」
 趣味でプロレスをやっているという厳つい男は少し顔を赤らめながら言う。

 メキシコのプロレスといえば、ルチャ・リブレのことである。日本の物理学科の学生は皆ひょろひょろの貧相な体をしている人間が多いけれど、エルネストはかなりがっちりとした肉体をしていて、いかにもレスラー然としている。そんな男が遠い島国の留学生の女の子のことを覚えているというのも、なんとなく微笑ましく思える。

 僕の組んだプログラムで実験装置を動かし、無事にデータを取得できることを確認した。僕がメキシコに来た責務はこれでほぼ果たせたと言って良い。余裕ができたので研究所内を散歩してみた。

 研究所の敷地は2、30分もあれば一周できるくらいの広さで、緑が多く静かなところである。いたるところに巨大な松の木が生えていて、僕の足の大きさと同じくらいの松ぼっくりが落ちている。そして背の高さよりも巨大なサボテンが生えている。

 

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研究所内は緑も多く石畳や刈り揃えられた芝生で整備されている。

 サボテンは研究所内に限らず街のいたるところに生えている。サボテンだけでなく、厳密にはサボテンではない多肉植物であるリュウゼツランと呼ばれるものが半数くらい生えている。メキシコではマゲイと呼ばれ、テキーラの原材料となる。見た目はアロエに近いが、はるかに肉厚である。

 僕がメキシコに対して抱いていたイメージは、前にも述べたようなマフィア以外には荒野にサボテンが生えている街並みを想像していた。街には確かにサボテンはたくさん生えているけれども、荒野ではなく道路はきちんと舗装されているし、トウモロコシ畑が点在して緑に満ちている。収穫されたトウモロコシは粉に轢かれ、トルティーヤの原料となるのだ。

 この日の作業は15時には終わって街へ帰ってきた。体調も良かったので街を散歩する。ホテルから街の広場へ出て、街で一番大きな教会へ行く。

 チョルーラは小さい街の中に三十を超える数の教会があるが、このサン・ペドロ教会は街の中心地に位置しており、規模も最も巨大である。メキシコの教会は、侵略者であるスペインの文化が先住民族の土着文化と混ざり合った独特なバロック様式をしている。サン・ペドロ教会の壁は鮮やかなオレンジ色で塗られており、広場の壁の色との調和が見事だ。

 壁に囲まれた教会の敷地に入ると、教会の建物は確かにそれなりに大きいけれど、敷地のほとんどは空き地になっていた。建物の入り口に案内板があり、「メキシコ最古の教会」と英語で書かれていた。

 教会の中に入ってみると、外面の大仰な見た目に対して、案外内装は簡素でがらんとしている。しかし、よく目を凝らすと細部に金装飾がなされているのが分かる。平日の夕方だったが聖書を片手に熱心に跪いている人もちらほらいる。隣の建物も礼拝堂になっているが、こちらは観光客向けといった感じで中にはキーホルダーやタペストリーなどを売る土産屋がある。

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チョルーラの中心にあるサン・ペドロ教会。どことなく古城を思わせる。

 一通り教会を見終えて外に出ると雨が降っていた。標高が高いせいか、この街ではよく通り雨が降る。降らない日のほうが珍しいくらいだ。少し雨宿りをしてから、コンビニ(チェーンの店ではなく個人経営のコンビニエンスストア)に寄って菓子パンを買って帰った。

 ホテルに帰って少し休んでいたら思っていたよりも長く眠ってしまい、また夕食を食べ損なってしまった。教授と先輩はいつも一緒に夕食を食べに行っているようだが、この街に着いてから一度も一緒に食べられていない。

 鏡をみるとひどく痩せてしまっていた。髭も伸び放題になっていてひどい顔をしている。髭剃りは持ってきたけれど、見た目がいかついほうが自衛になるかと思い剃らないでいたのだ。意味があったのか今もよくわからない。

 生きて帰れたから意味があったのだろう、たぶん。

メキシコ日記 四日目「トラディショナルなメロンパン」

 

 今日の朝食も昨日と同じカフェへ。メキシコに滞在している間、僕たちはほとんど毎日同じカフェで朝食を取った。一度だけ違うカフェに行ったのだが、味がイマイチだったのでそれきり同じカフェで食事をした。中々ちゃんとしたカフェでウェイターは白いシャツを着て黒いスラックスを履いている。ウェイトレスも糊の利いたパリッとしたブラウスを着ている。観光地だからなのかもしれないが、この街のレストランやカフェはみんなちゃんとした服装をしているので感心する。

 

 このカフェのモーニングは食事を何種類かあるうちから選ぶことができるのだが、どれも朝食とは思えないボリュームである。薄いカットステーキやチキンソテーといったそれなりにがっつりとした主食と、選べるパンと、スイカやマンゴーやパパイヤなどのフルーツが付いている。それとは別にトルティーヤがテーブルに置かれており、いくらでも取り放題になっている。メキシコ人たちは主食をトルティーヤに包んで食べる。東海地方の喫茶店モーニングのボリュームのすごさがテレビで取り沙汰されたりするけれど、メキシコのカフェのモーニングには敵わないだろう。メキシコが肥満大国となる素地はカフェのモーニングで育まれているのかもしれない。

 

 メキシコの食事には必ずと言って良いほど、我々が「あんこ」と呼んでいる、あずきを塩味で炊いてぐちゃぐちゃにマッシュにしたようなものが付け合わせられている。お世辞にも見た目はよろしくなく、教授や先輩はこれを毛嫌いしていたのだが、僕は割と好きだった。こいつをサルサと和えてトルティーヤに包むと中々美味いのだ。この食べ物についてはガイドブックにも載っておらず、調べても名前がわからなかった。もしかしたらこの街特有のソウルフードのようなものなのかもしれない。

 

 トルティーヤはピザ屋や日本食の店のような特殊な店を除いて、どんなレストランにも必ず常備されている。そしてトルティーヤが置かれていたら、それと一緒にサルサが必ずセットで置かれている。そして、サルサは緑唐辛子を用いたものと赤唐辛子を用いたものの、二種類が置かれている。この法則は必ず守られている。メキシコ人というのは食に関しては敬虔なクリスチャンのようにこの戒律を守っている。

 

 体調が少しずつ回復してきたので、この日はホットケーキを頼むことにした。モーニングセットではなく単品のホットケーキなら量が少ないだろうと思ったのだが、普通サイズのホットケーキが三段でやってきたのでさすがに閉口した。

 

 この日の作業は午前中にプログラミングをして、午後からは立ち作業をした。だいぶ体調は良くなっていたはずだが、立ち作業をして肉体に負荷が掛かるととたんにダメになってしまう。部屋の隅でぐったりしていると、ホセがやってきて、
「君は一度ドクターに診てもらったほうが良いな」

 と深刻な顔をした。いくら時差ぼけしていると言っても、もうメキシコに来て四日目である。良い加減に慣れないと申し訳ない。どうも時差ぼけだけでなく、高山病も影響しているらしかった。登山で自力で登る分なら徐々に体が慣れていくものらしいが、飛行機でいきなり標高の高い街に来ると、こんな風に日中疲れやすくなったり眠気に襲われたりするらしい。とにかく何かに呪われているんじゃなかろうかというくらい体が重かった。

 

 昼食は研究所の食堂へ行った。食堂は五十ペソぽっきりで(300円程度)、肉と魚を選ぶことができる。味は普通の法人施設の食堂といったところである。やはり主食の他にフルーツが付いており、テーブルには食べ放題のトルティーヤとパンが置かれている。パンはいろいろな種類があり、その中からメロンパンを手に取ったエルネストは、

「こいつはメキシコのトラディショナルなパンなんだ」と言う。

 どうだ初めて見ただろう、という顔をするエルネストに対し、日本でもポピュラーだとは言えず「へぇ〜」という顔をしておいた。

 

 ところが、日本に帰ってから調べたところ、日本のメロンパンのルーツはメキシコだという説もあるという。エルネストが言うトラディショナルなメロンパンはメキシコではconcha(コンチャ)と呼ばれており、これがアメリカ経由で日本に伝わったというのだ。メキシコではメロン模様ではなく、貝殻の模様を表しているらしい。身近なものに意外なルーツがあるものである。

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メロンパンとアレハンドロ(左)と筆者(右)。メキシコのメロンパンの味は日本と変わらない。

 メキシコ人たちは食べ放題のトルティーヤとパンをとにかくたくさん食べた。よくもまあそんなに食べるものだと感心してしまうほどなのだが、どうやら彼らは夕飯を食べないらしい。食べるとしても酒のつまみ程度だという。とはいえあれだけ太っているのだから、それを差し引いても食べ過ぎだろう。
 
 いつも研究所からホテルまではメキシコ国立自治大学のメンバーが車で送ってくれていたのだが、今日はどうも会議があるとかでバスで帰ることになった。

 メキシコのバスにはバス停という概念が無い。下りたいところでブザーを鳴らすと停車し、乗りたいところでバスを拾うのである。これが中々難易度が高い。大体のバスが停まる位置というのは決まっているので、そこで乗り降りするのが安全である。運賃は6ペソで日本円だと36円くらいであるから非常に安い。バスの車内では、運転手がセレクションしたと思われる音楽が爆音で流れている。流れているのはたいていメキシコ歌謡なのだけど、メキシコ歌謡を大音量で聴いていると中々うんざりする。どの国でも歌謡曲というのは気が滅入るということには変わらないようだ。一度だけoasisスタンド・バイ・ミーが流れていたけれど、ほとんど毎日メキシコ歌謡漬けだった。

 

 爆音で流れる音楽に目を瞑れば、バスは安いし便利なのだけれど、とにかくもう運転が荒い。ただでさえ狭いチョルーラの路地を信じられないようなスピードで曲がっていく。なんと路駐している車に思い切りぶつけてもそのまま走っていく。日本のバスとは全く異なる乗り物なのだと覚悟しなければならない。日本に帰ってしばらく市バスに乗っている時にそのスピードが遅すぎて慣れなかったくらいだ。

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メキシコの市バス。このバスは広い国道を走るのでまだ綺麗だが、町中を走るバスは擦り傷だらけでボロボロである。

 ホテルに帰って一眠りしたら、午後10時になっていた。今日も夕飯を食べそびれてしまった。行きの機内食で食べ切れずに持って帰ったクラッカーを食べて朝を待った。

メキシコ旅行記 三日目「ヘルシーなビーフ・ジャーキーの唐揚げ」

 三日目の朝は二日目と同じようにメキシコ国立自治大学のメンバーと合流し、チョルーラの街のカフェで食事を取った。前日に比べたら体調も良くなっており、ハムと卵の炒め物を半分くらい食べ、薄味のコーヒーを啜った。


 天気も晴れていて、昨日は世紀末のように思えたダウンタウンの街並みも、ただ牧歌的な田舎町に見えるから不思議である。

 

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よく晴れたチョルーラの街はとても穏やかで美しい。

 昨日は実験装置の取り付けやセットアップなどの肉体労働がほとんどだったが、今日は装置をパソコンに繋いでプログラムを走らせる作業が主だったので、体調的には楽だった。

 そもそも、どうしてわざわざメキシコで実験を行わなければいけないのか、ということをいい加減説明しておかなければならないだろう。

 僕が所属する研究グループでは太陽から地球に降り注ぐ素粒子の観測をテーマにしている。太陽から地表に届くまでに大気によって減衰してしまうため、なるべく大気の薄い標高の高い場所が適している。また、当たり前のことだが昼間にしか観測を行うことができないから、日照時間が長い赤道付近が望ましい。


 そんなわけで、メキシコの火山の標高四千六百メートルの場所に設置することが決定したのだが、いきなり火山に持っていくのは無謀なので、このチョルーラの街で試運転することになったのだ。

 あまり知られていないことかもしれないが、メキシコシティがすでに標高二千三百メートルの場所に位置しており、このチョルーラもだいたい同じくらいの標高なので(富士山でいうと5~6合目くらいの高さ)、火山ほどではないにしても日本で実験するよりは良い観測データが取れる。

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街から見える、噴火するポポカテペトル火山(写真左)。形状が富士山に似ているため「メキシコ富士」と呼ばれる。今回観測装置を設置する火山ではない。

 観測装置は3m ・3m・1.7mの直方体であり、日本からメキシコまでは船で運ばれた。数値にしてみるとたいしたことないようにも思えるが、実際に見てみるとこんな大きなものをよく運んだなあと思う。


 実験に使うプログラム自体は日本から持ち込んでいたので、それを走らせてみると観測データを正常に得ることができた。データを得ることができたと教授のホセに伝えると、とても喜んだ様子で先輩を褒め称え、「もう明日には日本に帰ってもいいんじゃないか?」などと大笑いしていた。

 結局、データがうまく取れたのでこの日の作業は早々と終了し、メンバー全員で街に飲みに行くことになった。チョルーラの町はずれへ歩いて行くと、空き地にコンテナハウスのような屋台が並んでおり、それらは全て居酒屋だった。


 メキシコのメンバーたちはテキーラのボトルを注文し、当たり前のようにそれをショットで飲んでいた。ライムに塩をかけて、それを一口かじってショットを飲むのである。僕も試してみたがなかなかにイケる飲み方だった。

 

 つまみはチョリソーやタコ・ソースの掛かったポテトチップスなどだった。体調も多少マシになっていたので僕も少し飲んでいたのだが、ホセが
「こいつはヘルシーだから、グロッキーな君にも大丈夫だ」
 と言って、唐揚げにされたビーフ・ジャーキを差し出してきた。どうしてビーフジャーキに衣を付けて揚げてしまうのだろう? どう考えてもヘルシーなどという代物では無い。メキシコではこれがヘルシーな食べ物なのだろうか。とにかく僕の理解を超えているが、メキシコが肥満大国になる理由はよくわかった。


 この日からメキシコ国立自治大学から新たにハビエロというポスドクの男がやってきており、飲み会に参加していた。ハビエロはとても早口な英語を話すので、僕の英語力だと素面の時は大丈夫だが、酔っ払っていると聞き取れない。


「ハルキ・ムラカミを知っているか」とハビエロは僕たちに尋ねた。
「好きな作家の一人だ」と僕が答えた。

「彼は素晴らしい小説家だ。『ノルウェイの森』を読んだがとても面白かった」

 ハビエロがスペイン語で読んだのか英語で読んだのかは聞きそびれてしまったが、メキシコ人も村上春樹を読むのかと驚いた。しかも『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』ならともかく、『ノルウェイの森』というのは意外だった。日本の大学生の寮生活や学生闘争のくだりなんかは理解できるのだろうか。いろいろ質問したかったが、酔いが回ってきたせいでまともな英語コミュニケーションが出来ず残念だった。

 別の屋台にハシゴして、そこでエルネルストとハビエロが水タバコを吸わないかと僕らを誘った。教授と先輩は断ったが、僕は日本で水タバコをよく吸っていたので一緒に吸うことにした。教授が「やめといたほうが良いんじゃないか」と目配せしたが、僕はその目配せの意味がよくわからず、とりあえず吸ってみた。日本で吸ったトルコ式の水タバコよりもフレーバーが薄かった。


 後で調べてみてわかったことだが、メキシコでは水タバコに麻薬を混ぜて吸うことがあるという。教授もそのことを心配したのだろう。もちろん研究メンバーが堂々と麻薬をやろうぜと誘うわけも無いから、本当にただの水タバコだったと思うけど、メキシコで水タバコを勧められたらそういうこともあるのだと気をつけたほうがいいですよ。あまり役に立つ経験談ではないかもしれませんが。

メキシコ旅行記 二日目「ピラミッドと銃声の街」

 

 メキシコに到着した翌日の朝、共同で研究を行うメキシコ国立自治大学のメンバーが迎えに来た。チームのボスである教授のホセと、主な作業担当のアレハンドロ、大学院生で僕らの世話人を担当するエルネストの三人である。


 彼らは大きめのSRV車に乗ってやってきたのだが、僕らのスーツケースと六人の人間は明らかに積載量オーバーであった。おまけにメキシコのメンバーは全員恰幅が良かった。メキシコは肥満大国として有名で、皆控えめに言ってかなり体格が良く、控えめに言わなければデブと言って良い体型である。メキシコには痩せている人間は子供か病人しかいないのだ。

 とにかくスペースがなかったので、車の前列に三人座らなければならなかった。運転席と助手席の間に一人座るのである。もちろんそんな場所にシートベルトはない。日本では違法だと思う。そんな車が高速道路でもないのに時速100キロ以上で走るのだから生きた心地がしなかった。メキシコでは基本的にどんな車も猛スピードで走っている。映画の『スピード』でキアヌ・リーブスが乗り込んだハイウェイバスのように、一定速度を下回ったら爆発する爆弾が車体に取り付けられているのかもしれない。


 車を運転していたのはアレハンドロだった。アレハンドロはNASAのキャップを被っていた。ヒューストン空港で見たものと全く同じだった。まさかヒューストンで買ったのかと尋ねてみたが、アレハンドロは英語は分からないと首を横に振った。


 僕は当たり前のようにメキシコでは英語が通じると思っていたのだけれど、実際のところアレハンドロだけでなく街の人々はほとんど英語を話すことができなかった。メキシコ国立自治大学のメンバーはだいたい英語が通じるが、飲食店などでは英語なんて一切通じない。アメリカの隣の国なんだから英語が通じるだろうと勝手に思っていた自分を恥じた。僕自身だって你好と謝々くらいしか中国語が話せないではないか。

 

 メキシコ人の年齢というのは中々見た目では判別できないのだけれど、アレハンドロは四十代、大学院生のエルネストは二十代くらいだろう。それなりに歳の差があるだろうに、エルネストとアレハンドロは仲が良かった。彼らはスペイン語で会話をしていたが、おそらくタメ口で会話しているだろうと思われた(スペイン語にタメ口という概念はないだろうが)。


 教授のホセは五十歳は過ぎていた。学部長だか研究所の所長を務めるほど偉い人らしいが、威厳は感じさせない風貌をしていた。日本の理学研究のお偉いさんだって威厳なんて持ち合わせていない人間ばかりだが、どうやらそれはメキシコでも同じらしい。
 実験装置が置かれているのはプエブラ州のチョルーラという街だった。メキシコシティからチョルーラまではおよそ一時間半ほどだった。チョルーラに行くまでにメキシコシティダウンタウンを通ったが、どう見ても治安が良い街ではない。野良犬がゴミを漁っているし、手持ち無沙汰な男たちが道端にたむろしながらこちらを見てくるし、壁一面にはカラースプレーで落書きがされている。まるで『グランド・セフト・オート』のような街並みである。天気が良く無かったせいもあるのだろうけれど、まるで世紀末のような街に来てしまったと僕は後悔した。


 しかし、チョルーラについてみると、そこは案外というかなんというか綺麗な街であった。基本的には静かな田舎町で、街の中心には大きな教会と広場(セントロ)があり、街の外れにはメキシコ最大とも言われるピラミッド遺跡が存在する。休日には観光客も多く訪れ、広場を囲むようにしてレストランや土産物屋が並んでいる。

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街の中心に位置する大きな教会。

 日本で例えるならば犬山が近いだろうか(東海地区の人間にしか分からない例えですみません)。乏しい知識で無理やり関東の街を挙げるならば牛久がイメージに近いかもしれない。つまり、栄えているわけではないのだけれど、観光名所があるおかげでホテルやレストランが街の規模のわりに充実しているのだ。

 

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丘の上から見下ろしたチョルーラの街並み。

 メキシコ最大のピラミッド、と言っても遺跡が現存している部分は少なく、ほとんどはただの小高い山にしか見えない。わざわざ海外から観光に来る客は少なく、街で見かける外国人はアメリカ人くらいである。一ヶ月滞在して、結局僕たち以外のアジア人は一人も見かけなかった。観光客がさほど多くなくて静かな街なので、僕はチョルーラの街が気に入った。

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一ヶ月滞在したHotel Real de Naturales

 僕らが滞在したホテルは四つ星クラスで、コロニアル調の瀟洒な三階建の建物だった。一泊四千円くらいで、日本の基準からすれば格安だが、エルネストはその値段を聞いて顔を顰めた。「そりゃぼったくりだよ」とエルネストは言う。旅費は全て大学が出してくれているので、僕としては綺麗でまともな宿に泊まれるならばそれで良かったのだが。


 部屋はバストイレ別で、シングルルームは無いらしく、ベッドは部屋に二つあったが、僕と先輩と教授は別々の部屋に泊まった。一ヶ月も他人と相部屋をするのはぞっとしなかったので安堵した。

  無線LANは使えたが、ホテルにはスリッパもドライヤーも無かった。そういうアメニティはメキシコには期待してはいけないらしい。


 実験を行うのはチョルーラの街から車で二十分くらい離れたところにある大学の研究施設である。午前中に研究施設について、日本から持ってきた実験用具の積み下ろしなどを行ったが、僕は相変わらず体調が悪く隅っこのほうで蹲っていた。
 昼頃には街に戻ったのだが、ホテルに着いてすぐに眠ってしまい、起きたら午後八時になっていた。教授と先輩は夕食に出かけてしまったようだが、僕は一切食欲が湧かず、その日は朝食しか口にしなかった。


 あまりの体調の悪さに、一ヶ月も経たないうちに日本に強制送還されるのではないかと不安になったが、そうしたら早く日本に帰れるなとさえ思った。とにかく、メキシコに着いたばかりの僕はいろいろな意味でギリギリだった。


 午後8時に起きてから、結局次の日の朝までずっと起きていたのだけれど、午前0時になっても街がやたらと騒がしかった。何かが爆発するような音がひっきりなしに響いているのだ。


 昼間も同じような音がしたので、ホセにあれは何の音なのか尋ねたのだが
「あれは花火の音さ。メキシコ人は花火が大好きなんだ」
 としか教えてくれなかった。
 ただの平日に花火を打ち鳴らす道理も分からないし、真夜中に花火を打ち上げるのも意味が分からない。空に花火が上がっている様子も無かったし、あれはもしかして銃声なのではないかと思う。
 とにかく、文化の違いに打ちのめされる一方であった。

 

メキシコ旅行記 一日目「ヴィンセント・ギャロと、フォアグラになる僕」

 

 メキシコは遠い国である。


 地理的には地球の裏側であり、飛行機は乗り継ぎの時間を合わせると24時間ほど掛かる。とはいえ、交通手段が整っているし、政治的にも渡航は容易であるから、北朝鮮なんかよりも『近い』国であるかもしれない。地球の裏側に行くのに、たった24時間で行けるのだと思えば、なんて近いんだと思うべきなのかもしれない。


 しかし、やはりというかなんというか、24時間の旅路というのはきつかった。

 成田空港からアメリカのヒューストン空港を経由し、メキシコシティ国際空港へと行くルートだったが、ヒューストンまで行くのに12時間以上掛かる。これまで6時間掛かる名古屋から東京までの深夜バスでもしんどいと思っていたけれど、エコノミーシートで12時間というのはそれよりも遥かにきつい。

 メキシコには教授と博士課程の先輩と僕で三人で行った。飛行機のエコノミー三列シートで男二人に挟まれて12時間過ごすという苦行を想像して頂きたい。海外旅行のフライトで暇を潰すにはシートに備え付けられたモニタで映画を見るのが常套だが、不幸なことに太平洋のど真ん中辺りでモニタが反応しなくなり、やみくもにボタンを押したりしているうちに、Windowsブルースクリーン画面が表示されうんともすんとも言わなくなってしまった。ああ、飛行機のモニタはWindowsで動いているのだな、などと納得してみたが、まだ半分以上フライト時間は残っている。


 仕方がないので持ってきた本を読むことにした。いつも僕は旅行の際に本を持参し過ぎて後悔するのだが、今回は日本語のない環境に行くということでいつもよりも多めに本を持って行った。多分10冊くらい持って行ったと思う。ほとんどはスーツケースに入れており、ドストエフスキーの『白痴』だけが持ち込み鞄の中に入っていた。


 ドストエフスキーは好きな作家のトップ3には入るけれど、登場人物たちが強烈すぎて読んでいると眩暈がする。長時間フライトのお供には向いていない小説だし、ましてや男二人に挟まれて12時間を過ごしながら読むのにうってつけとは言い難い本だった。

 隣に座っている先輩に、
「本を読むのも疲れますね」と話しかけると、
「疲れるような本を読むのが悪い」
 と素っ気なく言われた。そんな先輩はその頃に流行っていたマイケル・サンデルの文庫本を読んでいた。僕は肩を竦めたくなったが、狭いエコノミーシートでは肩を竦める動作さえもままならない。ただただウィンドウズのブルースクリーンを見つめながら、残りのフライトを過ごした。
 
 12時間のフライト中に3回も機内食が出て、フォアグラにされる鵞鳥のような気分になった。なら食べるなよ、と思われるかもしれないが、国際線に初めて乗った僕は機内食を食べずにはいられなかったのだ(単に貧乏性なのかもしれない)。ヒューストンに着いた時にはボロ雑巾のように疲弊していた。

 

 だが辛いのはまだ終わらなかった。次のフライトまで6時間ほど空港で待たなければならなかった。しかも、アメリカというのはトランジットのみでも入国審査が必要になる。さらにestaと呼ばれる14ドルの渡航認証を支払わねばならない。先輩などは「だからアメリカは嫌いなんだ」と終始不機嫌だった(といっても、この先輩は大体いつも不機嫌なのだが)。


 入国審査もかなり厳重で、わざわざ靴を脱いでボディチェックを受けなければならない。さすがは被テロ国である。


 ボディチェックをした監査官は長髪のくせ毛をした痩せた髭面の男で、『バッファロー'66』に出ていた時のヴィンセント・ギャロにとても似ていた。

 僕がX線検査ゲートをくぐろうとすると、
「他に何も持っていないのか?」
 ヴィンセント似の監査官は苛立たしそうに言ってきた。
 僕がちょっと鞄をそこらへんの台に置くと、
「そんなところに鞄を置くんじゃない」と声を荒げた。
 ヴィンセントはたくさんの人をチェックすることにうんざりしているようだった。なら検査するなよ、と思うがそれがアメリカなのだからしょうがない。一通り僕の体をチェックした後に、ヴィンセントはわざとらしく鼻をひくつかせて、
「お前、機内食の匂いがするな」
 などと失礼なことを言ってきた。12時間も悪名高いユナイテッド航空の機内に閉じ込められれば機内食の匂いが染みつくのもしょうがないだろう。

 とにかく、このヴィンセント・ギャロのおかげでアメリカという国があまり好きではなくなった。結局飛行機を降りてから、次の飛行機のロビーに着くまで2時間近く掛かった。

 

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ヒューストン空港に置かれている看板。ご存知の通りヒューストンに自由の女神像はない。

 ヒューストンと言えばNASAの研究所があることで有名である。空港の中の売店でもNASAのグッズがたくさん置かれていた。NASAとデカデカと書かれたキャップやTシャツなんかが置かれていたが、アメリカの洗礼にうんざりしていた僕は何一つ欲しいとは思えなかった。ドルに換金するのも厭われたので、アメリカでは一銭も使っていない。ひどくコーヒーを飲みたい気分だったけれど、その金を使うことさえ嫌だった。


 アメリカからメキシコまではおよそ3時間ほどだった。飛行機の窓から見えたメキシコの風景は、日本やアメリカとも全く違った街の様子だった。カラフルで背の低い建物が並ぶ風景を見て、ああ本当に違う国に来たのだと実感したのだった。


 メキシコの入国審査では太った監査官が口笛を吹いていて(!)、僕の顔をちらりと見ただけでパスポートに判を押し、それでおしまいだった。アメリカとは全く違う。それだけで、少なくともアメリカよりもメキシコのほうが好きになった。


 長いフライトで僕の疲労は極限まで達していて、発熱さえしていた。メキシコシティ国際空港で食事を取ったが、ほとんど喉に通らなかった。

 研究を行う場所はメキシコシティからは離れた場所だったが、到着時間も遅かったため、その日は空港に隣接されたホテルで一泊することになった。

「ここが今回の旅で一番上等なホテルだ」と教授は言った。確かに内装は豪華だしベッドはキングサイズだったが、スリッパもドライヤーも無く時計は壊れていて、トイレは紙を流して良いのかよくわからなかった。こんな貧弱なアメニティのホテルが一番上等だとしたら、これから一体どんな宿に泊まるのだろうと暗澹たる気持ちになった。

 メキシコシティの街並みはアメリカとさほど変わらないけれど、下水インフラに関しては未発達で、紙を流せるトイレと流せないトイレがある。だいたいの場所は流せないのだが、このホテルはそれが判別できなかった。一応トイレにゴミ箱が設置されているのだけれど、使用したトイレットペーパーを捨てるには小さすぎるように思える。とにかく考えることさえも億劫だったので、紙を流してみたが、詰まらなかったようなのでそのままにしておいた。


 倒れこむようにして、その日は眠った。

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メキシコ国際空港に併設されたホテル。一泊7000円程度。スリッパもドライヤーも時計もない。



メキシコ旅行記 旅立ち前「牧野君と、僕が旅に出る理由」

 

  2012年8月から9月までの一ヶ月、僕はメキシコに滞在していた。

 メキシコを訪れた理由は大学院の研究を行うためだが、そもそも何故メキシコへ行くような研究をすることになったかを説明するには、牧野君について話さねばならない。
 
 牧野君とは大学四回生の時に出会った。
 僕と牧野君は配属された研究室が同じだった。僕らの研究室は理学部研究棟ではなく、大学の僻地に位置していた。その場所は通称『山の上』と呼ばれており、急勾配の坂道を10分ほど登らねばならない。目の眩むような坂道を登り終えた先に天体観測ドームが建っていて、併設されている建物に研究室が入っていた。


 大学院生や教授たちは研究室のほうで研究をしていたが、学部生である僕たちは観測ドームの中で研究していた。観測ドームの観測装置自体は何十年も前に使用されなくなっており、観測装置としての役割はとうに終えていた。観測しようとしていた現象が、建築された後に理論的に観測不可能であると証明されてしまったからである。理論的に否定されたのは稼働して間もない頃だったというから、全くもって大学研究というのは悠長な金の使い方をしていると思う。


 そんなわけで観測施設としては廃棄されていたのだが、捨てておくのも勿体無いということで、僕たちはぽっかりと空いたドームの中心地に別の観測装置を設置し実験を行っていた。観測ドームは直径30メートルほどで、地面を掘り下げた中心地に僕らが実験に使用する観測装置が設置され、外周の壁に沿って物置部屋や学生の居室があった。

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観測ドームの中心に設置された観測器。いまはもうない。

 築五十年以上経っており隙間風も酷く夏は暑いし冬は寒かったが、エアコンは付いておりシャワーや仮眠室も完備されていた。僕らが使用していた一室には歴代の学生たちが残していった大量の漫画本とゲーム機があり、ネットワーク環境も整備されていて、見た目以上に快適だった。


 教授や大学院生の先輩からの目が届かない場所で好き放題やることができ(遊んでばかりいたわけではないけれど)、今思えば大学生活で最も楽しかった時期だったかもしれない。


 ともかく、僕と牧野君はその観測ドームで顔を合わせた。


 その時、彼が観測ドームの外の敷地にテントや寝袋を干していたことを強烈に覚えている。なにをしているんだこの男は、と僕は思った。
 牧野君は大学の長い夏休みの間を山小屋でバイトして過ごすという、かなりハードなアウトドア趣味をしていた。山小屋でバイトをしている間は稜線の上しか歩かないから世界が二次元になる、という彼の言葉は僕の想像を絶していた。まるでスーパーマリオブラザーズの世界である。
 カップラーメンを食べるために湯を沸かす際に、牧野君はアウトドア用の携帯ガスコンロを使用していた。ちなみに、学生部屋には使用可能なガスコンロが設置されている。卓上コンロのガスボンベとは違ってそれなりに値が張る代物のはずであるのに、どうしてそんなものを使って湯を沸かすのか理解できなかった。
「この方がロマンがあるやろ」
 僕の疑問に牧野君は簡潔に答え、カップラーメンをずるずると啜った。


 牧野君とは一回生から同じ学科だったが、同じ研究室に配属されるまで話したことはなかった。大学の学科には他人よりも頭が良いことを見せつけることでしかアイデンティティを保てないような人間ばかりだったが(僕もそのなかの一人だった)、彼は自分のライフスタイルを確立していたように思う。


 牧野君は博士課程まで進学するつもりだと言っていた。博士になって将来どうするつもりなのか彼に尋ねた時、彼は何も考えていないと答えた。
「なんとでもなるやろ」と彼は言った。
 理学部の博士進学者の就職先は広くない。アカデミックポストに就ける人間は限られているし、専門が特殊すぎるため民間就職に有利にはならない。
「いざとなったらコンビニでバイトすれば生きていけるやろ」
 確かにそうかもしれない、と僕は思った。
 そう思うとなぜか胸がすっと軽くなった気がしたのだった。

 僕はそもそも、大学院に進学するつもりはなかった。ちょうど就職活動をしていた頃に東日本大震災があり、企業の採用スケジュールがめちゃくちゃになってしまったこともあって、就職する気が削がれてしまった。何社か受けたものの、結局内定を貰えず、なし崩し的に大学院に進学することにした。大学院に行けば就職の幅も広がるかと思ったのだ(今思えば誤った判断だった)。


 研究室ではいくつかのグループがあり、分野は近いがそれぞれ全く異なった研究をテーマにしていた。牧野君はもう既に希望のグループを決めていたが、元々進学する気がなかった僕は希望のグループを決めかねていた。
「俺は、どこで研究がやれるかで決めた」と牧野君は言った。
「どこで研究がやれるか?」と僕は聞き返した。
「俺はとにかく遠くに行きたい。だから大学のお金で遠くの海外に出張できる研究がしたい」


 遠くに行きたい。

 その考えは僕の中にはなかった。これまで生きてきて一度も海外旅行さえ行ったことがなかった。思えば、読書と音楽が趣味で自分の頭の中で完結してきた人生だった。外の世界を求めることを考えたことさえなかった。


 牧野君は僕とは対照的に海外へ行った経験が豊富だった。ネパールの山を登るバスに乗っていたら、崖から転落して死にかけたこともあるという。
 僕の友達が研究でアラスカに行った話をした時には、
「死ぬほど羨ましいから、二度とその話を俺の前でしないでくれ」
 と、本気で悔しがっていた。

 

 遠くに行きたい、僕もそう思うようになった。僕は影響されやすい人間なのだ。そんなわけで僕はメキシコで研究することになった。この選択も今思えば大きな間違いだったと思うが……それについては今は書かないでおく。
 牧野君はジュネーブを拠点にする研究テーマを選択し、博士課程になった今では一年の大半を海外で過ごしている。

 

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牧野君(左)と筆者(右)。大学食堂にて