惑星間不定期通信

小説を書いています。本や映画の感想やその他なども書きます。

いまさら自作について「硝子と眼球」

 

 

「硝子と眼球」について。

 

社会人生活が忙しかったせいもあるが、長いこと小説を書き上げることが出来なかった。全く書いていなかったわけではなく、ボツになった長編小説が2作ほどある。高校教師がロックスターを育てる話で、原稿用紙100枚くらい書いて面白くならなかったのでボツにした。長編を書き上げるためのモチベーションを保つことが出来なかったのは主人公に感情移入できなかったせいかもしれない。感情移入出来なくてもストーリーが面白いと確信していれば続けられたけれど、どうも面白く出来なかった。

これは良くないなと思い、否が応にも書き上げるために2年ぶりに文学フリマに申し込んだ。締め切りを決めてしまえば書くしかない。結局追い込まれないと成し遂げられない性分なのかもしれない(この性分は早急に直さないといけない)。ジャンルをミステリにしたのには、特に理由はない。

高校生の頃は講談社ノベルスを中心にミステリをよく読んでいた。好きだったのは森博嗣米澤穂信殊能将之連城三紀彦など。翻訳の古典ミステリも有名作には目を通した。だんだん読まなくなっていったのは、正直に言って小説としてのテクニックが上手くない作家が多すぎるからだ。謎解きばかりが重視されて文章レベルが低い作品が世に溢れすぎている。小説や文学としての面白さを求め始め、次第にSFや純文学に興味が移っていった。

 

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だから、ミステリを書くとなったときにパズル的な謎解き小説を書こうとは思っていなかった。だいたい、そんなものは書けそうにない。ちょうどその頃海外ドラマのハンニバルにハマっていた。ミステリというよりはサスペンスだと思うが、人の死因を調べるよりかは生きている人間の生命が脅かされる方が面白い。だから主人公が命を狙われたり、主人公に捜査の疑いが向けられるといったストーリー展開にしたいと思った。

長編にしてもう少し丁寧に描写すればもっと面白くなったと思うけれど、僕の技術が未熟だったので上手くいかなかった。そういう意味では、この作品は悔いが残ってしまっている。登場人物ももっと魅力的に描きたかった。やはり殺人鬼は魅力的でなければつまらない。

物語の着想としては、眼球を集める殺人鬼というイメージがまず生まれた。「なぜ眼球を集めるのか?」というのを考えながら書いていた。

うーん、ダメですね。ああすればよかった、とか、こうしたらもっと面白くなったのに、とかしか感想が出てこない。とはいえ、ストーリー展開的には今までにないものが描けたような気がしていて、スリリングさの演出に関しては次作の「こどもの国」に活かされていると思う。

表紙絵はかなりインパクトがあって、僕も気に入っています。文学フリマでも最初に手を取られるのはこの作品である傾向が強かったりする。絵に負けないくらいインパクトの強い小説を書けるように精進します。

 

いまさら自作について「紫陽花が散らない理由」

 

 

「紫陽花が散らない理由」について。

 

この小説は「恋愛小説を書く」というミッションのもとに生み出された。書き始める前に文学フリマの出展ジャンルを「恋愛」にして退路を断つ、ということまでしている。そもそも僕は恋愛小説を読まない。恋愛要素が含まれている場合はあっても、真っ向から恋愛を描いたような小説は読まないし、そういった映画や漫画も好んでいない。

世の中の恋愛フィクションは関係性の物語だと思う。特に女性作者の作品はそれが顕著だ。男性作家が書く恋愛は、結局のところ自分自身の事しか書かれないことが多い。たとえば新海誠村上春樹の作品を思い浮かべてほしい。「ノルウェイの森」は物語開始時点で相手は死んでいるし、関係性というよりは直子や緑を通した自分自身の物語が描かれる。もしかしたら男性には女心というものが本質的に理解できないからそうならざるを得ないのかもしれない。なんの根拠もない適当な憶測だけれど。

 

ともかく、興味もあまりないし恋愛というもの自体が何なのかよくわかっていない(結婚した今もよくわからない)のに、恋愛小説を書こうと思ったのは友人に勧められたからだ。

「お前が恋愛を描いたら、何か珍妙なものが出来上がるんじゃないか」

確かにそうかもしれない。そう思って書いてしまった。

とはいえ、やはり恋愛のことは何だかよくわからないので、主人公が相手のことを好きかどうかわからないという物語を書くことにした。主人公を女性にしたのは、どうせ何かよくわからないのならば、徹底的によくわかっていないものにしてしまえ、と思ったからだ。女性のことはわからないし、女性が男性を好きになるという感覚もよくわからないけれど、よくわからないほうが想像を膨らますことができるのではないか、と思った。よくわからないものを書こうとするとき、僕は主人公を女性にしがちである。

結果、最後まで「恋愛が何かわからない」「相手のことが好きなのかどうかわからない」というままで終わってしまった。まあでもそういう恋愛小説があってもいいのではないかと僕は思う。むしろもっと混迷とした小説にしてもよかったかもしれない。次に恋愛小説を書くとしたらそもそも相手を好きにならない恋愛小説を書きたい。そのほうが面白そうだ。事件が起こらないミステリ小説もあるのだから、恋愛が発生しない恋愛小説があってもいいはずだ。そのジャンルは森見登美彦が開拓しているけれど、他にあまりないような気がする。

 

この小説もタイトルから思いついた。会社の敷地に紫陽花が植えられていて、雨季が過ぎても散らずに残っていた。その姿は正直に言ってあまり美しいものではなかった。どうして紫陽花の花は散らないのだろう、と疑問に思い調べてみたら、中々面白い理由だった。そのときには特に小説の題材にしようとは思っていなかったけれど、恋愛小説を書こうと決めた後にふとそのことを思い出してタイトルにすることにした。

この小説は社会人になってから初めて書いた作品である。学生の頃は時間的に自由度が高かったので好きなときに集中して書き、気が乗らないときにはだらだらとしてしまうことが多かったけれど、社会人になってからは平日に帰宅した後だと1時間から2時間程度しか自由な時間が取れず、計画を立てて書く必要に迫られた。

結果的には、一日に決められたページ数を書き続けるスタイルは僕の性に合うようだ。村上春樹森博嗣も同じ執筆スタイルだと知ったのは後になってからだった。気分が乗ってきたときに一気に書き上げると物語をコンパクトにまとめがちになってしまうが、一定のペースで書くようになってからは作品世界をじっくり考えることができるので合計枚数が多くなった。

 

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今まで登場人物にキャラクター性をあまり持たせなかったけれど、この作品はあえて意識して人物性の肉付けを行っている。やはり恋愛小説を目指すからには人間同士が関係する必要があるだろうと考え、作者の自問自答では駄目だと思った。塔子も南も小松くんも千鶴も全員どこか普通ではない一面があるのは、ふつうの人は普通ではない何かを多少なりとも持っているはずだという考えに基づいている。仮に徹頭徹尾普通な人間がいるとしたらある意味それは普通ではないので、やはり「普通」なんてこの世に存在しないことになる。

たいてい自分の書いた小説は読み返しても楽しくないというか物語のすべてを把握しているので面白くないのだけれど、この作品は今読んでも面白いと思える。それは前述したキャラクター性のおかげかもしれない。

 

登場人物と同じく、舞台を実在する鎌倉の街にすることによってリアリティを出そうと思った。この小説を書く少し前に鎌倉に一人旅していたので、その記憶を頼りに書いている。

住んでいる名古屋を舞台にしなかったのは、街が想起させるイメージが乏しいと思ったからだ。たとえば新宿駅で主人公が電車を待つ、と描写したときに、東京に住んでいる人でなくても何となく思い浮かべるイメージがあると思う。それが名古屋の本山駅に移したら「どこそれ?」となってしまう。もちろん長編で丁寧に描写すれば十分に街のイメージを作り上げられるだろうけれど、それはもう架空の街をひとつ作り上げるのとあまり変わらない。

あとは紫陽花=鎌倉のイメージが強かったのも舞台として選定した理由である。そうやって街自体が何かのイメージと強固に結びついているとフィクションとしては非常に扱いやすくなる。名古屋で思い浮かべるのはせいぜい味噌とドラゴンズくらいだろう。そういった残念な(失礼)イメージを払拭するのはかなり難しい。

名古屋は文化的なイメージが無いし、これからもそんなイメージは生まれないのではと思う。名古屋を舞台にした美しいフィクションがあるとしたら、その作者は天才だろう。

いまさら自作について「わたしの庭の惑星」

「わたしの庭の惑星」について。

 

2012年、大学4年生の時に表題作を書いた。小説を書くときにはタイトルがまず最初に思いつくパターンと、漠然と頭の中にあった『書きたいこと』が凝り固まって物語を書き始めて最後にタイトルを決めるパターンがある。これは前者だった。

たぶん大学構内を歩いているときか、図書館か本屋をうろついているときか、風呂に入っているときか、自転車に乗っている時に思いついたと思う。なぜならそれ以外に思いつく機会がほとんどないからだ。おそらく大学図書館の前を歩いてるときだったような気がする。

タイトルが思い浮かんでから、しばらくその意味を考えていた。「わたしの庭の惑星」とは一体なんだろう? 庭にあるのに惑星というのは矛盾している。「手のひらの中の宇宙」みたいだ。最初は惑星という言葉に囚われて、本物の惑星をもとにハードなSFを考えてみたけれどしっくりこない。なにせ庭にあるのだから惑星ではないし、惑星そのものがあるのではなくて、たとえば庭にワームホールのようなものが開いて宇宙にワープできるというのも面白くない。

いっそ惑星でなければ良いのではないか、と思いついたときに一気に物語が広がった気がした。「わたし」が「惑星」と呼ぶ何かが「庭」にある物語。さらに言えば主人公は「わたし」でなくてもいいのではないか。こんなふうに最初の着想からあえて足を踏み外したときにアイデアが湧き出るということはよくある。

この短編集の表紙絵についてもそうだった。「わたしの庭の惑星」を短編集の表題作にしようというのは最初から決めていて、laicadogさんから頂いた表題作の絵を表紙にしようと最初は考えていた。だがどうもしっくりこず、「別に表紙を表題作の絵にする必要はないのでは」と思い至って「水彩の街」の絵を表紙にしたらぴたりと来た。(「水彩の街」のカラーイラストを用意してくれていたので、たぶんlaicadogさんは最初からこちらのほうが表紙に相応しいと考えていたんじゃないかと思う)

この小説はそれまで使っていたWindowsのノートパソコンではなくMacBookを使用して初めて書いた小説だけれど、とくに道具の差はなかったような気がする。

この小説は大学の図書館の中で書いた。それまでは自室でしか書いたことがなかった。家で書くのも外で書くのも変わらないだろう、と思われるかもしれないが単に集中できるかどうかの問題である。図書館やカフェみたいな公共の場で物書きする行為に対して「気取っている」と思う人もいるかもしれないけれど、その場所がその人にとって集中するのに適しているかどうかだ。あえて気取ることで退路を断たれて集中できるのかもしれない。

得体の知れない巨大な物体が空に浮かんでいる、というイメージが湧いてからは、それが現実の出来事だとしたらどうだろうかと考えながら過ごした。街を歩きながら、空の上に巨大な球体が浮かんでいる様子を想像した。震災のあと、凄惨な映像がニュースで流れ続けていたせいか、街を歩いても現実感がないような感覚が僕の中にしばらくあった。自分がいまここにあるという感覚が希薄になっていたのかもしれない。そういった現実感の喪失や、巨大なエネルギーに飲み込まれる恐怖みたいなものを主人公に抱かせようと思った。

最初は連作短編にして、いろいろな人が「惑星」に取り憑かれるというのを考えた。もしかしたら今からそうしてもいいのかもしれない(気が向いたらそうしようかと思う)。小さな「惑星人」たちが球体から湧き出てきて街を支配するというアイデアもあった。とにかくいろいろなアイデアがあったけれど、文学フリマ用の短編にしようと考えていたので、原稿用紙50枚程度にまとめるためにアイデアを削った。

僕の小説が一番おもしろいのは自分の頭の中にあるときだと思う。着想を得たとき「自分は天才だ」と思うけれど、実際に書き出してみると全然大したことのないものになってしまうことが多い。「わたしの庭の惑星」は頭の中にあったイメージがそれほど劣化せずに書くことができたと思う。そういった自負があるからこそ表題作にした。

 

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もうひとつ、表紙絵になっている「水彩の街」について。

この小説は「雨雫の手記」というタイトルの失敗作(と思っている)の長編小説を短編にリサイズしたものである。「プロの小説家になるには長編小説を書かなければいけない」という強迫観念のもとに大学二年生の頃に書いた初めての長編小説だった。合計200枚ほどなので中編小説と言ったほうが正しいかもしれない。長編小説を書く力量がなかったので、短編小説を寄せ集めたみたいな不自然なものになってしまった。現在は公開していないが、一冊だけ出版して自室の本棚に戒めのように置いてある。僕としてはかなり切実な思いがあり、半年くらいかけてずっと集中して書いていた。

当時の僕は精神的にとても追い込められていた。大学が馴染めなかったことや、学業についていけないこと、小説家になりたいと思いながらも何も出来ていないことに対する苛立ちがその原因だったと思う。ノイズ・ミュージックのように起伏のない凪いだ世界に生きていたいと考えた結果、感情を剥奪された少女の話を書くことにした。主要な登場人物は二人で、お互いに理解し合えるのは世界に二人だけしかいない、そんなように見えつつも結局は誰とも理解し合えないという限界を書きたかった。書けなかったけれど。

「私たちはお互いに手をつなぐことは出来ない」

この頃の僕のテーマを表すとこうなる。しかし、物語に回答が出せず、登場人物を殺してしまった。結局のところ当時の僕には原稿用紙30枚ほどの短編をまとめるくらいの力量しかなかったので、冒頭の30枚はよく書けたけれど、残りはまとまらないものになってしまった。半年間ずっと同じ人物たちに付き合っていたので愛着のようなものがあり、最後には殺してしまったという申し訳無さもあって、短編にリサイズした。二人が幸福だった(ように錯覚していた)ところで物語を終わらせることで、彼女たちを閉じ込めた。この表紙の絵はそんな「切り取られた二人」が水槽の中を歩いている様子が描かれているようでとても気に入っています。

第六回文学フリマ大阪に出展します

開催日 2018年9月9日(日)
開催時間 11:00~17:00
会場 OMMビル 2F B・Cホール (大阪府大阪市)
ブース J-34

 

初の文学フリマ大阪参加になります。そして今回ジャンルは「詩歌」になります。なにもかもが初めてづくしです。既刊のほか、以下の本を初出展する予定です。

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…えー、こんな本を出すにあたってはいろいろと思うことがあるんですが、長い間小説をずっと書き続けてきて、もう少し活動を広げていきたいという気持ちが強くなり、このような「ふざけた」本を出すことにしました。

以前にも書きましたが、元々詩を書くのは好きじゃなくてむしろ苦手だったのですが、音楽活動を通じて歌詞を書くようになって、結構内外から良い評価を頂くことが多くこのたび思い切って本にしました。タイトルからしてどうかと思うような本ですが、これをきっかけに僕という人間に興味を持っていただければ小説も読んでもらえるのではないかと。ギャップがありすぎて受け入れられないかもしれません。いま一番恐れているのはそれです。

もしかしたら幻滅される人もいるかもしれませんが、僕はただ僕の本を読んでもらいたいだけで、いよいよ手段を選ばなくなってきたということです。

僕という人間は多面性が強くて、小説も好きだし音楽も好きだし、ふざけた文学も真面目な文学も好きですし、お笑いも映画も好きだし、根は理系で本業はシステムエンジニアだし(これは本意ではないですが)、もっと活動も多面的にしていければなと思います。

はじめての大阪文学フリマ、楽しみにしています。では。

 

「こどもの国」試し読み

 週末になるとお父さんの運転する車に乗って私はその場所へ連れて行かれる。朝の早い時間に出発し、革のシートに身を沈めてまどろみながら到着を待つ。住んでいる家から遠く離れ、いくつかの交差点とトンネルと森を抜けた先にこどもの国はある。

 こどもの国。

 私たちはその場所をそう呼んだ。私たちという言葉にお父さんは含まれない。私たちとはこどもの国にいる子どもたちのことであり大人たちは含んでいない。敷地と外部を隔てる門には長々しい名前が書かれているけれど私たちはその名前を使わない。ここはこどもの国であり私たちの国だ。

 お父さんの車は嫌いだ。

 どんな車の匂いも好きではないけれどお父さんの車に満ちている匂いは特に嫌いだ。消臭剤のラベンダーの匂い。後ろめたい何かを上書きするための匂い。


 お父さんが私をこどもの国へ送った後、知らない女の人に会いに行っていることを私は知っている。こどもの国から帰るとき、朝よりもラベンダーの匂いがきつくなっている。お父さんはそれで隠し通せていると思い込んでいる。お父さんは私が気付いていることに気付いていない。そのことについてお父さんに何か言うつもりはないし、なぜならそれはお父さんの人生だからだ。もちろんお父さんの人生には娘である私も含まれているのだろうけれど、それはかつての話であり今の時点においては含まれていないのではないかと思う。お父さんにとって、私という存在は週末に送り迎えする荷物でしかない。A地点からB地点に移動する点Pと同じだ。もちろん、お父さんはそんな風に考えながらアクセルを踏んでいるわけじゃないんだろうけれど。

 私の人生にお父さんは含まれているけれど、お父さんの人生に私は含まれない。こういう状態を論理学的になんて表現するんだっけ。

 こどもの国で習ったような気がするけれど、忘れてしまった。

 

 そんなとりとめのないことを考えているうちにこどもの国に着いた。
 車のドアを開けてこどもの国に降り立つと、森の腐葉土の匂いと焼却炉の煙っぽい匂いがして、ほっとした気持ちになる。森の地面を歩くと、降り積もった落ち葉によってまるでクッションのようにふかふかとした感触がする。この場所は私には自分の家よりも『帰るべき場所』のように思える。

 こどもの国では私と同じくらいの年の子どもたちがたくさんいる。たくさんと言っても学校よりは多くない。学校とは違って子どもたちは減ったり増えたりするけれど、全体の数は変わらない。定期的に行われるテストで低い点数しか取れないとこの場所から追い出される。しばらくすると新しい子どもたちが入ってくる。
 私たちはみんな新しくやってきた子とすぐに仲良くなれるし、誰かがいなくなったりしても悲しくならないようになっている。これはただの技術だ。慣れと言った方が正しいかもしれない。

「おはよう、愛ちゃん」
 いつものように私の到着を聖子先生が出迎えてくれた。
 聖子先生。
 聖なる子どもの先生。
 聖なるもの。清らかで尊いもの。汚れのないもの。
 聖子先生は好きではない。何故なのかはよくわからない。

「それはね、きっとアイがセイコ先生の世界に含まれていないからだよ」
 ヨシト君は私にそう言った。秋山善人君。善き行いをする人。行いの正しい人。
「セイコ先生の世界の全ての子どもたちは良い子どもたちで、良い子どもたちを良い人間に育てることがセイコ先生の人生の目的なんだ。だから、僕らみたいな子どもたちはセイコ先生の世界では存在してはいけないし、存在しているということを知られてはいけないんだ」

 名は体を表すという言葉を知ったのは学校だったかこどもの国でだったか、それとも何かの本で読んだのか忘れたけれど、人の名前というのは親からの願いが込められているらしい。自分の名前の由来を聞いてみましょうという宿題が出た。私の名前は聞くまでもなかった。

 私の名前は笠原愛。愛は、愛だ。それ以外の意味はない。

 愛は嫌いだ。

 愛というものが何なのかはよくわからない。愛。いとおしいと思う気持ち。いつくしみ恵むこと。私の家には愛はない。昔はあったのかもしれないけれど今はない。お父さんはお母さんを愛していないし、お母さんはお父さんを愛していない。そして、お父さんもお母さんも私を愛していない。喧嘩ばかりしているわけじゃない。むしろ何もない。おそらくお互いを空気と同じくらいにしか思っていないのだろう。

 きっと、私の家には愛がないから、私の名前が愛になったのだと思う。
 愛の代わりに私が生まれたのだ。

 

 自分の名前が嫌いだとヨシト君に伝えたら、僕もそうだと彼は言った。
「僕の母親はもう死んでいるんだ。正確に言うと殺された。誰に殺されたか分かるかい?」
 分からない、と私は首を振った。
「僕の母は法に殺されたんだ。母は死刑囚だった。生まれつき心が弱かったんだろうね、大学生の頃に精神を病んで、聴こえないはずの声が聴こえるようになったらしい。その声に従って無差別テロを起こした。休日のショッピングモールで劇薬をばら撒いた結果、4人が死に十数人が重体になった。母は当時大学院の学生だったから、そういう劇物を簡単に手に入れることができた。死刑は当然の判決だった」

 その事件のことは知っていた。全国でも大きなニュースになったらしいけれど、私の生まれる少し前のことの出来事だから実際にどれほど騒がれたのかは知らない。

「僕の父と母は刑務所の中で出会った。僕の父親は刑務官だった。母の担当になって次第に惹かれ合ったらしい。やがて獄中で僕を出産し、それからすぐに死刑が執行された。母の処刑後、間もなく父も自殺した。残されたのは僕だけってわけさ。だから僕は自分の両親のことは一切覚えていない。祖父母の家に預けられて、両親と同じ轍を踏まないように善人と名付けられた」

 そんな名前を好きになれるわけないだろ、とヨシト君は笑う。

「僕の父親は刑務官という職業に就いていたけれど、それは犯罪を憎んでいたからではなくて、犯罪者に憧れていたからじゃないかと思う」
「どうしてそう思うの?」私は尋ねた。
「僕がそうだからさ。遺伝なのかもしれない」
 ヨシト君はなんともなさそうに言う。
 悪に憧れる気持ち。それは私にも分かるような気がした。
「僕たちは両親に足りないものを背負わされて生まれてきたんだろうね」
 ヨシト君は私がこどもの国に入る前からここにいる。長くいればいるほど定期テストの難易度は上がっていく。たくさんの子どもたちが入っては追い出され、昔から残っているのは私たちしかいない。

 とにかく、私にとってヨシト君は他の子どもたちとは違っていた。私たちはお互いに『同盟』を組むことにした。人の名前を呼ぶときはカタカナを使うというのが同盟のルールだ。声に出すときはそんなの分からないけれど、それでも意識を変えることで言葉の意味から逃れられるような気がした。私は愛ではなくアイで、ヨシト君は善人ではない。

 私たちは森で拾った金属の薄い板にカタカナの名前を刻み、ペンダントのように首から下げた。戦場に行く兵士たちが戦死した際に名前が分かるように識別票を身に着けると何かの本で読んだ。それの真似だ。死ぬときは愛ではなくアイとして死にたい。
 自分の名前が好きじゃないだけでなく、決定的に私たちは他の子たちとは異なっている。みんなそれぞれの性格はあるけれど、だいたいみんなお行儀良く親や先生たちの言うことによく従った。要するに良い子なのだ。私たちは違う。
 こどもの国の本当の名前は別にある。

『よいこともりのくに』

 よいこともりのくに。良い子と森の国。良い子と守の国。良い事守の国。良い子どもたちが棲む森の国。良い子たちを守る国。そしてそれが世界の『善いこと』を守っていく。
 知能指数が高い子どもたちを集め、自然に囲まれた空間の中で先進的な教育を施し未来の礎となるエリートを育てるのがこの施設の目的だ。私たちは同年代の子どもたちより十年先の教育プログラムを受けている。ただ頭が良くて勉強ができるというだけでなく、集団生活によって社会性を高め、森の中で自然への理解を深める。
 良い子どもたちを育み、良い子どもたちは良い人間となり、この国を良いものへと導いていく。この場所はそんな信念に満ち満ちている。ここにいる大人たちは自分たちが良い子どもを育てているのだと疑わないし、子どもたちも自分が良い人間になろうとしていることを疑わない。

 でも本当にそうだろうか?

 知能が高く、社会性があり、環境を大切にすることが本当に良い人間の必要条件なのだろうか? そうやって疑うこと自体がすでに良い子ではない証拠なのではないだろうか?

 たとえば空に巨大な物体が浮かんでいるとする。それはとても巨大な黒い球体であり、空に穿たれた深い穴のように中を見通すことができない。その物体の名は『悪』であり、巨大な質量による引力は私を常に引きつけている。逃れがたいその作用はいつだって影のように私に纏わりついていた。私にとっての悪とはそのようなものだった。

 

 私たちはこの国にいる唯一のわるい子どもだった。

 

 

 ……続きは文学フリマ頒布予定の「こどもの国」にて。

「こどもの国」

第26回文学フリマ東京で頒布予定の「こどもの国」を制作中ですが、表紙を公開します。イラストはlaicadog様に描いていただきました。小説の雰囲気とマッチした、これまでとは違ったタッチの素敵な表紙になりました。

 

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ブースも決定しました。2階は初めてかもしれません。カテゴリは恋愛ですが、恋愛要素は多分無いです。男の子と女の子はいちおう出てきますが。

 

ブース位置 : エ-03 (Fホール(2F))

カテゴリ : 小説|恋愛

 

のちほど試し読みを公開しますので、続きが気になった方はぜひ。お待ちしております。

 

小説を書くことについて

文学フリマに出す小説を書き終えました。まだこれから書き直しを行いますが。もしかしたらこの書き直しの作業が一番楽しく、そして作品の質を大きく左右するものかもしれません。今回の小説はとても手応えがあり、良いものが書けたのではないかと思っています。前にも書きましたが、だいたいいつもそう思っています。そしてこれもいつものように脳裏によぎることですが、前よりも良いものが書けたという思うときは、前作を読んでつまらない気持ちになってしまっていた人は読んでくれないのかなと考えてつらくなったり、前作も同じくらい上手く書けていればよかったのにと後悔することもあります。

 

――――以下は小説を書き終えた個人的な打ち上げとして日本酒をしこたま(死語)飲んだ勢いで書いた、とても個人的な文章です。ひとが読んでもあまり面白くないかもしれません。というのは、他人が読んで面白いと思うレベルの内容を担保しないという意味です。

 

そもそも僕は小説を書くときにあまり他人に楽しんでもらおうと思って書いていないな、とふと気付きました。言い換えると誰かのために書いたことがありません。いつも僕は自分自身が面白いと思えるものしか書きません。だから書いているときは心底楽しいし、書き上げた瞬間その作品は世界で一番面白い作品(のひとつ)になります。でも僕と言っても『そのときの僕』でしかなく、時間をおいて読み返してみると「なんでこんなものを書いたんだろう」と頭をひねることがあります。また、単に技術的に未熟だったために書きたかったことが充分に果たせていないこともあります。

なんにせよ、世の中でどんな小説が流行っているのかだとか、どんなものを書けばウケるのかとか、全く考えていません。商業作家ではこうはいきません。芸術としての純文学を除けば、エンターテイメントとして読者を楽しませる必要があります。

とはいえ、僕は自分自身の趣向はそれほど一般の感覚からはずれていないのではないかと思っているので(それが大きな思い違いだという可能性は小さくありませんが)、僕が面白いと思うものは他の人もそれなりに面白いのではないかと思っているのですがどうでしょう。僕はそれなりにメジャー作家が好きだし(ただし現代のメジャー作家ではないことが多いですが)、彼らの良いところをなるべく吸収するようにしています。だから僕の小説は村上春樹的な部分があったり夏目漱石的な部分があったりドストエフスキーサリンジャー佐藤亜紀円城塔伊藤計劃森博嗣太宰治秋山瑞人穂村弘などその他もろもろ数え切れない要素があると思います。

オリジナリティというのは先人の技術のミクスチャーあるいは発展であり、誰も見たことがない「個性」なんて存在せず、存在したとしても大したものではないと考えています。それは物理学や数学において突如新しい法則が生まれるようなことはなく、すべては先人が積み上げてきた学問に立脚しているのと同じではないでしょうか。

ええと、こんな話をしたかったわけではなくて。

とにかく僕にとって小説を書くという理由は何よりも僕が楽しいから書いています。高校二年生の頃に小説を書き始めたときからそれは同じです。高校生の頃の僕は今にして思うとちょっと異常で、授業もろくに聞かず四六時中本を読んでいるか文章を書いてるか、そのどちらでもなければ脳内で文章を組み立てていました。おかげで学業の成績はひどく落ちました。

大学の頃になるとただ楽しいからではなく技術的に上達するために努力するようになり、また同時期に精神を病み始めたこともあって、書くという行為が自己治療の意味を帯びはじめました。

箱庭療法という心理療法があります。文字通り箱の中に砂や玩具を置き自己表現することによって治療を行う手法です。小説を書くということはそれに似ています。識閾下まで潜り込み自己表現をすること。無意識下のレベルまで深化させ、そして物語をシミュレートするということは、自分の苦しみの根源は何なのかを把握する上で役に立ったのではないかと思います。もしも小説を書いていなければ僕はもっと混乱し現在のようなかたちを保てなかったのではないかと思うのは過言でしょうか。その行為を文字通りの自慰行為としてマスターベーションとみなしてしまえば、僕の小説を他人に読ませる意味なんてないのですが。

他人に読ませる意味。上記を踏まえるとその意味がわからなくなるかもしれません。自分自身のために書いているのであれば他人に読んでもらう必要なんてないのだから。おそらくその理由は、誰かに自分を認めてほしいという承認欲求と、僕が面白いと思うものをみんなにも面白がってほしいと思う紹介のような気持ちによるものなのかもしれません。

 こんなことを書くととんでもなく馬鹿で身の程知らずの自意識過剰かと思われるかもしれませんが、病気で知力が低下する前の僕は同年代としては日本で一番(小説としての)文章がうまい人間だと思っていました(病気によるものなのかそれとも治療に用いた抗うつ剤のせいなのかわかりませんが、記憶力と思考力と情報処理能力は二十歳前後に比べると半分くらいになりました)。

こと小説としての文章力で言えば現代作家で言えば村上春樹の次くらいにレベルが高いと本気で思っていました。そりゃ佐藤亜紀伊藤計劃円城塔秋山瑞人に比べたら僕なんてミジンコかもしれないけれど、ある種の技術力においては負けてないんじゃなかろーか、なんて思っていました。

たとえば以下の一節。


 寒さに目が醒め、車窓の外を見遣ると雪が積もっていた。同室者に訊けば道程は半ばも大分過ぎたという。同室者は擦り切れた服装をした初老の男で、枕元の灯りの件を詫びると気にしなくても良いと言い、冷えるからこれを飲むと良いと私に酒を差し出してきた。それを口にしてようやく人心地が付いた気がした。
 何をしに北国へ行くのか、と男は訛りのきつい口調で訊ねた。嫌なことがあって逃げ出してきたと正直に答えると男は呵呵と笑い、そんなような顔をしていると言った。漂白の旅にはちょうど好い、極寒の冬の風に吹かれればそこらの悩みにかかずらう余裕も無いだろう。私は力無く笑い返し、差し出されるがままに酒をかっくらって再び眠った。目覚めたときには終着駅で、男の姿は既に無かった。 

 たぶんここを読んだ人は特に何も感じないと思うのですが、僕としては自分の文章の中で一番上手く書けたのではないかと思っています。綺麗な表現や詩的センス云々ではなく、このような描写をこのように書くことができている小説はなかなか見たことがない(僕としてはこの部分は佐藤亜紀の「ミノタウロス」を意識して書きました)。

たぶん読んでる人は何言ってんだこいつとか、上記の引用文のどこが優れているのかちっともわからないと思うかもしれませんが、ようするに僕の中の面白いとかよく書けたとか、基準はこんな感じです。楽器の音作りに異常なまでにこだわるミュージシャンと似たようなものかもしれません。小説を書くことについて、何が良い文章で何を目指しているのか、もうすこしテクニカルな話はいつかきちんと解説したいと思います。

なんか一方的に書きたいことを書いたら、結局着地点がわからなくなって、しかも自分が自意識過剰の思い上がり野郎だと思われかれないようなことになってしまいましたが、とにかく今回書けた小説はよいと思います。

たぶん、きっと、おもしろい。すくなくともぼくにとっては。