惑星間不定期通信

小説を書いています。本や映画の感想やその他なども書きます。

No better than

息子の3歳児健診に行ってきた。

保健所には息子と同じくらいの大きさの子どもがたくさんいた。みな同じ月齢なのだから当然だ。そしてこれも当然ながら、月齢が同じでも発達度合は同じではない。

ふだん保育園で同じ年の子たちを見ても比べたりはしないのだけれど、月齢が同じということで、ついつい比較して見てしまう。大人しく座って待つことができる子もいれば、走り回っている子もいる。息子は尿検査がうまくできず不機嫌になり、はやく帰路のバスに乗りたいとぐずりだした。

月齢が同じだとしても1週間も違えば幼児にとっては大きな差となる。早産/遅産の影響もあるだろう。遺伝・生育環境の影響だって大きい。だから年齢というファクタは全てではない。

 

どうやらぼくは同じ年齢の人間同士を比較しがちなきらいがある。アーティストがどの年齢でその作品を発表したのかをよく調べる。若くして傑作を生み出した天才に対して、何も成していない自分に失望する。

たとえば村上春樹は33歳で「羊をめぐる冒険」を書いた。34歳の自分が今書いているものにどれほどの価値があるだろう、と考えてしまう。

森博嗣が33歳で書いた文章(大学の准教授としての寄稿文)を見つけた。森博嗣は39歳でデビューしたが、33歳で書いた文章もやはり森博嗣であり、当たり前ながら小説家になる前から森博嗣森博嗣だった。

息子に対しても、自分に対しても、年齢で他の人間で比較するのは無意味だということは頭でわかっている。年齢に限らず他人との比較は不幸の種にしかならない。SNSが隆盛する昨今、他人の人生を嫌でも見せつけられる。金持ちのインフルエンサー、一流企業に務めるシステムエンジニア、東京で文化的な生活を過ごす人々。うんざりしてブラウザを閉じる。それでも毒を食らうような気持ちで、無意識的にそれらを見たいという欲求がどこかにあるのかもしれない。

 

ぼくが中学生の頃に学校教育は相対評価から絶対評価になったという。だが、世の中というのは基本的に相対評価だ。入試や就職だって、志願者のなかから相対的に優れた人間を選抜する。最低限の足切り基準は絶対評価だが、それさえ満たしていれば決められた枠の中で比較評価される。人事評価だって基本的にはそうだ。限りある人件費予算のなかから分配するのだから当然だろう。

 

他人と比較しても何も幸せにならない。上を見れば際限がないし、誰かを見下して得た優越感は持続しない。それでも、比較され続ける社会生活に染まったぼくは、羨むことで苦しみ、見下すことで溜飲を下げる。

 

健診が終わって、念願だったバスに乗った息子はとても嬉しそうにしていた。地下鉄に乗り換えて家に帰る。寝る前に、今日は楽しかったと息子は言う。不機嫌だった健診のことは忘れて、大好きな乗り物にたくさん乗れたことだけを幸せそうに反芻する。

良かったね、とぼくは答える。心の底からほんとうによかったとぼくは思う。