惑星間不定期通信

小説を書いています。本や映画の感想やその他なども書きます。

「こどもの国」試し読み

 週末になるとお父さんの運転する車に乗って私はその場所へ連れて行かれる。朝の早い時間に出発し、革のシートに身を沈めてまどろみながら到着を待つ。住んでいる家から遠く離れ、いくつかの交差点とトンネルと森を抜けた先にこどもの国はある。

 こどもの国。

 私たちはその場所をそう呼んだ。私たちという言葉にお父さんは含まれない。私たちとはこどもの国にいる子どもたちのことであり大人たちは含んでいない。敷地と外部を隔てる門には長々しい名前が書かれているけれど私たちはその名前を使わない。ここはこどもの国であり私たちの国だ。

 お父さんの車は嫌いだ。

 どんな車の匂いも好きではないけれどお父さんの車に満ちている匂いは特に嫌いだ。消臭剤のラベンダーの匂い。後ろめたい何かを上書きするための匂い。


 お父さんが私をこどもの国へ送った後、知らない女の人に会いに行っていることを私は知っている。こどもの国から帰るとき、朝よりもラベンダーの匂いがきつくなっている。お父さんはそれで隠し通せていると思い込んでいる。お父さんは私が気付いていることに気付いていない。そのことについてお父さんに何か言うつもりはないし、なぜならそれはお父さんの人生だからだ。もちろんお父さんの人生には娘である私も含まれているのだろうけれど、それはかつての話であり今の時点においては含まれていないのではないかと思う。お父さんにとって、私という存在は週末に送り迎えする荷物でしかない。A地点からB地点に移動する点Pと同じだ。もちろん、お父さんはそんな風に考えながらアクセルを踏んでいるわけじゃないんだろうけれど。

 私の人生にお父さんは含まれているけれど、お父さんの人生に私は含まれない。こういう状態を論理学的になんて表現するんだっけ。

 こどもの国で習ったような気がするけれど、忘れてしまった。

 

 そんなとりとめのないことを考えているうちにこどもの国に着いた。
 車のドアを開けてこどもの国に降り立つと、森の腐葉土の匂いと焼却炉の煙っぽい匂いがして、ほっとした気持ちになる。森の地面を歩くと、降り積もった落ち葉によってまるでクッションのようにふかふかとした感触がする。この場所は私には自分の家よりも『帰るべき場所』のように思える。

 こどもの国では私と同じくらいの年の子どもたちがたくさんいる。たくさんと言っても学校よりは多くない。学校とは違って子どもたちは減ったり増えたりするけれど、全体の数は変わらない。定期的に行われるテストで低い点数しか取れないとこの場所から追い出される。しばらくすると新しい子どもたちが入ってくる。
 私たちはみんな新しくやってきた子とすぐに仲良くなれるし、誰かがいなくなったりしても悲しくならないようになっている。これはただの技術だ。慣れと言った方が正しいかもしれない。

「おはよう、愛ちゃん」
 いつものように私の到着を聖子先生が出迎えてくれた。
 聖子先生。
 聖なる子どもの先生。
 聖なるもの。清らかで尊いもの。汚れのないもの。
 聖子先生は好きではない。何故なのかはよくわからない。

「それはね、きっとアイがセイコ先生の世界に含まれていないからだよ」
 ヨシト君は私にそう言った。秋山善人君。善き行いをする人。行いの正しい人。
「セイコ先生の世界の全ての子どもたちは良い子どもたちで、良い子どもたちを良い人間に育てることがセイコ先生の人生の目的なんだ。だから、僕らみたいな子どもたちはセイコ先生の世界では存在してはいけないし、存在しているということを知られてはいけないんだ」

 名は体を表すという言葉を知ったのは学校だったかこどもの国でだったか、それとも何かの本で読んだのか忘れたけれど、人の名前というのは親からの願いが込められているらしい。自分の名前の由来を聞いてみましょうという宿題が出た。私の名前は聞くまでもなかった。

 私の名前は笠原愛。愛は、愛だ。それ以外の意味はない。

 愛は嫌いだ。

 愛というものが何なのかはよくわからない。愛。いとおしいと思う気持ち。いつくしみ恵むこと。私の家には愛はない。昔はあったのかもしれないけれど今はない。お父さんはお母さんを愛していないし、お母さんはお父さんを愛していない。そして、お父さんもお母さんも私を愛していない。喧嘩ばかりしているわけじゃない。むしろ何もない。おそらくお互いを空気と同じくらいにしか思っていないのだろう。

 きっと、私の家には愛がないから、私の名前が愛になったのだと思う。
 愛の代わりに私が生まれたのだ。

 

 自分の名前が嫌いだとヨシト君に伝えたら、僕もそうだと彼は言った。
「僕の母親はもう死んでいるんだ。正確に言うと殺された。誰に殺されたか分かるかい?」
 分からない、と私は首を振った。
「僕の母は法に殺されたんだ。母は死刑囚だった。生まれつき心が弱かったんだろうね、大学生の頃に精神を病んで、聴こえないはずの声が聴こえるようになったらしい。その声に従って無差別テロを起こした。休日のショッピングモールで劇薬をばら撒いた結果、4人が死に十数人が重体になった。母は当時大学院の学生だったから、そういう劇物を簡単に手に入れることができた。死刑は当然の判決だった」

 その事件のことは知っていた。全国でも大きなニュースになったらしいけれど、私の生まれる少し前のことの出来事だから実際にどれほど騒がれたのかは知らない。

「僕の父と母は刑務所の中で出会った。僕の父親は刑務官だった。母の担当になって次第に惹かれ合ったらしい。やがて獄中で僕を出産し、それからすぐに死刑が執行された。母の処刑後、間もなく父も自殺した。残されたのは僕だけってわけさ。だから僕は自分の両親のことは一切覚えていない。祖父母の家に預けられて、両親と同じ轍を踏まないように善人と名付けられた」

 そんな名前を好きになれるわけないだろ、とヨシト君は笑う。

「僕の父親は刑務官という職業に就いていたけれど、それは犯罪を憎んでいたからではなくて、犯罪者に憧れていたからじゃないかと思う」
「どうしてそう思うの?」私は尋ねた。
「僕がそうだからさ。遺伝なのかもしれない」
 ヨシト君はなんともなさそうに言う。
 悪に憧れる気持ち。それは私にも分かるような気がした。
「僕たちは両親に足りないものを背負わされて生まれてきたんだろうね」
 ヨシト君は私がこどもの国に入る前からここにいる。長くいればいるほど定期テストの難易度は上がっていく。たくさんの子どもたちが入っては追い出され、昔から残っているのは私たちしかいない。

 とにかく、私にとってヨシト君は他の子どもたちとは違っていた。私たちはお互いに『同盟』を組むことにした。人の名前を呼ぶときはカタカナを使うというのが同盟のルールだ。声に出すときはそんなの分からないけれど、それでも意識を変えることで言葉の意味から逃れられるような気がした。私は愛ではなくアイで、ヨシト君は善人ではない。

 私たちは森で拾った金属の薄い板にカタカナの名前を刻み、ペンダントのように首から下げた。戦場に行く兵士たちが戦死した際に名前が分かるように識別票を身に着けると何かの本で読んだ。それの真似だ。死ぬときは愛ではなくアイとして死にたい。
 自分の名前が好きじゃないだけでなく、決定的に私たちは他の子たちとは異なっている。みんなそれぞれの性格はあるけれど、だいたいみんなお行儀良く親や先生たちの言うことによく従った。要するに良い子なのだ。私たちは違う。
 こどもの国の本当の名前は別にある。

『よいこともりのくに』

 よいこともりのくに。良い子と森の国。良い子と守の国。良い事守の国。良い子どもたちが棲む森の国。良い子たちを守る国。そしてそれが世界の『善いこと』を守っていく。
 知能指数が高い子どもたちを集め、自然に囲まれた空間の中で先進的な教育を施し未来の礎となるエリートを育てるのがこの施設の目的だ。私たちは同年代の子どもたちより十年先の教育プログラムを受けている。ただ頭が良くて勉強ができるというだけでなく、集団生活によって社会性を高め、森の中で自然への理解を深める。
 良い子どもたちを育み、良い子どもたちは良い人間となり、この国を良いものへと導いていく。この場所はそんな信念に満ち満ちている。ここにいる大人たちは自分たちが良い子どもを育てているのだと疑わないし、子どもたちも自分が良い人間になろうとしていることを疑わない。

 でも本当にそうだろうか?

 知能が高く、社会性があり、環境を大切にすることが本当に良い人間の必要条件なのだろうか? そうやって疑うこと自体がすでに良い子ではない証拠なのではないだろうか?

 たとえば空に巨大な物体が浮かんでいるとする。それはとても巨大な黒い球体であり、空に穿たれた深い穴のように中を見通すことができない。その物体の名は『悪』であり、巨大な質量による引力は私を常に引きつけている。逃れがたいその作用はいつだって影のように私に纏わりついていた。私にとっての悪とはそのようなものだった。

 

 私たちはこの国にいる唯一のわるい子どもだった。

 

 

 ……続きは文学フリマ頒布予定の「こどもの国」にて。