惑星間不定期通信

小説を書いています。本や映画の感想やその他なども書きます。

誰にも求められないことを語ろう、まずは革靴について。

昨今、インターネットに求められる実用性や意味性が肥大化している気がする。個人の趣味やプライベートなことはSNSに閉じ込められて、SNSの外では役に立つ記事や意味のあるコンテンツしか残らなくなっている。

昔はもっとみんな自由にそこかしこで語り合っていたはずだ。そんなふうに回顧するのはぼくが年を重ねたからだろう。ぼく自身、こうやってブログを書くこともなくなってしまった。そもそもブログというもの自体がもはや絶滅危惧種みたいなものだし。

だから今日は誰にも求められないことを語ろうと思う。

というわけで最近ぼくがもっとも興味を抱いてことについて、つまり、革靴について語りたいと思う。

 

■なぜ革靴なのか

 一般的に男性が社会人になると車、スーツ、時計、そして革靴にお金を費やすようになるという。価値観が多様化する現代社会においてそのようなステレオタイプな趣味は下火になったとはいえ、まだまだ根強いようだ。

ぼくは車には乗らないし(運転が苦手なので)、仕事柄スーツもほとんど着ない。2020年はコロナの影響もあって一度しか着なかった。いちおう街の仕立て屋でパターンオーダして作ったスーツを持っているが、生地は特別高級なものじゃない。

時計については一時期良い物が欲しくなって集中的に調べたことがあった。だが調べれば調べるほど、値段と価値が乖離しているような気がしてならず興味を失ってしまった。高級時計は宝飾品の一種であり、何の基準で値段が付けられているのかぼくにはよくわからない。ドン・キホーテの2階で売られている時計と百貨店のショーケースに飾られる時計の違いがわからなかった。

時計の裏返しの理由になるけれど、ぼくが革靴にハマったのは値段と価値が(それなりに)わかりやすく比例しているところだと思う。基本的に革靴は職人による手作業で製作されており、紳士靴は特に見た目のパターンは決まっているので、差別化を図るとしたら品質しかない。

もちろんブランドによって上乗せされる価格もあるが、そのブランド性は長年の品質の積み重ねであり、職人技によるものである。

職人の技術によって作られた靴は芸術に近い。見ていて楽しいし、履いていても楽しい。

誠に残念なことだが、コロナ禍によるリモートワークの推進によって革靴の需要が減り、国内メーカの雄であるリーガルが100名の人員削減を実施するという。

www.yomiuri.co.jp

本格革靴の価値を理解し、吟味して手に入れた革靴を履くのはとても気分が高揚する。そのような心地を多くの人にも知っていただき、愛好家の数が少しでも増えれば幸いだ。

 

■高級な革靴と安い革靴の違い

まず最初に断っておきたいのは、価格が高いからといって実用的であるとか長く使えるというわけではない。むしろ高級になるとコーティングがされていない天然皮革が使われているため雨に弱かったり、取り扱いに気を使わなければいけない。実用性を求めるのであれば防水革靴やコンフォートシューズのほうが圧倒的に良い。高級革靴に求められているのは高級感であり、つまりは美しさなのだ。

では、実際に価格帯別に革靴を並べてみてみよう。最も基本的な黒のストレートチップで比較してみる。

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1万円以下の某メーカ製靴

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定価¥39,600 リーガル01DRCD

 

靴 通販 | ストレートチップ(革底)(23.5 ブラック): メンズ | 「リーガルオンラインショップ」 REGAL CORPORATION

 

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定価¥105,600 三陽山長 匠 友二郎

sanyo-i.jp

 

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定価¥169,000 エドワード・グリーン チェルシー

www.tradingpost-online.jp

 

えーと、まぁわからないですよね。

正面からの写真が一番差がわかりにくいから仕方がない。ならお前にはわかるのかと聞かれると、写真だけではわからないかもしれない(さすがに一番安いのはわかるが)。だが手にとって見れば、価格差を言い当てることは可能だと思う。

じゃあ価格によって何が違うのか? 

大きく分けると革質、製法、ディティーの差である。

 

  • 革質

高級靴になるとエキゾチックレザーと呼ばれるワニ革やリザード革などの希少な革が使われることもあるが、同じ牛革でもランクが存在する。

そもそも革は元々牛の皮膚であり、虫刺され、傷、シワ、血筋などムラがある。均質できめ細かく柔らかな仔牛の革(カーフレザー)が一般的に高級品とされている。

上記の1万円以下の某メーカ靴の場合、牛革の表面に樹脂加工を施したガラスレザーという素材が使われている。染色には主に顔料が使用されており、元々の皮膚の傷などは覆い隠すことができる。よく見ると質感がのっぺりとしているのがわかるだろう。

ガラスレザーには雨に強く、磨かなくても光沢が保たれるという長所がある。実用性が高いので日常使いには向いている。だがクリームが染み込まないため経年変化を楽しむことができず、樹脂が割れてしまうと終わりという欠点がある。だから高級靴にはまず使われない。

リーガル01DRCDからの上の値段の靴についてはどれもガラスレザーではない。写真では違いがわかりにくいが、高級になればなるほど肌がきめ細かくなり、透明感のある革質となる(写真の撮り方の差もあるけれど)。

  • 製法

 革靴の部位は、ものすごく大雑把に言うと足の甲を包んでいる上部(アッパー)と靴底(ソール)の2つに分けられる。その2つを結合する方法によって製法が分けられる。安価な革靴は「セメント製法(セメンテッド製法)」と呼ばれる接着剤による結合方法が使われる。機械による大量生産が可能なので価格を抑えることができる。

2〜3万円の価格帯を超えた本格革靴になってくると、アッパーとソールを縫い合わせて結合する手法がとられる。入門〜中級モデルではミシンで縫われているが、高級なものだと職人による手縫いで作られる。代表的な製法としてグッドイヤー・ウェルト製法やマッケイ製法などが挙げられる。それぞれの製法によって強度やデザインの自由度、履き心地が変わってくる。

また縫い合わされて結合する製法は、縫い解いて靴底を交換することができる。これはオールソールと呼ばれており、靴を長く大事に履くことができる。

 

高級な靴になればなるほど、職人の技術が結集した細工が施される。縫い目が細かく整っていることはもちろん、傍目には目立たない靴底やコバの意匠も凝らされる。

例えば、「匠 友二郎」の靴底を見てみよう。

 

 

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 製法についてアッパーとソールを縫い合わせると説明したが、この靴底には縫い目は見えない。これは靴底の表面を薄く起こして縫ったあと、起こした部分を戻して縫い目を隠す「伏せ縫い」という技術が使われている。

また、中央部が黒くくびれているが、これは「半カラス仕上げ」と「フィドルバック」と呼ばれており、見た目の美しさと包み込むような履き心地をもたらしている。

 

次に踵を見てみよう。同じく「匠 友二郎」の踵である。

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ご覧の通り、踵の部分が包み込むような形をしている。安価な革靴だとスニーカーのように真っ直ぐになっているが、 このような形によって足のホールド感が増す。ただしタイトな履き口となるため脱ぎ履きするのは不便だ。だから、高級革靴を履く人はマイ靴べらを常に持ち歩くのである。

また縫い目が一切なく1枚の革で構成されているのがわかるだろう。革は元々平面なものなので、このような曲線的な立体を形づくるためには高度な釣込技術と長い時間が必要になる。

 

ところでディティールについて、今回紹介した中でもっとも高価なエドワード・グリーンではなく三陽山長の「匠 友二郎」のほうを実例に挙げたのは、実はディティールについては「匠 友二郎」のほうが優れているからである。

ではなぜエドワード・グリーンのほうが1.5倍以上高価なのだろうか?

革質については実物を見比べたことがあるわけではないので、ぼくには優劣がつけられない。主な皮革製造業者(タンナー)はヨーロッパにあり、良質な皮革はヨーロッパのメーカに優先的に卸されるらしい。しかし、「匠 友二郎」も高級インポートレザーを使用しているらしいので、それほど大きな差は無いと思う。ブランド料や関税の問題もあり、一般的に国産の革靴のほうがコストパフォーマンスが良いのだ。

 強い憧れやこだわりがないのであれば、国産メーカを選択することをおすすめしたい。(とはいえ、イギリスやイタリアなど『本場の靴』には品質を超えた価値が宿っていると思う)

 

■これから本格革靴を買う人たちへ

 では、これから本格革靴に興味を持とうとしている人は、結局何を買えばいいのだろうか?

乱暴に断言してしまえば、「百貨店に行ってリーガルのDRCDシリーズか、スコッチグレインオデッサシリーズを買え」となる。

ではなぜ百貨店なのか? ○BCマートやショッピングモールの中に入っているようなカジュアルシューズ専門店で革靴を買うのは絶対にやめるべきである。革靴はシビアにサイズ選びをするべきであり、サイズだけでなく足型にも合う合わないがあるので専門技術を持ったシューフィッターが常駐している百貨店や革靴専門店で選んだほうが絶対に良い。

リーガルのDRCDシリーズか、スコッチグレインオデッサシリーズをオススメするのは、圧倒的にコストパフォーマンスが優れているからである。コスパで言えば他にももっと良いものはあるけれど、リーガルやスコッチグレインは全国の百貨店なら必ず取り扱っており手に入りやすく、個体差も小さい。

そして本格革靴を買うのであれば、必ず靴磨きグッズも買い揃えるべきである。ただし靴磨きの話をしだすと沼に陥るのでこれ以上はしないでおく。

靴を磨くなんて面倒だなと思うかもしれないが、本格革靴を買うと靴磨きが楽しくてしょうがなくなる。もうこれは実際に買ってみてほしいとしか言えない。

 

まだまだ語り足りないが、ここらへんで終わりにしよう。誰にも求められないことを語るにしても、節度は大事だ。ぼくが持っている革靴について紹介する記事もいつか書きたい。それこそ誰も求めてないだろうけど。

記憶の中の公園

思い出は全部記憶しているけどね、記憶は全部は思い出せないんだ

 

幼い頃、僕は城の近くに住んでいた。

などというと異国の話のように聞こえるけど、父が公務員で名古屋城の近くの役所で働いていたので、名古屋城近郊の公務員住宅に住んでいただけである。名古屋城の付近には役所や省庁の他に図書館や市民体育館や公園など公的施設が集まっており、幼い僕は親に連れられてそのような施設で遊んでいた。

だが、小学校に入る際に引っ越したのでその辺りに住んでいた頃の記憶がほとんど無い。そもそも小学生以前の記憶自体が、UFOで連れ去られて上書きされたんじゃないかと思うくらいにほとんど残っていない。なにしろもう30年近く前の話だ。年月が僕の脳みその皺から古い記憶を洗い流してしまった。

今日までそう思っていた。

 

用があって県立図書館に自転車で行くことにした。

県立図書館に行ったことはなかった。と、今日まで思っていた。何しろ住んでいる場所から遠い。交通機関で行くにしても不便な場所にある。だいたい、区立図書館に行けば事足りるから県立図書館まで足を伸ばしたことなんてなかった。

グーグルマップで適当に道筋を決めて、自転車を漕いでいた。国道1号線を横切って環状線沿いに外堀通りを進んでいくと、傾きかけた陽光が並木道に影を落としていた。アスファルトの上に色づきかけた落葉が散っている。

その光景を見て最初は、写真でも撮りたいくらいに綺麗な景色だな、としか思わなかった。だが次の瞬間、脳の血管が逆流するような既視感に襲われて思わず立ち止まった。

 

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自分はこの場所を知っている。

同じような時間にこの場所で、この光景を見たことがある。そのような確信を抱いた。

この道の先には小さな公園があるはずだ、と僕は思った。車道沿いから細い道が別れ、公園へと繋がっている。その公園には滑車のついたロープにしがみつくターザンロープの遊具があり、幼かった僕は一人ではそのターザンロープに乗れず母親に背を押してもらっていた。そのような情景が一瞬のうちにフラッシュバックした。

そして、その公園は蘇った僕の記憶と同じように存在した。

僕は公園に足を踏み入れ、しばし呆然と立ち尽くした。

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 幼い頃の僕は母の自転車の後ろに乗せられて、幼稚園の帰りにこの公園をよく訪れていた。近くのスポーツセンターで水泳を習っていて、その開始時間までこの公園で過ごしていた。

行ったことが無いと思っていた県立図書館も、着いてみるとたしかに幼い頃に訪れた記憶が蘇った。児童書コーナーが円形の部屋にあり、その内周に木製の椅子が設置されている。そこに座って子どもの僕は絵本を読んでいた。

何もかも、すべて今日まで忘れていた。

 

 今日のこの出来事以外にも、最近幼い頃のことをよく思い出す。それは子どもが生まれたからだ。息子と一緒に遊んでいると自分が父親にあやされたときの記憶が蘇る。足の上に子を乗せて飛行機ごっこをしたとき、自分も同じ遊びが好きだったことをふいに思い出した。

息子が生まれてから、今までに体験したことのない新鮮な驚きと感動と苦労に満ちた日々を送っている。同時に、自分が子どもだった頃の記憶を追体験しているような気分にもなる。

きっと息子は将来この日々のことを覚えてはいないだろう。そもそも1歳にも満たない子の脳は記憶を留められるほど発達してはいない(一般的に言語を獲得するまでエピソード記憶を留めることは出来ないとされている)。

だけど、記憶に残らない何かがどこかの引き出しに仕舞われているのかもしれない。あるいは、成長のある段階から少しずつ引き出しが満たされていくのかもしれない。

いつかその引き出しが開けられる日は来るのだろうか、と僕は考える。

もしかしたらその引き出しは、息子に子どもができるまで開けられないかもしれない。僕が今日、そうだったように。そのときには僕はお祖父ちゃんになっているわけだけれど。

目まぐるしく子どもに振り回される毎日にそんなことを夢想する余裕なんてないけれど、せめて今日の出来事を忘れずにいよう。そのようなことを考えながら、僕は記憶の中の公園を後にした。

「わたしの庭の惑星」試し読み

 

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 私の庭に浮かぶ巨大な球体。勿論、それは突如として上空から降ってきたわけでも風に吹かれて何処かから転がってきたわけでもない。もはや仰がねば全貌を視界に捉えることができないその物体を、私たちは惑星と呼んでいる。


「初めに種を植えました。数日後小さな芽が生えてきました。乳白色の芽の先端に丸い球が付いていて、最初それは葉が丸まっているのだろうと思いました。しかし球は広がることなく球のまま巨大化していきました」

 その一連の不可解な現象について彼女はそのように説明する。

「一ヶ月で惑星はわたしの背丈よりも大きくなり、すぐに家の屋根をも越してしまいました。どれだけ巨大化しても自重を持たないかのように、芽に繋がれたままこうして空に浮かんでいます」

「ちょっと待ってほしい。そもそもが種子から生えてきたというのなら、どうして君はあの物体を惑星などと呼び始めたんだ?」

 そんなくだらない質問が飛んでくるとは思わなかったというように、彼女は薄く口の端を持ち上げてみせる。

「名称に意味はありません。確かにあれは植物なのかもしれませんが、光合成をして大きくなっているとは到底思えないでしょう。謎の物体であるにしても、等速度で地球の周囲を公転していると考えるならばむしろ衛星と呼んだほうが正しいのかもしれません。ですが、わたしはあの物体が現在のままで留まっているとは思えないのです」
「君はあれが巨大化した先に何が待ち受けていると考えている?」

 この質問に対し、彼女は冷笑を消した。

「あれが何であれ、誰かの目に触れることは何か恐ろしい事態を招くのではないかと恐れています。不思議なことに他人には認識することができないようです。これまでに、いくら巨大化していこうとも誰かに気付かれることはありませんでした」
「じゃあ君の不安は杞憂だという訳だ。誰も見えないなら気付かれることも無い」
「でもあなたには見えているのでしょう?」

 首肯する。確かにそうだ。

「今はわたしとあなたにしか見えていませんが、いずれ他の人々もこの惑星に気付くでしょう。そのときのことを考えると、わたしは恐ろしくてたまらないのです」
「もしも全ての人たちにこれが見えるようになったら一体何が起こるのだろう?」

 私の問いに、彼女はゆるゆると首を横に振った。私はため息を吐く。結局我々には待つことしかできないのだ。

 惑星は今日も大きくなり続けている。

 その果てに何が待ち受けているのか、私たちは未だ知らない。
 
 その女に出逢ったのは、私が大学を卒業し教師としてその街に赴任した初めての秋だった。土地勘の無さから辺鄙な場所に居を構えてしまい、早朝の始発のバスに乗って通勤していたのだが、私の次に乗り込んでくる乗客が彼女だった。次に人が乗り込んでくるのは街が栄え始める先ことで、三十分ほどの時間を私たちは二人で過ごさねばならなかった。彼女がそのバスを利用するようになったのはその年の夏頃からのことで、一番後ろの席を陣取る私の斜め前にいつも座るようにしていた。年齢はおそらく私よりも幾らか上かといったところだが、油気のない髪が草臥れた印象を強くしている。初めに彼女を奇妙に思ったのは夏だというのに長袖の服と手袋を身に付けていたことと、傍目にも明らかに日に日に顔色が悪くなっていたことだった。

 素肌を隠すような服装をしていたのは何かの怪我や発疹をしていたからなのかもしれず、或いは単に宗教的もしくは職業的に肌を守らなければならない理由があるのかもしれない。前者の理由から、彼女は何か病気を抱えていて、顔色の悪さもそれによるものだと考える事も出来るだろう。いくら妙齢の異性だとして、そして奇妙な点をいくつか抱えていたとしても、単に毎朝乗り合わせるだけの縁を温めようと思う程私は厚顔でもなく、特に関わりも無く日は過ぎていた。

 ある日、彼女がいつも降りる停車場に近付いても停車ベルを鳴らそうとしなかった。運転手もその停車場に停まるのが半ば習慣のようになっている故に一向に停車ベルが鳴らないことを訝しみ、駅名を殊更大きな声で呼び掛けるものの、彼女は動かなかった。

 眠ってしまったのではないかと私が顔を覗き込むと、彼女は眠るどころか目を見開いて窓に張り付くようにして外を見つめていた。その異様さに大丈夫かと私が声を掛けると、はっとしたように振り向き「あなたにはあれが見えますか?」と彼女は遠くの一点を指差して訊ねた。

 その方向を見遣ると、そこには街を飲み込むような巨大な球体が浮かんでいた。

 あの大きさならすぐに気付いていたはずだろう、なのに私は彼女に言われるまでそれに気付かなかった。巨大な球体は朝日の光を遮り街に影を落としている。球が巨大ならばその影はさらに巨大で、もはやその巨大物体の一部を形成しているという意味で影の巨大さは球をさらに大きく見せていた。街を飲み込むような、というように形容したが、影を球の一部だとすると文字通りに街は球に飲み込まれていた。
「なんですか、あれは」

 我ながら馬鹿な質問だ。あれは何かと訊ねて、何か納得できるような回答が得られるわけが無い。
 とはいえ、彼女の回答も私の想像なぞ及びもつかないほど馬鹿馬鹿しいものだったのだが。

「わたしの庭の惑星です」と彼女は言った。
 大体このようにして私は惑星に出逢った。

 

 

.................続きは書籍にて。

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「死にたくなるほど好きならば」試し読み

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 僕の人生において、周期的に変な女の子と出逢うように宿命付けられているのではないかと気付いたのは、僕が高校生くらいの頃だったと記憶している。


 何年かに一度の頻度で惑星同士の軌道が重なり合うように、何らかの法則に基づく周期で彼女たちは僕の前に現れる。やがて僕はそろそろ変な女の子に遭遇するであろう時期を察知できるようになった。その予感に基づいて僕は神経を張り巡らせて注意した。
 けれど、結局のところ変な女の子との出逢いというのはいくら身構えたとしてもあまり意味がないのかもしれない。彼女たちは想定を超えて僕の人生をかき乱し、そして去っていく。とにかく、いくら対処できないとしても心構えは大事だ。たとえそれが悪あがきだとしても。


 やがて僕はひとつの特技を身に付けた。出逢った相手が変な女の子かどうかすぐに判別できるという特技だ。鍛錬を重ねるうちに、少し顔を合わせるだけでその子が僕の人生に宿命付けられている変な女の子かどうかわかるくらいにまでなった。

 そんな能力なんてほとんど役には立たないんじゃないかと思われるかもしれない。だけど、仲を深める前に変な女の子か判別できるというのは僕の人生においてとても重要だ。繰り返すけれど心構えはとにかく大事なのだ。

 僕はこれまでの人生で何人かの変な女の子と出逢い、そして別れた。彼女たちの何人かと恋人になったこともあるし、ならなかったこともある(全員と恋人関係になっていたとしたら、僕の身はとても持たなかっただろう)。

 彼女たちにはおよそ普通とは言えない人間性を持つ以外の共通項は見当たらなかったが、今となっては彼女たちとの関係は決裂し、もはや連絡さえ取れなくなってしまったという点においては共通している。彼女たちとの関係はいつも長続きしなかった。そしてこれからも再会することはないだろうと僕は思っている。何も根拠のない予感だけれど、それは確信と呼んでも良いくらい確かな予感だ。

 もしかしたらこれは宿命ではなく呪いなのかもしれない。僕の人生はそのような規定の上にあるのだという呪いだ。だとしたら僕を呪っているのは僕自身だろうけど。

 だけどたまに、いつか僕と彼女たちが一堂に会する日が来るのではないかと妄想することがある。ある日の朝、郵便受けに招待状が届いて、案内された会場を訪れるとこれまでに出逢った全ての変な女の子たちが僕を出迎える、そんな妄想だ。

 僕の宿命染みた呪いが全て解け、彼女たちの特異な人間性と僕の偏狭さによって招いてしまった軋轢やら何やらを水に流し、握手を交わして思い出話に花を咲かせる。そんな同窓会めいたハッピーエンドを僕は夢想する。何百年に一度の惑星直列のように、僕が生きているうちにはそんな日は来ないのかもしれないけれど。

 

         *     *     *

 
 大学に入学したときに僕は実家を離れた。一人暮らしを始めるにあたって僕はいくつかミスを犯した。その中でも最悪なミスは洗濯機を買わなかったことだった。

 実家に居た頃は家事をほとんど親に任せきりで甘やかされた生活しか送ってこなかったせいで、独りで暮らすことに対する想像力が欠如していた。家に帰れば温かい食事と風呂と布団が用意されていて毎朝清潔な服を着ることができる、そんなことは魔法でも妖精の仕業でも無く親の労力によるものであり、そんな当たり前の事実にいちいち打ちのめされながら必死に新しい環境に順応しなければならなかった。

 そう、想像力の欠如のせいで僕の部屋には洗濯機が存在しないのだ。両親や先に実家を出た兄も洗濯機を買えとは言ってくれなかった。もちろん訊かなかった僕が全面的に悪いのだが。ともかく、僕の部屋にはテレビやオーディオ機器や大きな本棚はあるのに洗濯機がない。要するに実家の自分の部屋にあったもの以外に対する想像力が足りていなかったのだ。

 おかげで週末にまとめてコインランドリーに持っていくか、小さなユニットバスの浴槽で手洗いをしなければならなかった。大学二年生になり、三年生になっても僕はコインランドリーに行くか浴槽で手洗いをしていた。ここまで来るといまさら洗濯機を買うわけにもいかない。

 テレビでコメディアンが「タイムマシンがあるとしたら、ポイントカードを作りますかと最初に尋ねられた日に戻りたい」という漫才をしていた。最初に来店したときに作らなかったポイントカードを今さら作ったとしても、これまでに断って得られなかったポイントは帰って来ない。ポイントカードの所持を尋ねられる度に後悔の念に囚われてしまう。だからタイムマシンで最初の日に戻りたい、という内容だ。そんなしょうもないことにタイムマシンを使うなと突っ込まれる話だったが僕はとても共感した。僕の洗濯機に対する思いも同じだったからだ。

 汚れた自分の下着を浴槽で洗う度に僕は後悔する。だが今さら買うのも敗北感を覚える。これまでの自分の行為が無駄になってしまう気がして、これからも無駄な行為を重ね続ける。

 暴落する株を損切りできずに手放せないトレーダーのように、過去に囚われて現在地点での正確な判断を下すことができない。僕の人生はそんなポイントカード的な亡霊に満ち満ちている。

 変な女の子たちについて思い返すのも、同じように後悔と自責に苛まれているせいだろうか。
 
 だいたいこんなような話を、僕はコインランドリーで遭遇した女の子に話した。
 彼女は僕の話に相槌さえ打たず黙って聞いていた。
 そして最後にひとことだけ、
「わかった」 
 白石さんはそう言った。

 いったい、何がわかったというのだろうか。
 僕がそう尋ねると白石さんは首を少し傾げて無言でこちらを見つめた。無感情に刺すような瞳が僕に向いている。いちいち説明しなければいけないのか、と言っているような目だった。

「いちいち説明しなければいけないの?」
 彼女は実際にそう言った。

 目で語るだけでは不足だと思ったのか、あるいは僕の洞察力を過小評価しているのかもしれない。

 僕は子どもの頃に公園で遊んでいたサッカーボールのことを思い出した。遊びすぎて空気が抜けてしまったボールは強く蹴り飛ばしても全く転がらなかった。それでも新しいボールを買ってもらえなかったから、球形でなく歪な物体になるまで使い続けていた。彼女との会話の弾性力はあのサッカーボールと同じくらいだった。

 僕は小さなため息をつき、轟々と唸りを上げる洗濯機を見遣った。赤いLEDが、洗濯乾燥が完了するまでの時間を示している。それは僕らに残された時間だ。

 僕らはコインランドリーの匂いに包まれている。

 そもそも僕はなぜこんな雨の日にコインランドリーに来なければいけなかったのか。
 浴槽で手洗いするのが億劫なときか、よほど汚れがひどいときにしかコインランドリーは使わない。理由は単純で金が勿体無いからだ。一般的な大学生はお金が無いのだ。

 雨の日にコインランドリーを利用することはまず無かった。せっかく清潔になった洗濯物が家に帰るまでに濡れてしまうからだ。だが、どうしても明日まともな服を用意する必要があって、こんな雨の日にコインランドリーを利用することになってしまった。ひらたく言うと明日デートする予定ができたのだ。

 それにしても、どうして女の子をデートに誘うというのはこんなにも絶望的にみじめな気持ちになるのだろう? うまく約束を取り付けることができても、何か重大な間違いを犯してしまったような浮遊感が足元にまとわりつく。デートなんて約束するんじゃなかった、独りで映画でも見ていればよかったのだと後悔する。いつもそんな感じだ。

 みじめなやりとりの後に携帯電話を握りしめながらそんな憂鬱な気持ちに沈んでいると、ふと明日着ていく服がないことに気付いた。外は雨模様で、今から洗ったとしても部屋干しでは乾きそうに無い。こういうときは何もかも噛み合わないんだ。舌打ちをして、僕は洗濯物をリュックに詰め込んで家を出た。

 

 そして、コインランドリーで白石さんに出会った。

 

         *     *     *

 

 白石さんは同じ学部の同期で、僕と同じ講義を受けていた。

 白石さんは講義室の前から三列目の右の机にいつも座っていた。なぜそんな細かいことをいちいち見ているかというと、それまで僕も同じ場所を陣取っていたからだ。その場所に座る理由は特に無いけれど慣れた場所というのは手放したく無いものだ。白石さんはいつも講義が始まるより少し早い時間から席を取っていた。しょうがないので僕は彼女の斜め後ろの四列目の席に座った。

 ある日、たまたま前の講義が早く終わったので、白石さんよりも早く席を取ることができた。すこしあとに講義室に入って来た彼女は僕の姿を見咎めると、入口で立ち止まり何も言わずしばらく僕を見つめた。僕は教科書を読むふりをしてその視線をやり過ごした。白石さんが歩き出して何も言わず僕の横を通り過ぎたときは一瞬ほっとしたが、彼女はそのまま僕の真後ろにぴたりと座った。白石さんは何か文句を言うわけではなかったが、無言の圧力が空気を媒介して伝播してくるのがはっきりと分かった。正直に言って、とても恐ろしかった。生きた心地がしなかった。それからは二度と彼女の定位置に座ることはなかった。

 しかし僕らのやり取りといえばそれくらいで、他に話したことはほとんどなかった。大学生の横の繋がりなんて希薄なものだ。ただ、近くに座っていると何となくひととなりは掴める。授業の内容をきちんと理解し、いつも独りで講義を受けていて、友達はそれほど多くない。彼女について知っていることはそれくらいだった。彼女は美人と言って良い容姿をしていたし、頭も良かったけれど、それだけの理由で仲良くなろうとするほど僕は異性に対して積極的ではなかった。
 
 僕が洗濯機に衣服を放り込み硬貨を入れて洗濯を開始しようとした、ちょうどそのときに白石さんがコインランドリーに入って来た。青色の傘を畳み、空いている洗濯機はどれかと店内を見渡したときに白石さんも僕に気付いた。

 だけど、説明したように僕らは学外で偶然出逢っても会話をするような仲では無い。無視するのも気まずいので僕は軽く会釈をしたが、彼女はちらりと僕の方を見ただけだった。そんなことでいちいち気分を害する人間ではないので、僕は軽く肩を竦めて聞こえない程度に小さく鼻を鳴らし、コインランドリー内に設置されたパイプ椅子に座って本を読みながら洗濯が終わることを待つことにした。

 洗濯から乾燥が終わるまで小一時間かかる。晴れていれば家に帰ることもあるけれど、だいたいは本を読んで待つことにしている。コインランドリーで本を読むのは好きだった。昔から僕は何かを待つというのは嫌いではなかった。たとえば空を眺めたり、街行く人を観察したり、こうして本を読んだり、暇を潰す方法を考えるのが好きだ。それにコインランドリーの暖かい乾燥機の匂いに包まれているとなぜか安心する。それに喫茶店とは違っていくら居座っても無料だ。もちろんコーヒーは出てこないけれど。

 白石さんは空いている洗濯機を見つけると、袋から衣服を取り出して中に入れ始めた。僕はすでに本に集中し始めていたが、視界の端でその姿を捉えていた。やけに洗濯物の量が多いな、と僕は思った。
「あっ」
 袋から洗濯機に移す際に、白石さんの手から衣服の一部がこぼれ落ちた。そして、偶然にも僕の足元にそれが滑ってきた。

 

 それは、白石さんの下着だった。
 紅色の、レースの付いた派手なブラジャーだった。

 

 その瞬間、確かに時が止まっていた。

 おそらく地球の自転も止まっていたんじゃないかと思う。

 僕は何も言えず、動くこともできなかった。落としましたよ、なんて拾えるわけがない。消しゴムを落としたのとは違うのだ。

 白石さんもしばらく静止していた。だが僕とは違い動揺しているのではなく、ただ無感情に落ちた下着に目を向けていた。まるで下着が自分で起き上がって彼女の手元に戻ってくるのを待っているかのようだった。白石さんがどれくらいそうしていたかはわからない。ものすごく長い時間だったような気がするし、一瞬だったかもしれない。当然のことながら下着は起き上がったりはせず、時間から切り取られた世界の一部としてコインランドリーの床に存在し続けていた。

 不意に彼女は僕の方を向き、口を開いた。
「ねえ、どう思う?」
 僕は彼女の言葉の意味がわからなかった。
「え、何が?」我ながら間抜けな声だった。
「私のブラジャー、どう思った?」
 白石さんはもう一度問いかける。

 この人は何を言っているんだろう、素朴な疑問が僕の脳内を支配した。

 一瞬の空白の後、僕は今までになく思考をフル回転させた。大学入試のときよりも脳を活用させ、圧縮された時間の中で彼女の問いに対する答えを探した。

 だが答えなんて出なかった。

 可愛いね、で良いのか。そんなはずがない。飼い犬を見せられた感想とは違うのだ。早く仕舞ったら、と冷たく言い放つのはどうか。気の利かない男だと思われるかもしれない。だけど気が利かないと思われたから何だというのか。色々考えているうちにだんだんと腹が立ってきた。なぜ僕が突然試されなければならないんだ。

「別に、どうも思わないけど」僕はぶっきらぼうを装って答えた。
「嘘」
 白石さんは即座に否定した。
「高梨君は嘘をついている」

 白石さんはそう言って、下着を拾い上げ洗濯機に投げ込んだ。洗濯機のドアを閉めボタンを押して洗濯を開始し、僕の方を振り返る。

 そのとき、僕は白石さんの顔を初めてまじまじと見た。

 思えば、予感は確かにしていたのだ。僕はもっと身構えておくべきだった。

 白石さんは正真正銘、パーフェクトに変な女の子だった。

「私はね、他人の下心を見ることができるの」
 白石さんは相変わらず無表情で僕を見つめている。
「高梨君、私の下着を見て興奮したでしょう?」

 

 

.................続きは書籍にて。

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新作「死にたくなるほど好きならば」の通信販売を開始しました。

 

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 ほんとうの世界のすがたは決して美しくはなかった。 

 

新作「死にたくなるほど好きならば」の通販を開始しました。

6年ぶりの短編集になります。 前作「わたしの庭の惑星」以降の全作品と書下ろし表題作を収録。「わたしの庭の惑星」も併せて再販します。

今回はBOOTHというサービスを利用させて頂いています。購入者の氏名や住所はぼくには分からない仕組みになっておりますので、個人情報を心配される方はご安心ください。※購入にはpixivアカウントが必要になります

 

■収録作

死にたくなるほど好きならば

紫陽花が散らない理由

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短編集「死にたくなるほど好きならば」を近日頒布します

 

 

6年ぶりの短編集「死にたくなるほど好きならば」を近日頒布します。

問題なければ5月3日に通販サイトを公開する予定です。

 

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「私はね、他人の下心を見ることができるの」
 白石さんは相変わらず無表情で僕を見つめている。
「高梨君、私の下着を見て興奮したでしょう?」

 

残念ながら頒布を予定していた第三十回文学フリマ東京は中止になってしまいました。コロナ禍のため仕方がないことですが尽力されていた文学フリマ事務局の皆様、来場を楽しみにされていた出展予定者・来場予定者の方々の無念は計り知れません。ぼくもまた無念を抱く人間のひとりです。

6年ぶりになってしまいましたが本来は去年の時点で収録作のすべてを書き終えていました。今年まで引っ張ったのはぼくの怠惰のせいです。しかもこうやって文学フリマにも出せず。せめて通販にて皆様の手元にお届けできればと願う次第です。

今回もイラストはらいかど様に描いていただいています。毎回印象が異なるのに驚かされますが、今回公開した表紙絵も背景のリアルさと人物の対比がとても気に入っています。これまで文学フリマにて頒布した短編のイラストも収録されていますのでお楽しみにください。

表題作の引用のとおり、前の短編集「わたしの庭の惑星」と大きく印象が異なると思います。ぼくの人格が変わったわけではないので根本が変わったわけではないですが、それでも6年という月日の堆積が顕れているのは間違いないです。ぼくとしては常に前より良い作品を書き続けていると思っているので、できれば多くの人の手に渡ることを祈っています。

では、もうしばらくお待ち下さい。

「感情」から書く脚本術

「感情」から書く脚本術  心を奪って釘づけにする物語の書き方

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人生は、いつもうまくいくとは限らない。理不尽でカオスなものだ。だから、私たちは人生の意味に構造を与えて、物語として理解する。物語の中に、迷いがちな人生の答えを、そして普遍的な意味を見出すのだ。物語の中に、人生の処し方を、他者との付き合い方を、愛し合い方を、困難を乗り越える方法を探すのだ。物語は人生の分析でなく、人生を感情的に理解させてくれるもの。それも私たちが物語を必要とする理由の1つだ。つまり、物語とは人生の暗喩であり、生きるということの設計図だと言える。