惑星間不定期通信

小説を書いています。本や映画の感想やその他なども書きます。

「こどもの国」試し読み

 週末になるとお父さんの運転する車に乗って私はその場所へ連れて行かれる。朝の早い時間に出発し、革のシートに身を沈めてまどろみながら到着を待つ。住んでいる家から遠く離れ、いくつかの交差点とトンネルと森を抜けた先にこどもの国はある。

 こどもの国。

 私たちはその場所をそう呼んだ。私たちという言葉にお父さんは含まれない。私たちとはこどもの国にいる子どもたちのことであり大人たちは含んでいない。敷地と外部を隔てる門には長々しい名前が書かれているけれど私たちはその名前を使わない。ここはこどもの国であり私たちの国だ。

 お父さんの車は嫌いだ。

 どんな車の匂いも好きではないけれどお父さんの車に満ちている匂いは特に嫌いだ。消臭剤のラベンダーの匂い。後ろめたい何かを上書きするための匂い。


 お父さんが私をこどもの国へ送った後、知らない女の人に会いに行っていることを私は知っている。こどもの国から帰るとき、朝よりもラベンダーの匂いがきつくなっている。お父さんはそれで隠し通せていると思い込んでいる。お父さんは私が気付いていることに気付いていない。そのことについてお父さんに何か言うつもりはないし、なぜならそれはお父さんの人生だからだ。もちろんお父さんの人生には娘である私も含まれているのだろうけれど、それはかつての話であり今の時点においては含まれていないのではないかと思う。お父さんにとって、私という存在は週末に送り迎えする荷物でしかない。A地点からB地点に移動する点Pと同じだ。もちろん、お父さんはそんな風に考えながらアクセルを踏んでいるわけじゃないんだろうけれど。

 私の人生にお父さんは含まれているけれど、お父さんの人生に私は含まれない。こういう状態を論理学的になんて表現するんだっけ。

 こどもの国で習ったような気がするけれど、忘れてしまった。

 

 そんなとりとめのないことを考えているうちにこどもの国に着いた。
 車のドアを開けてこどもの国に降り立つと、森の腐葉土の匂いと焼却炉の煙っぽい匂いがして、ほっとした気持ちになる。森の地面を歩くと、降り積もった落ち葉によってまるでクッションのようにふかふかとした感触がする。この場所は私には自分の家よりも『帰るべき場所』のように思える。

 こどもの国では私と同じくらいの年の子どもたちがたくさんいる。たくさんと言っても学校よりは多くない。学校とは違って子どもたちは減ったり増えたりするけれど、全体の数は変わらない。定期的に行われるテストで低い点数しか取れないとこの場所から追い出される。しばらくすると新しい子どもたちが入ってくる。
 私たちはみんな新しくやってきた子とすぐに仲良くなれるし、誰かがいなくなったりしても悲しくならないようになっている。これはただの技術だ。慣れと言った方が正しいかもしれない。

「おはよう、愛ちゃん」
 いつものように私の到着を聖子先生が出迎えてくれた。
 聖子先生。
 聖なる子どもの先生。
 聖なるもの。清らかで尊いもの。汚れのないもの。
 聖子先生は好きではない。何故なのかはよくわからない。

「それはね、きっとアイがセイコ先生の世界に含まれていないからだよ」
 ヨシト君は私にそう言った。秋山善人君。善き行いをする人。行いの正しい人。
「セイコ先生の世界の全ての子どもたちは良い子どもたちで、良い子どもたちを良い人間に育てることがセイコ先生の人生の目的なんだ。だから、僕らみたいな子どもたちはセイコ先生の世界では存在してはいけないし、存在しているということを知られてはいけないんだ」

 名は体を表すという言葉を知ったのは学校だったかこどもの国でだったか、それとも何かの本で読んだのか忘れたけれど、人の名前というのは親からの願いが込められているらしい。自分の名前の由来を聞いてみましょうという宿題が出た。私の名前は聞くまでもなかった。

 私の名前は笠原愛。愛は、愛だ。それ以外の意味はない。

 愛は嫌いだ。

 愛というものが何なのかはよくわからない。愛。いとおしいと思う気持ち。いつくしみ恵むこと。私の家には愛はない。昔はあったのかもしれないけれど今はない。お父さんはお母さんを愛していないし、お母さんはお父さんを愛していない。そして、お父さんもお母さんも私を愛していない。喧嘩ばかりしているわけじゃない。むしろ何もない。おそらくお互いを空気と同じくらいにしか思っていないのだろう。

 きっと、私の家には愛がないから、私の名前が愛になったのだと思う。
 愛の代わりに私が生まれたのだ。

 

 自分の名前が嫌いだとヨシト君に伝えたら、僕もそうだと彼は言った。
「僕の母親はもう死んでいるんだ。正確に言うと殺された。誰に殺されたか分かるかい?」
 分からない、と私は首を振った。
「僕の母は法に殺されたんだ。母は死刑囚だった。生まれつき心が弱かったんだろうね、大学生の頃に精神を病んで、聴こえないはずの声が聴こえるようになったらしい。その声に従って無差別テロを起こした。休日のショッピングモールで劇薬をばら撒いた結果、4人が死に十数人が重体になった。母は当時大学院の学生だったから、そういう劇物を簡単に手に入れることができた。死刑は当然の判決だった」

 その事件のことは知っていた。全国でも大きなニュースになったらしいけれど、私の生まれる少し前のことの出来事だから実際にどれほど騒がれたのかは知らない。

「僕の父と母は刑務所の中で出会った。僕の父親は刑務官だった。母の担当になって次第に惹かれ合ったらしい。やがて獄中で僕を出産し、それからすぐに死刑が執行された。母の処刑後、間もなく父も自殺した。残されたのは僕だけってわけさ。だから僕は自分の両親のことは一切覚えていない。祖父母の家に預けられて、両親と同じ轍を踏まないように善人と名付けられた」

 そんな名前を好きになれるわけないだろ、とヨシト君は笑う。

「僕の父親は刑務官という職業に就いていたけれど、それは犯罪を憎んでいたからではなくて、犯罪者に憧れていたからじゃないかと思う」
「どうしてそう思うの?」私は尋ねた。
「僕がそうだからさ。遺伝なのかもしれない」
 ヨシト君はなんともなさそうに言う。
 悪に憧れる気持ち。それは私にも分かるような気がした。
「僕たちは両親に足りないものを背負わされて生まれてきたんだろうね」
 ヨシト君は私がこどもの国に入る前からここにいる。長くいればいるほど定期テストの難易度は上がっていく。たくさんの子どもたちが入っては追い出され、昔から残っているのは私たちしかいない。

 とにかく、私にとってヨシト君は他の子どもたちとは違っていた。私たちはお互いに『同盟』を組むことにした。人の名前を呼ぶときはカタカナを使うというのが同盟のルールだ。声に出すときはそんなの分からないけれど、それでも意識を変えることで言葉の意味から逃れられるような気がした。私は愛ではなくアイで、ヨシト君は善人ではない。

 私たちは森で拾った金属の薄い板にカタカナの名前を刻み、ペンダントのように首から下げた。戦場に行く兵士たちが戦死した際に名前が分かるように識別票を身に着けると何かの本で読んだ。それの真似だ。死ぬときは愛ではなくアイとして死にたい。
 自分の名前が好きじゃないだけでなく、決定的に私たちは他の子たちとは異なっている。みんなそれぞれの性格はあるけれど、だいたいみんなお行儀良く親や先生たちの言うことによく従った。要するに良い子なのだ。私たちは違う。
 こどもの国の本当の名前は別にある。

『よいこともりのくに』

 よいこともりのくに。良い子と森の国。良い子と守の国。良い事守の国。良い子どもたちが棲む森の国。良い子たちを守る国。そしてそれが世界の『善いこと』を守っていく。
 知能指数が高い子どもたちを集め、自然に囲まれた空間の中で先進的な教育を施し未来の礎となるエリートを育てるのがこの施設の目的だ。私たちは同年代の子どもたちより十年先の教育プログラムを受けている。ただ頭が良くて勉強ができるというだけでなく、集団生活によって社会性を高め、森の中で自然への理解を深める。
 良い子どもたちを育み、良い子どもたちは良い人間となり、この国を良いものへと導いていく。この場所はそんな信念に満ち満ちている。ここにいる大人たちは自分たちが良い子どもを育てているのだと疑わないし、子どもたちも自分が良い人間になろうとしていることを疑わない。

 でも本当にそうだろうか?

 知能が高く、社会性があり、環境を大切にすることが本当に良い人間の必要条件なのだろうか? そうやって疑うこと自体がすでに良い子ではない証拠なのではないだろうか?

 たとえば空に巨大な物体が浮かんでいるとする。それはとても巨大な黒い球体であり、空に穿たれた深い穴のように中を見通すことができない。その物体の名は『悪』であり、巨大な質量による引力は私を常に引きつけている。逃れがたいその作用はいつだって影のように私に纏わりついていた。私にとっての悪とはそのようなものだった。

 

 私たちはこの国にいる唯一のわるい子どもだった。

 

 

 ……続きは文学フリマ頒布予定の「こどもの国」にて。

「こどもの国」

第26回文学フリマ東京で頒布予定の「こどもの国」を制作中ですが、表紙を公開します。イラストはlaicadog様に描いていただきました。小説の雰囲気とマッチした、これまでとは違ったタッチの素敵な表紙になりました。

 

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ブースも決定しました。2階は初めてかもしれません。カテゴリは恋愛ですが、恋愛要素は多分無いです。男の子と女の子はいちおう出てきますが。

 

ブース位置 : エ-03 (Fホール(2F))

カテゴリ : 小説|恋愛

 

のちほど試し読みを公開しますので、続きが気になった方はぜひ。お待ちしております。

 

小説を書くことについて

文学フリマに出す小説を書き終えました。まだこれから書き直しを行いますが。もしかしたらこの書き直しの作業が一番楽しく、そして作品の質を大きく左右するものかもしれません。今回の小説はとても手応えがあり、良いものが書けたのではないかと思っています。前にも書きましたが、だいたいいつもそう思っています。そしてこれもいつものように脳裏によぎることですが、前よりも良いものが書けたという思うときは、前作を読んでつまらない気持ちになってしまっていた人は読んでくれないのかなと考えてつらくなったり、前作も同じくらい上手く書けていればよかったのにと後悔することもあります。

 

――――以下は小説を書き終えた個人的な打ち上げとして日本酒をしこたま(死語)飲んだ勢いで書いた、とても個人的な文章です。ひとが読んでもあまり面白くないかもしれません。というのは、他人が読んで面白いと思うレベルの内容を担保しないという意味です。

 

そもそも僕は小説を書くときにあまり他人に楽しんでもらおうと思って書いていないな、とふと気付きました。言い換えると誰かのために書いたことがありません。いつも僕は自分自身が面白いと思えるものしか書きません。だから書いているときは心底楽しいし、書き上げた瞬間その作品は世界で一番面白い作品(のひとつ)になります。でも僕と言っても『そのときの僕』でしかなく、時間をおいて読み返してみると「なんでこんなものを書いたんだろう」と頭をひねることがあります。また、単に技術的に未熟だったために書きたかったことが充分に果たせていないこともあります。

なんにせよ、世の中でどんな小説が流行っているのかだとか、どんなものを書けばウケるのかとか、全く考えていません。商業作家ではこうはいきません。芸術としての純文学を除けば、エンターテイメントとして読者を楽しませる必要があります。

とはいえ、僕は自分自身の趣向はそれほど一般の感覚からはずれていないのではないかと思っているので(それが大きな思い違いだという可能性は小さくありませんが)、僕が面白いと思うものは他の人もそれなりに面白いのではないかと思っているのですがどうでしょう。僕はそれなりにメジャー作家が好きだし(ただし現代のメジャー作家ではないことが多いですが)、彼らの良いところをなるべく吸収するようにしています。だから僕の小説は村上春樹的な部分があったり夏目漱石的な部分があったりドストエフスキーサリンジャー佐藤亜紀円城塔伊藤計劃森博嗣太宰治秋山瑞人穂村弘などその他もろもろ数え切れない要素があると思います。

オリジナリティというのは先人の技術のミクスチャーあるいは発展であり、誰も見たことがない「個性」なんて存在せず、存在したとしても大したものではないと考えています。それは物理学や数学において突如新しい法則が生まれるようなことはなく、すべては先人が積み上げてきた学問に立脚しているのと同じではないでしょうか。

ええと、こんな話をしたかったわけではなくて。

とにかく僕にとって小説を書くという理由は何よりも僕が楽しいから書いています。高校二年生の頃に小説を書き始めたときからそれは同じです。高校生の頃の僕は今にして思うとちょっと異常で、授業もろくに聞かず四六時中本を読んでいるか文章を書いてるか、そのどちらでもなければ脳内で文章を組み立てていました。おかげで学業の成績はひどく落ちました。

大学の頃になるとただ楽しいからではなく技術的に上達するために努力するようになり、また同時期に精神を病み始めたこともあって、書くという行為が自己治療の意味を帯びはじめました。

箱庭療法という心理療法があります。文字通り箱の中に砂や玩具を置き自己表現することによって治療を行う手法です。小説を書くということはそれに似ています。識閾下まで潜り込み自己表現をすること。無意識下のレベルまで深化させ、そして物語をシミュレートするということは、自分の苦しみの根源は何なのかを把握する上で役に立ったのではないかと思います。もしも小説を書いていなければ僕はもっと混乱し現在のようなかたちを保てなかったのではないかと思うのは過言でしょうか。その行為を文字通りの自慰行為としてマスターベーションとみなしてしまえば、僕の小説を他人に読ませる意味なんてないのですが。

他人に読ませる意味。上記を踏まえるとその意味がわからなくなるかもしれません。自分自身のために書いているのであれば他人に読んでもらう必要なんてないのだから。おそらくその理由は、誰かに自分を認めてほしいという承認欲求と、僕が面白いと思うものをみんなにも面白がってほしいと思う紹介のような気持ちによるものなのかもしれません。

 こんなことを書くととんでもなく馬鹿で身の程知らずの自意識過剰かと思われるかもしれませんが、病気で知力が低下する前の僕は同年代としては日本で一番(小説としての)文章がうまい人間だと思っていました(病気によるものなのかそれとも治療に用いた抗うつ剤のせいなのかわかりませんが、記憶力と思考力と情報処理能力は二十歳前後に比べると半分くらいになりました)。

こと小説としての文章力で言えば現代作家で言えば村上春樹の次くらいにレベルが高いと本気で思っていました。そりゃ佐藤亜紀伊藤計劃円城塔秋山瑞人に比べたら僕なんてミジンコかもしれないけれど、ある種の技術力においては負けてないんじゃなかろーか、なんて思っていました。

たとえば以下の一節。


 寒さに目が醒め、車窓の外を見遣ると雪が積もっていた。同室者に訊けば道程は半ばも大分過ぎたという。同室者は擦り切れた服装をした初老の男で、枕元の灯りの件を詫びると気にしなくても良いと言い、冷えるからこれを飲むと良いと私に酒を差し出してきた。それを口にしてようやく人心地が付いた気がした。
 何をしに北国へ行くのか、と男は訛りのきつい口調で訊ねた。嫌なことがあって逃げ出してきたと正直に答えると男は呵呵と笑い、そんなような顔をしていると言った。漂白の旅にはちょうど好い、極寒の冬の風に吹かれればそこらの悩みにかかずらう余裕も無いだろう。私は力無く笑い返し、差し出されるがままに酒をかっくらって再び眠った。目覚めたときには終着駅で、男の姿は既に無かった。 

 たぶんここを読んだ人は特に何も感じないと思うのですが、僕としては自分の文章の中で一番上手く書けたのではないかと思っています。綺麗な表現や詩的センス云々ではなく、このような描写をこのように書くことができている小説はなかなか見たことがない(僕としてはこの部分は佐藤亜紀の「ミノタウロス」を意識して書きました)。

たぶん読んでる人は何言ってんだこいつとか、上記の引用文のどこが優れているのかちっともわからないと思うかもしれませんが、ようするに僕の中の面白いとかよく書けたとか、基準はこんな感じです。楽器の音作りに異常なまでにこだわるミュージシャンと似たようなものかもしれません。小説を書くことについて、何が良い文章で何を目指しているのか、もうすこしテクニカルな話はいつかきちんと解説したいと思います。

なんか一方的に書きたいことを書いたら、結局着地点がわからなくなって、しかも自分が自意識過剰の思い上がり野郎だと思われかれないようなことになってしまいましたが、とにかく今回書けた小説はよいと思います。

たぶん、きっと、おもしろい。すくなくともぼくにとっては。

第26回文学フリマ出展します。

開催日 2018年5月6日(日)
開催時間 11:00~17:00
会場 東京流通センター 第二展示場
アクセス 東京モノレール流通センター駅」徒歩1分

 

一年半ぶりに文学フリマに出ます。新作短編小説を出す予定です。ようやく完成の目処が立ったので告知します。良いものが書けているのでは、という自負はありますが、いかんせん万人受けはしない気がします。いつものことかもしれません。

タイトルは「こどもの国」になる予定です。

 

私たちはこの国にいる唯一のわるい子どもだった。

 

既刊「わたしの庭の惑星」「紫陽花が散らない理由」「硝子と眼球」も在庫分+α持って行きます。ぜひ足を運んでいただければ幸いです。では。

詩を書くことについて

詩合というイベントに初参加しました。その場で出されたお題に沿って即興で詩を書くというイベントです。5人くらいの出場者がいて、お客さんの投票によってお題ごとの優秀作が決まり、最後に全ての作品の最優秀作を選ぶというルールです。

とはいえ、賞レースではなく、あくまでも目的はより良い詩を書くというものなので、あまり硬くならずに参加することができました。それでも緊張しましたが。最優秀作は残念ながら逃しましたが、お題ごとの優秀作には3度ほど選ばれたので健闘できたかなと思います。僕は昔から文学関係で他人と関わり合ったことが少なく、文学フリマでそういった出会いみたいなのを初めて経験したのですが、この詩合というイベントも刺激的でエキサイティングな体験でした。

即興詩を書くというのはとにかく脳みそをフル回転して自分の中にある引き出しをひっかきまわして言葉を探すことになるのですが、追いつめられたときに人間の本性が出るというかなんというか、自分の引き出しの狭さ・少なさを痛感しました。アラサー女子ネタか社畜ネタか動物ネタか下ネタくらいしかないもんな。この日記の下の方に作った詩を載せておきます。

 

文章を書くのは好きで小説も書いていましたが、詩を書くことだけは昔から苦手で、いわゆる普通の詩というのも作らないし、中学生の頃にギターを始めて曲を作ったりもしていましたが歌詞を書くのはとにかく苦手でした(正確に言うならば書きたくなかった)。もともと僕は言葉を積み重ねることによる面白さみたいなのに興味があって、意味を読者に委ねがちな「詩」というのは範疇にありませんでした。しかし、萩原朔太郎の詩やその考え方に触れ、その考えを改めました。

 

詩の表現の目的は単に情調のための情調を表現することではない。幻覚のための幻覚を描くことでもない。同時にまたある種の思想を宣伝演繹することのためでもない。詩の本来の目的は寧ろそれらの者を通じて、人心の内部に顫動する所の感情そのものの本質を凝視し、かつ感情をさかんに流露させることである。

萩原朔太郎「月に吠える」序文より引用

私のこの肉体とこの感情とは、もちろん世界中で私一人しか所有して居ない。またそれを完全に理解してゐる人も私一人しかない。これは極めて極めて特異な性質をもつたものである。けれども、それはまた同時に、世界の何ぴとにも共通なものでなければならない。この特異にして共通なるここの感情の焦点に、詩歌のほんとの『よろこび』と『秘密性』とが存在するのだ。この道理をはなれて、私は自ら詩を作る意義を知らない。 

同上より引用

 

この序文を読んだ大学生の頃の僕は、以下のような日記を残しています。

なんていうか、僕が常々詩人や詩という芸術そのものに対して抱いていた不信感がこの序文で一瞬に払拭された。所詮綺麗事とか個人的な主観を、体裁の良い言葉で虚飾してるんだろ中身なんてないんだろ、もしくは煙に巻いて孤立した優越感に浸ってるだけなんだろ、という嫌悪をぶち壊しにしてくれた。というかそんなものは軽々と超越してる。

そうでなくても詩が持つ表面的な情報量は他の芸術に比べれば圧倒的に少ない。それ故に、傲慢な鑑賞者は都合のいいようにそれを『理解』し、勝手な占有意識を抱く。僕はそれがどうしようもなく我慢できない。受け手に対しても、それを許した表現者に対しても。

 

 

中略

 

萩原朔太郎はこの序文に於いて、自分の芸術が理解される対象を減らすために難解に走ることを忌避した。独自性と共通性の両義を表現することが自らの求める芸術なのだと宣言したのである。僕はここで諸手を挙げて賛同せざるを得ない。だからといって単純化・素朴化へと逃げるのではなく、真っ向からこの困難を実現していくのである。なんという強靭。なんという才気。詩人に抱いた不信感が詩人の手によって打ち消される。よもや、処女詩集の序文によってそれが為されるとは夢にも思っていなかった。

なんというかテンションの高さというか、文章の熱量というか、我ながら引いてしまいますが…。 よっぽど感動してたんでしょうね。

とにかくまあ、詩への向き合い方を見直した僕はその後萩原朔太郎を始め中原中也を読んだり穂村弘の短歌を読んだり、まぁその程度なんですが多少は詩を読むようになりました。その後、ふざけたバンドを組み脱力系の歌詞を書くようになって、歌詞を書く楽しさ面白さみたいなのがだんだんとわかってきたのですが、まさか詩を読むイベントに参加することになるとは夢にも思っていませんでした。

 

以下、作った詩です。ついでに昔作った歌詞も載せておきます。

 

■お題「ポップソング」

タイトル「過渡期」

 

レコードからCDへ
MDからiTuneへ
百年後の未来では
きっとシイタケとかシメジとか
そういうものを耳に突っ込む

 

僕は静かに耳を立て
君が立つキッチンの音を聴いている
僕の心のベストテン第一位は
たぶんそういう音楽だった

 後半部分はオザケンパクリオマージュですね。優秀賞受賞。

 

■お題「窓の外」

タイトル「都市伝説」

 

時速60kmで走る
車の窓から手を出すと
まるでおっぱいの感触らしい

 

そんなことを思い出した僕は
おもむろに手を伸ばす

 

暖かい春の午後
よく晴れた街の空気と
あの子のささやかな胸と
入りこんだ杉の花粉で
僕は、くしゃみをした

下ネタですね。緩急をつけてみました。

 

■お題「デッサン人形」

いろいろな角度から君を見てみたい
恥ずかしい格好をさせてみたい
だけど想像力が足りてない
そういうときに使います

もうほんと何も思いつきませんでした。タイトルも思いつかない。

 

■お題「くじら」

タイトル「トト」

 

トイレの中で泳いでる
おしりに向かって潮を吹く
トト<TOTO>と名付けた
ちいさな私のクジラさん

これが一番良くできたかなと思ったんですが、他の方の詩がとても良くて優秀賞は取れず。結局そのときの優秀賞作品が最優秀賞になりました。

 

 ■お題「都会」

ここはナゴヤ県ナゴヤシティ
トヨタと河村が支配する街

 

名古屋なんてつまんないよね
そう言って東京へ出たマリコ
子育てのために帰ってきた

 

「東京は都会でしたか?」
「名古屋は都会じゃないですか?」
大名古屋ビルヂングのスタバで
その言葉をフラペチーノといっしょに飲み込んだ

 このお題も何も思い浮かばず苦し紛れで手頃なテーマを選びました。意外にも優秀賞。

最後の文節は「つまらない街で育てた子どもは、つまらない子どもですか?」のほうがよかったなあと発表した後に思いました。

 

 ■お題「電気のない部屋」

タイトル「本音」


キャンプに行くのはいいけれど
スマホの充電どうするの?

 

タイトル「イマジン」

 

想像してごらん
もしも電気がなくなったら
プログラミングもできないよ

 

想像してごらん
もしも電気がなくなったら
上司のメールは返さなくていい

 

ありがとう原子力
ありがとう化石燃料

 

みなさんのおかげです

 2個作りましたが評価対象に選んだのはふたつめ。明らかなオマージュですが優秀賞受賞。

あんまりネタが思い浮かばず、社畜ネタに走る。

 

 

最後に歌詞を貼っておきます。スタジオで即興で歌った歌詞です。だからある意味本当の即興詩なのかもしれない。一切書き直しもしていないし。

おかしいなあ、萩原朔太郎に感動した人間がこんな詩を書くかな?

マンボウ
おまえマンボウ
まるでマンボウ
そしてマンボウ

 

マンボウ
まるでマンボウ
おまえマンボウ
赤ん坊が笑ってるよ

 

マンボウの赤ん坊が
たくさん今年も生まれました
わたしの家の水槽は
すごくいっぱい何かが浮いてます

 

マンボウ
それはマンボウ

 

お父さんもマンボウ
お母さんもマンボウ
マンボウ
そしてマンボウ
おれはマンボウ
君はマンボウ

 

聞こえるかこのマンボウの声
聞こえるか叫び声、マンボウ
マンボウ、おまえマンボウ
生きてりゃマンボウ食べることだってあるよ

 

上手く歩けない
だってマンボウ
わたしマンボウ
空は飛べないよ
だってマンボウ
わたしマンボウ
マンボウ

 

歩けない
空も飛べない
泳げない
出来損ないのあたしだからこそ
歌うわ マンボウの唄を
何も出来ないわたしの
マンボウとしてのプライドだから

 

マンボウ
そしてマンボウ
レインボー
空に架かるレインボー
DING DONG
DING DONG
カツ丼…
マンボウ
マンボウ
マンボウ

 

マンボウマンボウマンボウマンボウマンボウ
マンボウ
yeah

 

君は知ってるかい
スーパーで売ってるマグロの肉は
実はマンボウ
それはマンボウ
食品名偽装の闇

 

2017年に見た映画の感想

2018年も既に2月も半ばに達しようとしているのに今更2017年の話かよ、と思われるかもしれませんが僕もそう思います。2017年は本を読むより映画を見ていた一年でした。とはいえもう少し本を読むべきだし、映画を見るべきですね。幸いにして映画の感想は一本ずつ書き残していたので、それを貼り付けていきます。ちなみに僕は映画に関しては特にこだわりはなく面白そうだなと思ったものを見ています。基本的にはアート系作品は理解できるほどの知識がないので、脳みそ空っぽなハリウッド映画が好きです。

 

 

 

この世界の片隅に
 

 1作目「この世界の片隅に

ミリオン座に行くのなんて何年ぶりだろうか。戦争を悲劇として描く作品はたくさんあるし、エンタメとして描く作品もあるけれど、これは市井の人々の日常をただただ細やかに写し取っていて、身内の死や街の焼損や身体の欠損など辛い現実はそこにあるのだけれど、辛くて悲しいことを語っているわけではなく、それでも世界に満ち満ちているうつくしさやあなたとわたしの生きていく意味に心がいっぱいになる。

 

 

 2作目「レ・ミゼラブル

再視聴。映画館で観た時は3回くらい泣きそうになったが、家で見るとこんなにあっさりしてたっけという印象。歌の良さで忘れそうになるけれどかなり展開が急で、家でぼんやり見てたりすると勢いについて行けなくなりそうになる。

 

 3作目「エクス・マキナ

密室サスペンスとして面白い。「不気味の谷」をサスペンスな感覚に転用する手腕も良い。だが人工知能と人とのあり方を描いているかどうかは保留したい。「いずれ人工知能は人間と区別できなくなり、人間よりも優れているから、いずれ人間はモノのように扱われて捨てられるかもしれない。怖いね」みたいな教訓しか得られないとしたら、これからの未来技術を考える上では大した収穫にはならない。

 

 

 

 4作目「ゼロ・グラビティ

エクス・マキナ」が低予算で近未来世界を上手く描いたとすれば、これは潤沢な資金で贅沢な宇宙を描いており、眼福と言うべきだろう。でもきっと近い未来にはこの映画の映像もショボく見えるのかなと思うと辛いところではある。間違いなく映画館で観るべきだった作品。よくもまあこんなにハラハラさせる展開にできるなと感心。ハリウッドの脚本・演出技術にまんまと感情が踊らされる。

 

 

キングスマン(字幕版)
 

 5作目「キングスマン

 スタイリッシュかつ悪趣味で笑った。ダニエル・クレイグが必死になって(必死になったのは製作者側だけど)払拭した007のトンデモイメージを嘲笑わらうかのようにトンデモ方向に振り切って気持ちがいい。腹抱えて笑いました。

 

 

  6作目「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い

こういう映画ほんと好きじゃないです。

 

 

 7作目「6才のボクが、大人になるまで。

オチも何もないんだけど、人生は映画になってしまうということ。非常に良いんだけれどラストは蛇足では。

 

8作目「モンスターズ・ユニバーシティ

ディズニー映画ってたびたび大学のフラタニティ文化が舞台になったりするけれど、アメリカのティーンエイジャーには嬉しいんですかね。過去の話だから登場人物たちが最終的にどうなるのかはわかってはいるのだけれど、登場人物の性格を前作とはだいぶ変えてきたことにより、その性格が最終的にどこに行き着くのかがわかっている安心感と、どうやって性格が変わっていくのかという謎解きが物語を上手く牽引している。ここらへんの手腕がほんとうまいですよね。

 

 9作目「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン

事実は小説より奇なりと言いますが、原作は果たしてどこまでが本当でどこまでがほら話なのか、何しろ稀代の嘘つきの話だから分からないんですよね。トムハンクスとディカプリオの追いかけっこというのは、もうそれだけで楽しい。

 

 

10作目「イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密

実在の科学者を題材にした作品なら「博士と彼女のセオリー」のほうが良かった。いまいちチューリングの凄さが伝わってこない。

 

 

マネーボール (字幕版)
 

 11作目「マネーボール

ジョナ・ヒルの存在が気になり始めた。

 

ドライヴ

ドライヴ

 

  12作目「ドライヴ」

つまり、ハリウッド版キタノ映画って感じですね。

 

 

バクマン。

バクマン。

 

13作目「バクマン。

とにかく亜豆がコレジャナイ感ハンパないし、恋愛シーンは恥ずかしくて観てられない。それ以外はまあ漫画原作の邦画の中では頑張ってる方なのでは。山田孝之のおかげか。

 

南極料理人

南極料理人

 

 14作目「南極料理人

おっさんたちがラーメンを食うためにケンカしたり、堺雅人ハンバーガー食ってうめえって呟いたりする映画。
こんな映画、決してハリウッドでは作れない。僕が邦画に求めている全てがこの映画につまっている。こういう邦画を作り続けてほしい。

 

エイリアン (吹替版)

エイリアン (吹替版)

 

 15作目「エイリアン」

 クローズドな空間でのサバイバルが巧みに描かれている。しかし、ちっこいエイリアンがシュタタタタと走っていくのは少し笑った。子供の頃は怖くて見れなかったんだけどなあ。

 

 

エイリアン2(字幕版)

エイリアン2(字幕版)

 

 16作目「エイリアン2

前作のサスペンス感はどこへやら、脳筋ハリウッド映画と化したけど面白いもんは面白い。シュワルツネッガーが飛び出してきてエイリアン共を蹴散らしていたら完璧だったな。

 

レザボア・ドッグス [Blu-ray]

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  17作目「レザボア・ドッグス

タランティーノの下ネタ全開なファミレスの冒頭シーンしか記憶にない。 

 

マイ・ボディガード 通常版 [DVD]

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   18作目「マイ・ボディガード

少女とボディガードが心打ち解けていく前半はほどよく不穏さを孕んでいるが、逆に後半の復讐パートは単調な暴力の連続になり緊張が弛緩してしまっている。頻繁に凝った演出映像が挿入されるが、心理描写としてはさほど効果的でもなく。役者や題材は光るものがあるのに、プロットにもう少し意外性が欲しかった。

 

オーシャンズ11 (吹替版)
 

 19作目「オーシャンズ11

たぶん昔見たけれどまるで覚えていないので見る。人が死なない、傷付かないのに、最初から最後まで飽きさせない作りは地味に超絶技巧。オチも痛快。ジョージクルーニーはムショ上がりでもセレブ感を隠せてないけどそれもグッド。

 

    20作目「ミッドナイト・ラン」

新作に限らないのであれば、今年のベスト。ドタバタで味方も敵もアホなんだけど、とにかく痛快で笑える。デニーロのワルになりきれない元警官の役がハマっている。

 

 

  21作目「バグダッド・カフェ

良い映画だが期待し過ぎた。前情報なしでミニシアターなんかで観たら印象に残るかな。

 

   22作目「オーロラの彼方へ

時間改変モノとしてはお手本みたいな脚本だけど、伏線が見え過ぎていて意外性はない。歴史改変としての痛快さもそれほどないし…、SFとしての整合性も無理矢理感がある。佳作ではあるが傑作ではない。

 

スピード (字幕版)

スピード (字幕版)

 

23作目「スピード」

とにかく息もつかせぬという言葉に尽きる傑作アクション。次から次へと襲い掛かるピンチを若きキアヌがどう乗り切るか!?で始まりからラストまで(本当にそれだけで)突っ走る。サンドラブロックは20年前の映画なのにゼログラビティとそんなに変わらないのもすごい。

 

 

ウォーリー (吹替版)

ウォーリー (吹替版)

 

24作目「ウォーリー」

これ結構怖い映画ですよね。ピクサーアニメでデフォルメされてるけど、イモムシみたいな新人類はリアルに描いたらかなり怖いんじゃないか。エンディングで人類の未来を描いてるけど、あれがなかったら地獄絵図しか想像できない。

 

 

聖の青春

聖の青春

 

 25作目「聖の青春」

やっぱり映画で将棋棋士たちの気迫と覚悟に満ちた人生を描くのって難しいですよ。マツケンも東出も名演だけど、どうしてもモノマネ芸としての方面に目が向いてしまう。

 

007 スペクター (字幕版)
 

  26作目「007 スペクター」

 一応ダニエル・クレイグによるボンドは最終作になるが、色々な意味で原点回帰というか、過去のボンドシリーズへのオマージュとリスペクトが感じられ、ストーリーとしてもなんだかよくわからないことになっていた過去2作に比べればスッキリしていたと思う。とは言え途中でやっぱりよくわからんことになりかけたが。ボンドの幼少期にあんまし興味がない人間にとっては、そもそもタイトルである「スペクター」に対する関心もあまり持てない。とにかく英国ブランドに身を包みスタイリッシュなのに体を張って頑張るダニエル・クレイグを見てニヤニヤすることが出来たので満足です。

 

 

 27作目「ペーパー・ムーン

ほんとうの天才少女子役は写すだけで名作になる。タクシードライバー、レオン、ニキータ、そして本作。

 

 

  28作目「傷物語Ⅰ 鉄血篇」

ただただ演出がくどい。TVシリーズは短い尺だから耐えられていたのだなと再認識。
真綾さんの演技が素晴らしいのが救い。それが無かったら観ていられなかった。そもそもあの薄い原作を三部作にしなくてもいいだろと。

 

 

   29作目「ハドソン川の奇跡

今作やアメリカンスナイパーに共通するのは、アメリカの国民的ヒーローとなった人間を細部まで描き切り、その超人的な功績が、単に超人的な能力によるものではなくて、高度に訓練された人間が職責を果たしたことによる功績にすぎないことを示していることだ。要するにヒーローはただの一般人だということを語っているのだけれど、それは決してヒロイズムの否定ではなくて、一般人が国民的ヒーローになれるということを逆説的に描いている。

 

 

ある天文学者の恋文 [DVD]

ある天文学者の恋文 [DVD]

 

  30作目「ある天文学者の恋文」

めんどくせえカップルだな、おい。もしこれが映画ではなく小説だとしたら心に残る一作になったかもしれない。映像にすると無理な設定が多々あり、教授のエスパーじみた封筒攻撃やら博士課程のくせに勉強する素振りが一ミリもない主人公やら(博士課程のくせにバイトばかりして学会も出ないし卒業論文しか書いてないし…)、細かい部分が気になってしょうがない。
とにかくこのカップルに感情移入できず、ワガママでモラルのない(図書館や観劇中くらいマナーモードにしろっ!)主人公に段々腹が立ってきて、彼女が泣いたり怒ったりする様を冷ややかに見るようになってしまった。
この監督の作品はどれも映像と音楽は素晴らしいけど、とにかくストーリーに無理がありすぎるきらいがある。「鑑定士と顔のない依頼人」に続いてジジイが若いオンナに夢中になる話だし…。なんだかなあ。

 

 

  31作目「帰ってきたヒトラー

傑作。ザヴァツキくんの最期は「世にも奇妙な物語」チックでやり過ぎ感があったが…。

先進各国のグローバリズムに限界が見えて、右傾化へと反発していく昨今、この映画は2年ばかり時代を先取りしていると言える。ヒトラーただ一人が残虐な異常者だったわけではなく、少なからず民意を反映していたのだということを再認識するには、ちょうどいい映画だと思う。

そこかしこに散りばめられたヒトラー映画のパロディには笑った。

 

 

PK ピーケイ [DVD]

PK ピーケイ [DVD]

 

   32作目「PK」

「きっとうまくいく」はとても好きだが、これはイマイチ。説教くさいというか、インドの人ならあるあるな風刺がちょっとうるさい。序盤に張られた伏線も見え見えだし…

 

 33作目「ボーダーライン」

正確無比な暴力描写。
綺麗事が通用しない世界での正義とは何か。緊張感が弛まず最期まで続いていく奇跡のような映画。

そして主人公のエミリーは「プラダを着た悪魔」のあのエミリーなのね。頭空っぽのギャルだったのにシリアスなFBIを演じきるなんて…流石ハリウッド女優。

 

 

ダンケルク(字幕版)

ダンケルク(字幕版)

 

 34作目「ダンケルク

 IMAX初体験。冒頭の銃撃シーンで身を竦めてしまうほどのリアルさ。どこを切り取ってもひとつの絵になる、偏執的なまでのカットの美しさ。これは監督の腕なのかカメラマンの腕なのかわからないけれど…。この映像技術で描かれる空戦は必見といっても良い。密閉空間が水没していくのはリアリティがありすぎて閉所恐怖症の人は見られないのではないか(とはいえ3回くらいその演出が繰り返されるが)。

ただ、あえてケチをつけるなら、戦争映画を観ているというよりは優れたアクションエンタメを観ているような気分になったことか(「スピード」に近い印象を受けたが、やはり影響を受けているそう)。敵軍の姿が一切見えない演出が、戦争映画というよりは巨大災害と戦っているかのような気分にさせる。とはいえ一兵士たちにとってはそれこそがリアルなのかもしれないけれど。

 

  35作目「スター・ウォーズ エピソード4 新たなる希望」

昔からスター・ウォーズは全然好きじゃなくて見てなかったんですが世間に乗っかって見てみました。ノーテンキな宇宙戦争だなと思いました、以上。

 

 

ちなみに、今年はまだ一本も映画を見ていません。

2017年に読んだ本の感想

年末なので今年読んだ本の感想でも書こうと思い立ったのですが、驚くほど内容を覚えていなくて愕然としました。今年は忙しく体感的には3ヶ月ぐらいで終わったような気がするのですが、30冊程度しか読めていないしその冊数ですら覚えていないということが自分の記憶力の低下を如実に語っているようでつらいです。

読んだ本の記憶が曖昧ですが、だからといっってつまらなかったわけではなく、むしろ今まで読まなかったジャンルの本にも触れることができたので刺激的だったはずなのですが、「刺激的だった」という情報だけが手元に残っている状態に途方に暮れています。記憶の引き出しをひっくり返してなんとか感想を書いていきます。

 

アンナ・カレーニナ〈中〉 (新潮文庫)

アンナ・カレーニナ〈中〉 (新潮文庫)

 

 ■1冊目 「アンナ・カレーニナ 中」トルストイ

アンナ・カレーニナ〈下〉 (新潮文庫)

アンナ・カレーニナ〈下〉 (新潮文庫)

 

 ■2冊目 「アンナ・カレーニナ 下」トルストイ

 去年から跨いでアンナ・カレーニナを読む。実はトルストイはまともに読んだことがなく、ちょっと齧って「あまり好みではないな」と思っていたのですが、そこでいてこのアンナ・カレーニナは物語としては面白いと思ったけれど、トルストイの筆致はやはりあまり好みではないなという結論に至りました。トルストイ写実主義的な描写はあまりにも精緻過ぎて読者の想像の余地を許さないというか、あまりにも説明しすぎてしまっている。同じロシア文学写実主義でもドストエフスキーは人間の極限を描きだしているけれど、トルストイが登場人物たちを追い込む先はキリスト教人道主義の袋小路であり、現代の日本人である僕にとってはやはりピンとこないです。あるいはロシア正教的な価値観をきちんと理解できたら面白いのかもしれない。

 

仮面の告白 (新潮文庫)

仮面の告白 (新潮文庫)

 

 ■3冊目 「仮面の告白三島由紀夫

 三島は何冊か読んで、上に書いたトルストイと同じような感想を抱いていたのですが、徐々に認識を改めるようになりました。つまり、三島由紀夫も非常に理性的で論理的な文章を書いていて、そこにあまり面白みを感じられず、さらに修辞的な文章に辟易としていたのですが、ある時にこの作家の異常性に向かっていく熱量の凄まじさと理性的な文章から出来上がる小説のいびつさに気が付き、一気に引き込まれるようになりました。

この「仮面の告白」も、「金閣寺」と同じようにやはり美に向かい美に憧れる青年を描いていますが、同性愛的な屈折を経て、理性と欲望の不整合性とそれに対する絶望を描く真に迫る筆致が胸に刺さります。

 

マイノリティ・リポート―ディック作品集 (ハヤカワ文庫SF)

マイノリティ・リポート―ディック作品集 (ハヤカワ文庫SF)

 

 ■4冊目 「マイノリティ・リポートフィリップ・K・ディック

 ディックの短編をまともに読むのは初めてかもしれない。長編においてはプロットから逸脱した小説的混迷とも言うような「わけの分からなさ」が見え隠れするけれど、短編は意外と(?)きちんと起承転結がありSF的なオチもある。とはいえ、自分自身が立脚する世界が揺らぐようないわゆる「ディック感覚」は短編においても存在している。

 

ガラパゴスの箱舟

ガラパゴスの箱舟

 

 ■5冊目 「ガラパゴスの箱舟」カート・ヴォネガット

 まともな小説じゃないです(褒め言葉)。

ジョークのように語られるジョークみたいな物語。最高でした。

 

カオスの紡ぐ夢の中で (〈数理を愉しむ〉シリーズ) (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)

カオスの紡ぐ夢の中で (〈数理を愉しむ〉シリーズ) (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)

 

 ■6冊目 「カオスの紡ぐ夢の中で」金子邦彦

 複雑系科学者である金子邦彦の「複雑系とは何か」ということを解説していない本書は科学書なのかエッセイなのかそれとも壮大なジョークなのか、複雑系科学、古今東西の文学、物理学が混沌と煮込まれており、とにかく余人には理解しがたいけれどそれ自体が複雑系とは何かを物語っているのではないか、と思わせるものの、金子先生と弟子の円城塔のせいで複雑系に対する偏見が助長されているだけな気もする。

 

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

 

 ■7冊目 「騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編」村上春樹

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

 

 ■8冊目 「騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編」村上春樹

 正直に言って村上春樹の新作には失望しました。「1Q84」も「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」も「世界の終わりと、ハードボイルド・ワンダーランド」や「ねじまき鳥クロニクル」といった代表作ほどの目新しさはないものの、新たな試みが感じられたのに、この「騎士団長殺し」に何か新しい要素なんてあっただろうか? 異世界につながる井戸、妖精っぽい小人、たどたどしい喋り方の少女、具体性のない金持ち、すべて過去作で見たことのあるモチーフでしょう。アトリエとギャッツビー的豪邸を行き来するだけの物語にはダイナミズムもなく、オチは少女のかくれんぼ。なんじゃそりゃ。

 

月は無慈悲な夜の女王 (ハヤカワ文庫 SF 207)

月は無慈悲な夜の女王 (ハヤカワ文庫 SF 207)

 

 ■9冊目 「月は無慈悲な夜の女王ロバート・A・ハインライン

 古典SFには今読んでも面白いものとそうでないものがありますが、こちらは後者でしたね。

 

疫病と世界史 上 (中公文庫 マ 10-1)

疫病と世界史 上 (中公文庫 マ 10-1)

 

 ■10冊目 「疫病と世界史 上」ウィリアム・H・マクニール

疫病と世界史 下 (中公文庫 マ 10-2)

疫病と世界史 下 (中公文庫 マ 10-2)

 

 ■11冊目 「疫病と世界史 下」ウィリアム・H・マクニール

 かつてアメリカ大陸へ渡ったヨーロッパの入植者たちが先住民族たちを圧倒できたのは文明の力だけでなく、彼らがもたらした伝染病に拠る所が大きい。それは教科書にも載っている事実だが、しかしなぜ先住民族たちはヨーロッパの伝染病に対する免疫を持っていなかったのか。逆に、新大陸に存在する病原体に入植者たちが苦しめられなかったのはなぜか。歴史の上で見落とされていた疑問について、まるで数式を解くかのように丁寧に因果を追っていく。歴史には因果がある、という当然の事実に気付かせてくれたマクニールは、この本でも蒙を啓かせてくれた。

 

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

 

 ■12冊目 「ゲンロン0 観光客の哲学」東浩紀

 2017年に読んだ本の中で最も面白かったのは東浩紀の数年ぶりの小説以外の単著であり集大成とも言えるこの一冊。外部−内部、ナショナリズムグローバリズムの域外にある「観光客」という概念を論じた本書は、デビュー評論であるソルジェニーツィン試論から小説「クォンタム・ファミリーズ」に至るまでの東浩紀の著作全てが本書へとつながる補助線だったかのような一貫性を持っており、鮮やかな手際で伏線が回収されていく推理小説のような知的興奮に満ちている。既存の対立関係を俯瞰するような「観光客」という概念は、批評家として活動していた際の物事をメタ的に捉える視点が発揮されているなあと思う。何より専門的な用語が使われる『哲学書』でありながら門外漢の僕でも夢中になって読ませられてしまうようなリーダビリティが素晴らしく、抽象的概念を現実世界とリンクさせる文章は優れた小説の比喩表現のようでもある。

 

燃えつきた地図 (新潮文庫)

燃えつきた地図 (新潮文庫)

 

 ■13冊目 「燃えつきた地図」安部公房

 謎を解き明かす存在である探偵が気付けば自らも謎に囚われてしまう、というのは捻くれているが現代ミステリにはよくあるパターンだが、この小説においては謎は何一つ解き明かされず、不透明なゼラチン質にずぶずぶと飲み込まれていくような不安感に満ちている。知らない街の路地に迷い込んでしまったかのような疎外感・孤独感に包まれ、現代的な都市の排他性を描いている。

一昔前はこういう不安が街の中に潜んでいたと思うのだけれど、グーグルマップがそれを駆逐してしまったのでは、とふと思いました。

 

個人的な体験 (新潮文庫 お 9-10)

個人的な体験 (新潮文庫 お 9-10)

 

 ■14冊目 「個人的な体験」大江健三郎

 大江健三郎はデビュー直後の短編を数作しか読んでいなかったが、この作品は文学的な閉じられた世界から、作者の実体験と実存的テーマを結びつける格闘の始まりとも言える。いかにもなビルドゥングスロマン的な物語の結末に三島由紀夫は落胆したらしいが、せめて小説の中にある「(作者の)個人的な体験≠小説における個人的な体験」においては希望を置いておきたかったのではと思う。

 

高慢と偏見〔新装版〕 (河出文庫)

高慢と偏見〔新装版〕 (河出文庫)

 

 ■15冊目 「高慢と偏見ジェイン・オースティン

 世界十大小説を読むプロジェクト。馴染みのない英国貴族の恋愛描写が現代においても非常に面白いのは、普遍的な人間の機微を巧みに描き出しているからだろう。意地汚い身内に対して羞恥と蔑み。理知も無く空気も読めない男でも莫大な遺産相続人だからという理由で結婚する親友に対する容赦ない描写。ユーモラスでありそれでいて正確な人物描写が、物語の肝となる「なぜダーシーはエリザベスを愛することができないのか」に結びついていくのは、ただひたすらに脱帽。今のところ世界十大小説は「ボヴァリー夫人」を除いて全て面白いです。

 

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

 

 ■16冊目 「ノルウェイの森 上」村上春樹

ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

 

 ■17冊目 「ノルウェイの森 下」村上春樹

 何度目か分からない再読。「ノルウェイの森」は村上春樹の小説ではほとんど唯一のリアリズム小説であり、幻想的なモチーフや超常現象は起こらず、現実的な感情や死という現象を取り扱っている。しかしそれでいてこの小説世界は現実ではなく村上春樹の世界としか言い様がないのは、小道具やモチーフに頼らずともその世界観に接続できる力があるからであり、ある意味では「騎士団長殺し」の対極に位置していると言えるかもしれない。

 

大いなる眠り (1959年) (創元推理文庫)

大いなる眠り (1959年) (創元推理文庫)

 

 ■18冊目 「大いなる眠り」レイモンド・チャンドラー

 推理小説のエポックメイキングとして。事件としては何だか大したことないというか行き当たりばったりですが、ただただフィリップ・マーロウがカッコいいということに尽きます。

 

天使 (文春文庫)

天使 (文春文庫)

 

 ■19冊目 「天使」佐藤亜紀

 やはり佐藤亜紀は読者に優しくない。物語の時間は大した説明もなくあちこちに飛び回り、主人公の持つ「能力」も具体的には説明されない。それでもこの小説から目を話すことが出来ないのは小説に満ち満ちている愉悦に拠っている。とはいえちょっとしんどかったです。

 

白鯨 上 (岩波文庫)

白鯨 上 (岩波文庫)

 

 ■20冊目 「白鯨 上」ハーマン・メルヴィル

白鯨 中 (岩波文庫)

白鯨 中 (岩波文庫)

 

 ■21冊目 「白鯨 中」ハーマン・メルヴィル

白鯨 下 (岩波文庫)

白鯨 下 (岩波文庫)

 

 ■22冊目 「白鯨 下」ハーマン・メルヴィル

衒学的というよりはごった煮という言葉の方が似つかわしいような、作者の知識があちらこちらへ飛び回る節操の無さが魅力的であり、躁的とも言えるような饒舌な語り口による鯨トリビアとモビーディックに対するエイハブ船長の執念を描く主旋律的な物語はどう見ても噛み合わなっていないのに、その噛み合わなさが何故か面白い。

 

人生論 (新潮文庫)

人生論 (新潮文庫)

 

 ■23冊目 「人生論」トルストイ

 結局同じことを何度も繰り返しているだけなので、冒頭だけ読めば良いです。老人の妄言ですね。

 

ゲームの王国 上

ゲームの王国 上

 

 ■24冊目 「ゲームの王国 上」小川哲

ゲームの王国 下

ゲームの王国 下

 

 ■25冊目 「ゲームの王国 下」小川哲

 上巻までは文句なしに面白い。クメール・ルージュの虐殺の歴史とマジック・リアリズムを巧みに織り上げる手腕は素晴らしく、まだ若い作者に嫉妬さえ感じてしまう。ただ下巻からのSF要素が、前半にて丁寧に描写したカンボジアの歴史と微妙にギアが合っていないように思えてしまい非常に残念だった。SFガジェットの骨子となっている学術的な描写が資料の引き写しに見えてしまったのが原因だろうか。とはいえ次作が非常に楽しみであり、今後目が離せない作者であることは間違いない。

 

宇宙からの帰還

宇宙からの帰還

 

 ■26冊目 「宇宙からの帰還」立花隆

 宇宙飛行に関する説明も細かく、何度も危機的状況に陥りながらも無事に帰還することができたアポロ13号のエピソードは手に汗握るような臨場感に満ちているが、それよりも何よりも、宇宙から帰還した宇宙飛行士を個人として捉え、彼らの内面的変化にスポットを当てた点が素晴らしい。地球を外側から見つめたことにより神的存在を自覚し宣教活動に打ち込むもの、月面歩行第一号者になれなかったオルドリンの人生。宇宙飛行士と言えば身体的・知能的にも非常に優れたエリートたちであるが、宇宙飛行の体験が人生に大きな影響を与えている。

 本書が非常に面白かったので、これからはノンフィクションも読んでいこうと思った次第です。

マーケットの魔術師 大損失編 ──スーパートレーダーたちはいかにして危機を脱したか

マーケットの魔術師 大損失編 ──スーパートレーダーたちはいかにして危機を脱したか

 

 ■27冊目 「マーケットの魔術師 大損失編」アート・コリンズ

趣旨が趣旨だからしょうがないんですが、大損失編と銘打っていますが結局はスーパートレーダーの話なんで大して損失していないというか、ダメージが少ないんですよね。多分僕は人生がめちゃくちゃになったトレーダーの話が知りたかったんだと、読み終えてから気付きました(遅い)。

 

春の雪―豊饒の海・第一巻 (新潮文庫)

春の雪―豊饒の海・第一巻 (新潮文庫)

 

 ■28冊目 「春の雪 豊饒の海第一巻」三島由紀夫

 三島由紀夫の大長編小説であり遺作でもある豊饒の海を読む。第一巻は華族の男女の恋愛を描く。三島由紀夫の作品にしては美への執拗なまでの希求が薄い気がするものの、その分物語性が強固になっており、情熱とは遠い場所にいたはずの主人公清顕が禁じられた恋へと堕ちていく運命を必然へと象っていくさまは恐ろしささえ感じるほど見事。それでいて後の巻へと読み進めると分かる伏線が散りばめられており、物語のダイナミズムも素晴らしい。何よりも、日本的なものを日本的な視線と描写で捉えているのに、もはや世界文学の域まで達していることに慄然とする。

 

旧約聖書入門―光と愛を求めて (光文社文庫)

旧約聖書入門―光と愛を求めて (光文社文庫)

 

 ■29冊目 「旧約聖書入門ー光と愛を求めて」三浦綾子 

新約聖書入門―心の糧を求める人へ (光文社文庫)

新約聖書入門―心の糧を求める人へ (光文社文庫)

 

 ■30冊目 「新約聖書入門ー心の糧を求める人へ」三浦綾子

キリスト教の基礎教養を得たくて読みました。キリスト教というよりはキリスト教信者の考え方、スタンスを学ぶことができたのは良かったです。ただ、教派も多いし、そのスタンスも違っているのでこの本から学んだことが全てではないはずなので、結論としては原典(聖書)を読まないと駄目ですね。

 

奔馬―豊饒の海・第二巻 (新潮文庫)

奔馬―豊饒の海・第二巻 (新潮文庫)

 

 ■31冊目 「奔馬 豊饒の海第二巻」三島由紀夫

 豊饒の海の第二巻。第一巻のおよそ20年後が描かれる。第一巻の登場人物が年相応に世間擦れしてしまっているのに対し、清顕の生まれ変わりである勲の清冽さが眩しい。味方だったはずの周囲の皆に裏切られてもその眩しさは変わらない。誰もが最善を尽くしたはずなのに勲が望む正義が果たされない必然へと追い詰められていくさまは、まるでブレイキング・バッドのようだと気付かされる。日本の近代文学でこんな感想を抱くなんて予想していなかった。

全く退屈することなく、この長編を読み通すことができそうで、来年も楽しみです。