惑星間不定期通信

小説を書いています。本や映画の感想やその他なども書きます。

2017年に見た映画の感想

2018年も既に2月も半ばに達しようとしているのに今更2017年の話かよ、と思われるかもしれませんが僕もそう思います。2017年は本を読むより映画を見ていた一年でした。とはいえもう少し本を読むべきだし、映画を見るべきですね。幸いにして映画の感想は一本ずつ書き残していたので、それを貼り付けていきます。ちなみに僕は映画に関しては特にこだわりはなく面白そうだなと思ったものを見ています。基本的にはアート系作品は理解できるほどの知識がないので、脳みそ空っぽなハリウッド映画が好きです。

 

 

 

この世界の片隅に
 

 1作目「この世界の片隅に

ミリオン座に行くのなんて何年ぶりだろうか。戦争を悲劇として描く作品はたくさんあるし、エンタメとして描く作品もあるけれど、これは市井の人々の日常をただただ細やかに写し取っていて、身内の死や街の焼損や身体の欠損など辛い現実はそこにあるのだけれど、辛くて悲しいことを語っているわけではなく、それでも世界に満ち満ちているうつくしさやあなたとわたしの生きていく意味に心がいっぱいになる。

 

 

 2作目「レ・ミゼラブル

再視聴。映画館で観た時は3回くらい泣きそうになったが、家で見るとこんなにあっさりしてたっけという印象。歌の良さで忘れそうになるけれどかなり展開が急で、家でぼんやり見てたりすると勢いについて行けなくなりそうになる。

 

 3作目「エクス・マキナ

密室サスペンスとして面白い。「不気味の谷」をサスペンスな感覚に転用する手腕も良い。だが人工知能と人とのあり方を描いているかどうかは保留したい。「いずれ人工知能は人間と区別できなくなり、人間よりも優れているから、いずれ人間はモノのように扱われて捨てられるかもしれない。怖いね」みたいな教訓しか得られないとしたら、これからの未来技術を考える上では大した収穫にはならない。

 

 

 

 4作目「ゼロ・グラビティ

エクス・マキナ」が低予算で近未来世界を上手く描いたとすれば、これは潤沢な資金で贅沢な宇宙を描いており、眼福と言うべきだろう。でもきっと近い未来にはこの映画の映像もショボく見えるのかなと思うと辛いところではある。間違いなく映画館で観るべきだった作品。よくもまあこんなにハラハラさせる展開にできるなと感心。ハリウッドの脚本・演出技術にまんまと感情が踊らされる。

 

 

キングスマン(字幕版)
 

 5作目「キングスマン

 スタイリッシュかつ悪趣味で笑った。ダニエル・クレイグが必死になって(必死になったのは製作者側だけど)払拭した007のトンデモイメージを嘲笑わらうかのようにトンデモ方向に振り切って気持ちがいい。腹抱えて笑いました。

 

 

  6作目「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い

こういう映画ほんと好きじゃないです。

 

 

 7作目「6才のボクが、大人になるまで。

オチも何もないんだけど、人生は映画になってしまうということ。非常に良いんだけれどラストは蛇足では。

 

8作目「モンスターズ・ユニバーシティ

ディズニー映画ってたびたび大学のフラタニティ文化が舞台になったりするけれど、アメリカのティーンエイジャーには嬉しいんですかね。過去の話だから登場人物たちが最終的にどうなるのかはわかってはいるのだけれど、登場人物の性格を前作とはだいぶ変えてきたことにより、その性格が最終的にどこに行き着くのかがわかっている安心感と、どうやって性格が変わっていくのかという謎解きが物語を上手く牽引している。ここらへんの手腕がほんとうまいですよね。

 

 9作目「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン

事実は小説より奇なりと言いますが、原作は果たしてどこまでが本当でどこまでがほら話なのか、何しろ稀代の嘘つきの話だから分からないんですよね。トムハンクスとディカプリオの追いかけっこというのは、もうそれだけで楽しい。

 

 

10作目「イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密

実在の科学者を題材にした作品なら「博士と彼女のセオリー」のほうが良かった。いまいちチューリングの凄さが伝わってこない。

 

 

マネーボール (字幕版)
 

 11作目「マネーボール

ジョナ・ヒルの存在が気になり始めた。

 

ドライヴ

ドライヴ

 

  12作目「ドライヴ」

つまり、ハリウッド版キタノ映画って感じですね。

 

 

バクマン。

バクマン。

 

13作目「バクマン。

とにかく亜豆がコレジャナイ感ハンパないし、恋愛シーンは恥ずかしくて観てられない。それ以外はまあ漫画原作の邦画の中では頑張ってる方なのでは。山田孝之のおかげか。

 

南極料理人

南極料理人

 

 14作目「南極料理人

おっさんたちがラーメンを食うためにケンカしたり、堺雅人ハンバーガー食ってうめえって呟いたりする映画。
こんな映画、決してハリウッドでは作れない。僕が邦画に求めている全てがこの映画につまっている。こういう邦画を作り続けてほしい。

 

エイリアン (吹替版)

エイリアン (吹替版)

 

 15作目「エイリアン」

 クローズドな空間でのサバイバルが巧みに描かれている。しかし、ちっこいエイリアンがシュタタタタと走っていくのは少し笑った。子供の頃は怖くて見れなかったんだけどなあ。

 

 

エイリアン2(字幕版)

エイリアン2(字幕版)

 

 16作目「エイリアン2

前作のサスペンス感はどこへやら、脳筋ハリウッド映画と化したけど面白いもんは面白い。シュワルツネッガーが飛び出してきてエイリアン共を蹴散らしていたら完璧だったな。

 

レザボア・ドッグス [Blu-ray]

レザボア・ドッグス [Blu-ray]

 

  17作目「レザボア・ドッグス

タランティーノの下ネタ全開なファミレスの冒頭シーンしか記憶にない。 

 

マイ・ボディガード 通常版 [DVD]

マイ・ボディガード 通常版 [DVD]

 

   18作目「マイ・ボディガード

少女とボディガードが心打ち解けていく前半はほどよく不穏さを孕んでいるが、逆に後半の復讐パートは単調な暴力の連続になり緊張が弛緩してしまっている。頻繁に凝った演出映像が挿入されるが、心理描写としてはさほど効果的でもなく。役者や題材は光るものがあるのに、プロットにもう少し意外性が欲しかった。

 

オーシャンズ11 (吹替版)
 

 19作目「オーシャンズ11

たぶん昔見たけれどまるで覚えていないので見る。人が死なない、傷付かないのに、最初から最後まで飽きさせない作りは地味に超絶技巧。オチも痛快。ジョージクルーニーはムショ上がりでもセレブ感を隠せてないけどそれもグッド。

 

    20作目「ミッドナイト・ラン」

新作に限らないのであれば、今年のベスト。ドタバタで味方も敵もアホなんだけど、とにかく痛快で笑える。デニーロのワルになりきれない元警官の役がハマっている。

 

 

  21作目「バグダッド・カフェ

良い映画だが期待し過ぎた。前情報なしでミニシアターなんかで観たら印象に残るかな。

 

   22作目「オーロラの彼方へ

時間改変モノとしてはお手本みたいな脚本だけど、伏線が見え過ぎていて意外性はない。歴史改変としての痛快さもそれほどないし…、SFとしての整合性も無理矢理感がある。佳作ではあるが傑作ではない。

 

スピード (字幕版)

スピード (字幕版)

 

23作目「スピード」

とにかく息もつかせぬという言葉に尽きる傑作アクション。次から次へと襲い掛かるピンチを若きキアヌがどう乗り切るか!?で始まりからラストまで(本当にそれだけで)突っ走る。サンドラブロックは20年前の映画なのにゼログラビティとそんなに変わらないのもすごい。

 

 

ウォーリー (吹替版)

ウォーリー (吹替版)

 

24作目「ウォーリー」

これ結構怖い映画ですよね。ピクサーアニメでデフォルメされてるけど、イモムシみたいな新人類はリアルに描いたらかなり怖いんじゃないか。エンディングで人類の未来を描いてるけど、あれがなかったら地獄絵図しか想像できない。

 

 

聖の青春

聖の青春

 

 25作目「聖の青春」

やっぱり映画で将棋棋士たちの気迫と覚悟に満ちた人生を描くのって難しいですよ。マツケンも東出も名演だけど、どうしてもモノマネ芸としての方面に目が向いてしまう。

 

007 スペクター (字幕版)
 

  26作目「007 スペクター」

 一応ダニエル・クレイグによるボンドは最終作になるが、色々な意味で原点回帰というか、過去のボンドシリーズへのオマージュとリスペクトが感じられ、ストーリーとしてもなんだかよくわからないことになっていた過去2作に比べればスッキリしていたと思う。とは言え途中でやっぱりよくわからんことになりかけたが。ボンドの幼少期にあんまし興味がない人間にとっては、そもそもタイトルである「スペクター」に対する関心もあまり持てない。とにかく英国ブランドに身を包みスタイリッシュなのに体を張って頑張るダニエル・クレイグを見てニヤニヤすることが出来たので満足です。

 

 

 27作目「ペーパー・ムーン

ほんとうの天才少女子役は写すだけで名作になる。タクシードライバー、レオン、ニキータ、そして本作。

 

 

  28作目「傷物語Ⅰ 鉄血篇」

ただただ演出がくどい。TVシリーズは短い尺だから耐えられていたのだなと再認識。
真綾さんの演技が素晴らしいのが救い。それが無かったら観ていられなかった。そもそもあの薄い原作を三部作にしなくてもいいだろと。

 

 

   29作目「ハドソン川の奇跡

今作やアメリカンスナイパーに共通するのは、アメリカの国民的ヒーローとなった人間を細部まで描き切り、その超人的な功績が、単に超人的な能力によるものではなくて、高度に訓練された人間が職責を果たしたことによる功績にすぎないことを示していることだ。要するにヒーローはただの一般人だということを語っているのだけれど、それは決してヒロイズムの否定ではなくて、一般人が国民的ヒーローになれるということを逆説的に描いている。

 

 

ある天文学者の恋文 [DVD]

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  30作目「ある天文学者の恋文」

めんどくせえカップルだな、おい。もしこれが映画ではなく小説だとしたら心に残る一作になったかもしれない。映像にすると無理な設定が多々あり、教授のエスパーじみた封筒攻撃やら博士課程のくせに勉強する素振りが一ミリもない主人公やら(博士課程のくせにバイトばかりして学会も出ないし卒業論文しか書いてないし…)、細かい部分が気になってしょうがない。
とにかくこのカップルに感情移入できず、ワガママでモラルのない(図書館や観劇中くらいマナーモードにしろっ!)主人公に段々腹が立ってきて、彼女が泣いたり怒ったりする様を冷ややかに見るようになってしまった。
この監督の作品はどれも映像と音楽は素晴らしいけど、とにかくストーリーに無理がありすぎるきらいがある。「鑑定士と顔のない依頼人」に続いてジジイが若いオンナに夢中になる話だし…。なんだかなあ。

 

 

  31作目「帰ってきたヒトラー

傑作。ザヴァツキくんの最期は「世にも奇妙な物語」チックでやり過ぎ感があったが…。

先進各国のグローバリズムに限界が見えて、右傾化へと反発していく昨今、この映画は2年ばかり時代を先取りしていると言える。ヒトラーただ一人が残虐な異常者だったわけではなく、少なからず民意を反映していたのだということを再認識するには、ちょうどいい映画だと思う。

そこかしこに散りばめられたヒトラー映画のパロディには笑った。

 

 

PK ピーケイ [DVD]

PK ピーケイ [DVD]

 

   32作目「PK」

「きっとうまくいく」はとても好きだが、これはイマイチ。説教くさいというか、インドの人ならあるあるな風刺がちょっとうるさい。序盤に張られた伏線も見え見えだし…

 

 33作目「ボーダーライン」

正確無比な暴力描写。
綺麗事が通用しない世界での正義とは何か。緊張感が弛まず最期まで続いていく奇跡のような映画。

そして主人公のエミリーは「プラダを着た悪魔」のあのエミリーなのね。頭空っぽのギャルだったのにシリアスなFBIを演じきるなんて…流石ハリウッド女優。

 

 

ダンケルク(字幕版)

ダンケルク(字幕版)

 

 34作目「ダンケルク

 IMAX初体験。冒頭の銃撃シーンで身を竦めてしまうほどのリアルさ。どこを切り取ってもひとつの絵になる、偏執的なまでのカットの美しさ。これは監督の腕なのかカメラマンの腕なのかわからないけれど…。この映像技術で描かれる空戦は必見といっても良い。密閉空間が水没していくのはリアリティがありすぎて閉所恐怖症の人は見られないのではないか(とはいえ3回くらいその演出が繰り返されるが)。

ただ、あえてケチをつけるなら、戦争映画を観ているというよりは優れたアクションエンタメを観ているような気分になったことか(「スピード」に近い印象を受けたが、やはり影響を受けているそう)。敵軍の姿が一切見えない演出が、戦争映画というよりは巨大災害と戦っているかのような気分にさせる。とはいえ一兵士たちにとってはそれこそがリアルなのかもしれないけれど。

 

  35作目「スター・ウォーズ エピソード4 新たなる希望」

昔からスター・ウォーズは全然好きじゃなくて見てなかったんですが世間に乗っかって見てみました。ノーテンキな宇宙戦争だなと思いました、以上。

 

 

ちなみに、今年はまだ一本も映画を見ていません。

2017年に読んだ本の感想

年末なので今年読んだ本の感想でも書こうと思い立ったのですが、驚くほど内容を覚えていなくて愕然としました。今年は忙しく体感的には3ヶ月ぐらいで終わったような気がするのですが、30冊程度しか読めていないしその冊数ですら覚えていないということが自分の記憶力の低下を如実に語っているようでつらいです。

読んだ本の記憶が曖昧ですが、だからといっってつまらなかったわけではなく、むしろ今まで読まなかったジャンルの本にも触れることができたので刺激的だったはずなのですが、「刺激的だった」という情報だけが手元に残っている状態に途方に暮れています。記憶の引き出しをひっくり返してなんとか感想を書いていきます。

 

アンナ・カレーニナ〈中〉 (新潮文庫)

アンナ・カレーニナ〈中〉 (新潮文庫)

 

 ■1冊目 「アンナ・カレーニナ 中」トルストイ

アンナ・カレーニナ〈下〉 (新潮文庫)

アンナ・カレーニナ〈下〉 (新潮文庫)

 

 ■2冊目 「アンナ・カレーニナ 下」トルストイ

 去年から跨いでアンナ・カレーニナを読む。実はトルストイはまともに読んだことがなく、ちょっと齧って「あまり好みではないな」と思っていたのですが、そこでいてこのアンナ・カレーニナは物語としては面白いと思ったけれど、トルストイの筆致はやはりあまり好みではないなという結論に至りました。トルストイ写実主義的な描写はあまりにも精緻過ぎて読者の想像の余地を許さないというか、あまりにも説明しすぎてしまっている。同じロシア文学写実主義でもドストエフスキーは人間の極限を描きだしているけれど、トルストイが登場人物たちを追い込む先はキリスト教人道主義の袋小路であり、現代の日本人である僕にとってはやはりピンとこないです。あるいはロシア正教的な価値観をきちんと理解できたら面白いのかもしれない。

 

仮面の告白 (新潮文庫)

仮面の告白 (新潮文庫)

 

 ■3冊目 「仮面の告白三島由紀夫

 三島は何冊か読んで、上に書いたトルストイと同じような感想を抱いていたのですが、徐々に認識を改めるようになりました。つまり、三島由紀夫も非常に理性的で論理的な文章を書いていて、そこにあまり面白みを感じられず、さらに修辞的な文章に辟易としていたのですが、ある時にこの作家の異常性に向かっていく熱量の凄まじさと理性的な文章から出来上がる小説のいびつさに気が付き、一気に引き込まれるようになりました。

この「仮面の告白」も、「金閣寺」と同じようにやはり美に向かい美に憧れる青年を描いていますが、同性愛的な屈折を経て、理性と欲望の不整合性とそれに対する絶望を描く真に迫る筆致が胸に刺さります。

 

マイノリティ・リポート―ディック作品集 (ハヤカワ文庫SF)

マイノリティ・リポート―ディック作品集 (ハヤカワ文庫SF)

 

 ■4冊目 「マイノリティ・リポートフィリップ・K・ディック

 ディックの短編をまともに読むのは初めてかもしれない。長編においてはプロットから逸脱した小説的混迷とも言うような「わけの分からなさ」が見え隠れするけれど、短編は意外と(?)きちんと起承転結がありSF的なオチもある。とはいえ、自分自身が立脚する世界が揺らぐようないわゆる「ディック感覚」は短編においても存在している。

 

ガラパゴスの箱舟

ガラパゴスの箱舟

 

 ■5冊目 「ガラパゴスの箱舟」カート・ヴォネガット

 まともな小説じゃないです(褒め言葉)。

ジョークのように語られるジョークみたいな物語。最高でした。

 

カオスの紡ぐ夢の中で (〈数理を愉しむ〉シリーズ) (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)

カオスの紡ぐ夢の中で (〈数理を愉しむ〉シリーズ) (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)

 

 ■6冊目 「カオスの紡ぐ夢の中で」金子邦彦

 複雑系科学者である金子邦彦の「複雑系とは何か」ということを解説していない本書は科学書なのかエッセイなのかそれとも壮大なジョークなのか、複雑系科学、古今東西の文学、物理学が混沌と煮込まれており、とにかく余人には理解しがたいけれどそれ自体が複雑系とは何かを物語っているのではないか、と思わせるものの、金子先生と弟子の円城塔のせいで複雑系に対する偏見が助長されているだけな気もする。

 

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

 

 ■7冊目 「騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編」村上春樹

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

 

 ■8冊目 「騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編」村上春樹

 正直に言って村上春樹の新作には失望しました。「1Q84」も「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」も「世界の終わりと、ハードボイルド・ワンダーランド」や「ねじまき鳥クロニクル」といった代表作ほどの目新しさはないものの、新たな試みが感じられたのに、この「騎士団長殺し」に何か新しい要素なんてあっただろうか? 異世界につながる井戸、妖精っぽい小人、たどたどしい喋り方の少女、具体性のない金持ち、すべて過去作で見たことのあるモチーフでしょう。アトリエとギャッツビー的豪邸を行き来するだけの物語にはダイナミズムもなく、オチは少女のかくれんぼ。なんじゃそりゃ。

 

月は無慈悲な夜の女王 (ハヤカワ文庫 SF 207)

月は無慈悲な夜の女王 (ハヤカワ文庫 SF 207)

 

 ■9冊目 「月は無慈悲な夜の女王ロバート・A・ハインライン

 古典SFには今読んでも面白いものとそうでないものがありますが、こちらは後者でしたね。

 

疫病と世界史 上 (中公文庫 マ 10-1)

疫病と世界史 上 (中公文庫 マ 10-1)

 

 ■10冊目 「疫病と世界史 上」ウィリアム・H・マクニール

疫病と世界史 下 (中公文庫 マ 10-2)

疫病と世界史 下 (中公文庫 マ 10-2)

 

 ■11冊目 「疫病と世界史 下」ウィリアム・H・マクニール

 かつてアメリカ大陸へ渡ったヨーロッパの入植者たちが先住民族たちを圧倒できたのは文明の力だけでなく、彼らがもたらした伝染病に拠る所が大きい。それは教科書にも載っている事実だが、しかしなぜ先住民族たちはヨーロッパの伝染病に対する免疫を持っていなかったのか。逆に、新大陸に存在する病原体に入植者たちが苦しめられなかったのはなぜか。歴史の上で見落とされていた疑問について、まるで数式を解くかのように丁寧に因果を追っていく。歴史には因果がある、という当然の事実に気付かせてくれたマクニールは、この本でも蒙を啓かせてくれた。

 

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

 

 ■12冊目 「ゲンロン0 観光客の哲学」東浩紀

 2017年に読んだ本の中で最も面白かったのは東浩紀の数年ぶりの小説以外の単著であり集大成とも言えるこの一冊。外部−内部、ナショナリズムグローバリズムの域外にある「観光客」という概念を論じた本書は、デビュー評論であるソルジェニーツィン試論から小説「クォンタム・ファミリーズ」に至るまでの東浩紀の著作全てが本書へとつながる補助線だったかのような一貫性を持っており、鮮やかな手際で伏線が回収されていく推理小説のような知的興奮に満ちている。既存の対立関係を俯瞰するような「観光客」という概念は、批評家として活動していた際の物事をメタ的に捉える視点が発揮されているなあと思う。何より専門的な用語が使われる『哲学書』でありながら門外漢の僕でも夢中になって読ませられてしまうようなリーダビリティが素晴らしく、抽象的概念を現実世界とリンクさせる文章は優れた小説の比喩表現のようでもある。

 

燃えつきた地図 (新潮文庫)

燃えつきた地図 (新潮文庫)

 

 ■13冊目 「燃えつきた地図」安部公房

 謎を解き明かす存在である探偵が気付けば自らも謎に囚われてしまう、というのは捻くれているが現代ミステリにはよくあるパターンだが、この小説においては謎は何一つ解き明かされず、不透明なゼラチン質にずぶずぶと飲み込まれていくような不安感に満ちている。知らない街の路地に迷い込んでしまったかのような疎外感・孤独感に包まれ、現代的な都市の排他性を描いている。

一昔前はこういう不安が街の中に潜んでいたと思うのだけれど、グーグルマップがそれを駆逐してしまったのでは、とふと思いました。

 

個人的な体験 (新潮文庫 お 9-10)

個人的な体験 (新潮文庫 お 9-10)

 

 ■14冊目 「個人的な体験」大江健三郎

 大江健三郎はデビュー直後の短編を数作しか読んでいなかったが、この作品は文学的な閉じられた世界から、作者の実体験と実存的テーマを結びつける格闘の始まりとも言える。いかにもなビルドゥングスロマン的な物語の結末に三島由紀夫は落胆したらしいが、せめて小説の中にある「(作者の)個人的な体験≠小説における個人的な体験」においては希望を置いておきたかったのではと思う。

 

高慢と偏見〔新装版〕 (河出文庫)

高慢と偏見〔新装版〕 (河出文庫)

 

 ■15冊目 「高慢と偏見ジェイン・オースティン

 世界十大小説を読むプロジェクト。馴染みのない英国貴族の恋愛描写が現代においても非常に面白いのは、普遍的な人間の機微を巧みに描き出しているからだろう。意地汚い身内に対して羞恥と蔑み。理知も無く空気も読めない男でも莫大な遺産相続人だからという理由で結婚する親友に対する容赦ない描写。ユーモラスでありそれでいて正確な人物描写が、物語の肝となる「なぜダーシーはエリザベスを愛することができないのか」に結びついていくのは、ただひたすらに脱帽。今のところ世界十大小説は「ボヴァリー夫人」を除いて全て面白いです。

 

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

 

 ■16冊目 「ノルウェイの森 上」村上春樹

ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

 

 ■17冊目 「ノルウェイの森 下」村上春樹

 何度目か分からない再読。「ノルウェイの森」は村上春樹の小説ではほとんど唯一のリアリズム小説であり、幻想的なモチーフや超常現象は起こらず、現実的な感情や死という現象を取り扱っている。しかしそれでいてこの小説世界は現実ではなく村上春樹の世界としか言い様がないのは、小道具やモチーフに頼らずともその世界観に接続できる力があるからであり、ある意味では「騎士団長殺し」の対極に位置していると言えるかもしれない。

 

大いなる眠り (1959年) (創元推理文庫)

大いなる眠り (1959年) (創元推理文庫)

 

 ■18冊目 「大いなる眠り」レイモンド・チャンドラー

 推理小説のエポックメイキングとして。事件としては何だか大したことないというか行き当たりばったりですが、ただただフィリップ・マーロウがカッコいいということに尽きます。

 

天使 (文春文庫)

天使 (文春文庫)

 

 ■19冊目 「天使」佐藤亜紀

 やはり佐藤亜紀は読者に優しくない。物語の時間は大した説明もなくあちこちに飛び回り、主人公の持つ「能力」も具体的には説明されない。それでもこの小説から目を話すことが出来ないのは小説に満ち満ちている愉悦に拠っている。とはいえちょっとしんどかったです。

 

白鯨 上 (岩波文庫)

白鯨 上 (岩波文庫)

 

 ■20冊目 「白鯨 上」ハーマン・メルヴィル

白鯨 中 (岩波文庫)

白鯨 中 (岩波文庫)

 

 ■21冊目 「白鯨 中」ハーマン・メルヴィル

白鯨 下 (岩波文庫)

白鯨 下 (岩波文庫)

 

 ■22冊目 「白鯨 下」ハーマン・メルヴィル

衒学的というよりはごった煮という言葉の方が似つかわしいような、作者の知識があちらこちらへ飛び回る節操の無さが魅力的であり、躁的とも言えるような饒舌な語り口による鯨トリビアとモビーディックに対するエイハブ船長の執念を描く主旋律的な物語はどう見ても噛み合わなっていないのに、その噛み合わなさが何故か面白い。

 

人生論 (新潮文庫)

人生論 (新潮文庫)

 

 ■23冊目 「人生論」トルストイ

 結局同じことを何度も繰り返しているだけなので、冒頭だけ読めば良いです。老人の妄言ですね。

 

ゲームの王国 上

ゲームの王国 上

 

 ■24冊目 「ゲームの王国 上」小川哲

ゲームの王国 下

ゲームの王国 下

 

 ■25冊目 「ゲームの王国 下」小川哲

 上巻までは文句なしに面白い。クメール・ルージュの虐殺の歴史とマジック・リアリズムを巧みに織り上げる手腕は素晴らしく、まだ若い作者に嫉妬さえ感じてしまう。ただ下巻からのSF要素が、前半にて丁寧に描写したカンボジアの歴史と微妙にギアが合っていないように思えてしまい非常に残念だった。SFガジェットの骨子となっている学術的な描写が資料の引き写しに見えてしまったのが原因だろうか。とはいえ次作が非常に楽しみであり、今後目が離せない作者であることは間違いない。

 

宇宙からの帰還

宇宙からの帰還

 

 ■26冊目 「宇宙からの帰還」立花隆

 宇宙飛行に関する説明も細かく、何度も危機的状況に陥りながらも無事に帰還することができたアポロ13号のエピソードは手に汗握るような臨場感に満ちているが、それよりも何よりも、宇宙から帰還した宇宙飛行士を個人として捉え、彼らの内面的変化にスポットを当てた点が素晴らしい。地球を外側から見つめたことにより神的存在を自覚し宣教活動に打ち込むもの、月面歩行第一号者になれなかったオルドリンの人生。宇宙飛行士と言えば身体的・知能的にも非常に優れたエリートたちであるが、宇宙飛行の体験が人生に大きな影響を与えている。

 本書が非常に面白かったので、これからはノンフィクションも読んでいこうと思った次第です。

マーケットの魔術師 大損失編 ──スーパートレーダーたちはいかにして危機を脱したか

マーケットの魔術師 大損失編 ──スーパートレーダーたちはいかにして危機を脱したか

 

 ■27冊目 「マーケットの魔術師 大損失編」アート・コリンズ

趣旨が趣旨だからしょうがないんですが、大損失編と銘打っていますが結局はスーパートレーダーの話なんで大して損失していないというか、ダメージが少ないんですよね。多分僕は人生がめちゃくちゃになったトレーダーの話が知りたかったんだと、読み終えてから気付きました(遅い)。

 

春の雪―豊饒の海・第一巻 (新潮文庫)

春の雪―豊饒の海・第一巻 (新潮文庫)

 

 ■28冊目 「春の雪 豊饒の海第一巻」三島由紀夫

 三島由紀夫の大長編小説であり遺作でもある豊饒の海を読む。第一巻は華族の男女の恋愛を描く。三島由紀夫の作品にしては美への執拗なまでの希求が薄い気がするものの、その分物語性が強固になっており、情熱とは遠い場所にいたはずの主人公清顕が禁じられた恋へと堕ちていく運命を必然へと象っていくさまは恐ろしささえ感じるほど見事。それでいて後の巻へと読み進めると分かる伏線が散りばめられており、物語のダイナミズムも素晴らしい。何よりも、日本的なものを日本的な視線と描写で捉えているのに、もはや世界文学の域まで達していることに慄然とする。

 

旧約聖書入門―光と愛を求めて (光文社文庫)

旧約聖書入門―光と愛を求めて (光文社文庫)

 

 ■29冊目 「旧約聖書入門ー光と愛を求めて」三浦綾子 

新約聖書入門―心の糧を求める人へ (光文社文庫)

新約聖書入門―心の糧を求める人へ (光文社文庫)

 

 ■30冊目 「新約聖書入門ー心の糧を求める人へ」三浦綾子

キリスト教の基礎教養を得たくて読みました。キリスト教というよりはキリスト教信者の考え方、スタンスを学ぶことができたのは良かったです。ただ、教派も多いし、そのスタンスも違っているのでこの本から学んだことが全てではないはずなので、結論としては原典(聖書)を読まないと駄目ですね。

 

奔馬―豊饒の海・第二巻 (新潮文庫)

奔馬―豊饒の海・第二巻 (新潮文庫)

 

 ■31冊目 「奔馬 豊饒の海第二巻」三島由紀夫

 豊饒の海の第二巻。第一巻のおよそ20年後が描かれる。第一巻の登場人物が年相応に世間擦れしてしまっているのに対し、清顕の生まれ変わりである勲の清冽さが眩しい。味方だったはずの周囲の皆に裏切られてもその眩しさは変わらない。誰もが最善を尽くしたはずなのに勲が望む正義が果たされない必然へと追い詰められていくさまは、まるでブレイキング・バッドのようだと気付かされる。日本の近代文学でこんな感想を抱くなんて予想していなかった。

全く退屈することなく、この長編を読み通すことができそうで、来年も楽しみです。

 

 

小説家になる方法

いきなりですが小説家になる方法をレクチャーします。

日頃「小説家になりたい」と思いながらも結局小説家になれず嫌々サラリーマンをやっている僕がそんなことをレクチャーしても何の説得力もないどころかむしろ滑稽でさえあるかもしれませんが、自分で言語化することによりなぜ自分が小説家になれないのか可視化できるのではないかと思います。ということで小説家になる方法を書きます

今回ここで言う『小説家』とはいわゆる同人出版やネット公開ではなく、出版社が出版し著者が原稿料・印税を得る商業出版で生計を立てる職業的小説家のことを指します*1

 

まず、最初に明言しておきますが、小説家になるのは難しくはありません。

 

なぜ小説家になるのは難しくないのか。その理由は小説家になる方法を解説していくことで明らかにしていきたいと思います。

大雑把に言って、小説家になる上での大きな障壁は2つあります。

 

1:技術的な障壁(=小説を書けるかという問題)

2:商業的な障壁(=出版社と契約を結ぶことができるかという問題)

 

1:小説を書くための技術的な障壁について

技術的な障壁について、これは小説を書く能力のことです。小説を読んだことがあっても書いたことは無い人がほとんどだと思います。とりあえず試しに書いてみましょう。ストーリーとかキャラクターとかは後回しにしてとりあえず書いてみてください。

もしいきなり中〜長編小説を書けたのならあなたは天才です。世の中には人生で最初に書いた小説でデビュー出来てしまう、あまつさえそれがこれまでの文壇を揺るがすような、そんな天才がいますが*2、ほとんどの人は原稿用紙数枚、あるいは数行程度書いたところで挫折するでしょう。

だからといって才能がないから小説家になれないというわけでは全くありません。というか、小説家になるのに才能なんていりません。なぜでしょうか?

 

それは、面白い小説なんて書けなくったって、小説家になれるからです。

 

 本屋さんに行ってみてください。面白い小説なんてほとんど売っていません。どこかで見たようなストーリーが平凡な文体で書かれた小説ばかりが並んでいます。ということは面白くない小説しか書けない人間でも小説家になれているということです*3

面白くない小説しか書けない人間でも小説家になれているということは、すなわち面白くない小説でも読む人間がいて商品として成り立っていることを示しています*4

たとえ手垢の付いたストーリーでも、人によっては新鮮に映り楽しむことができるでしょう。昔「世界の中心で愛を叫ぶ」が流行ったとき難病で死ぬヒロインの物語が大量に出回りましたが(現在も生産は続いていますが)、「世界の中心で愛を叫ぶ」を読んでいない人間にとっては、それが模倣だとも気付かず、感動的な物語だと感じることができます。

 新鮮な物語を書く必要なんてありません。

面白い小説なんて書かなくていいんです。

そしてまた、上手な文章を書く必要もありません。最低限読むのが苦痛でなければ、日本語として多少間違っていても良いくらいです。間違っていたら校閲さんが指摘してくれます。間違ったまま出版されている本もたくさんあります。

 

小説家になるために必要な小説のスキルは以下の通りです。

・少なくとも最後まで読ませる程度の求心力があるストーリー

・読むのが苦痛でない文章を書ける文章力

・原稿用紙三百枚程度の物語を書くことができる持続力

 ストーリーを書く上でのルールやノウハウについては、それについて書かれた本やサイトがたくさんあるので、それらを読めば身につきます。

文章力については、読み書きを繰り返していれば次第に向上していくでしょう。最も身につけるのが困難なのは長編を書き上げるための持続力で、これはもういわゆる根気なのでがんばってくださいとしか言えません。出来ない人は出来ないかもしれません。芥川龍之介も長編小説が書けませんでした。その場合は連作短編でも書いてください。

2:小説家としてデビューするための商業的な障壁について

 出版社から出版することで職業的小説家になることができます。漫画家には同人出版だけで生計を立てている人もいますが、同人出版で生きている小説家は多分いないと思います。職業的小説家としてデビューするためにはいくつか方法があります。

 

1:出版社・編集者とのコネを得る

2:スカウトされる

3:新人賞に応募する

 

 1については、例えばミュージシャンや俳優が出版社から打診されて小説を書くとか、個人的に編集者と知り合うとか、もともと出版・マスコミ業界に勤めていた人間が小説家に転身するとか、そういったことを包括してコネと呼んでいます。まあ、普通の人にはまず無理です。現実的な方法としては文壇バーに通いつめるとか、小説を書くためのカルチャースクールや文芸創作ゼミに参加して講師とつながりを得るとか、いまいち確実性に欠けるためあまりおすすめできません。

 

2について、ネットや同人即売会などで小説を発表し、出版業界の人間の目に止まるのを待つという方法です。 一昔前は稀なケースでしたが、最近は「小説家になろう」のようなポータルサイトが現れ、人気作品の著者が出版社からスカウトされてデビューするケースが増えています*5。とはいえネットは小説を読むのに適した媒体とは言い難く、またネットで話題を得るには運の要素も大きく影響します。

 

3がもっとも一般的であり現実的な方法になるでしょう。いわゆる投稿です。地方自治体が主催している新人賞は賞金のみで出版されないケースがありますが、出版社主催の長編小説を対象とした新人賞であれば、受賞=出版が確約されていることが多いです。また、賞にはそぐわないが筆力はあるとして落選した場合でもデビューするケースも少なくありません*6

 

 現在新人を対象とした文学賞は大小合わせて400程度存在すると言われています。その中で出版社主催で受賞すれば出版される賞は、正確ではありませんが100程度はあるのではないでしょうか。各新人賞にはジャンル・作風があり、純文学、エンタメ全般、ミステリ・SFといったように対象される作品が大きく異なります。どの新人賞に応募するかは書き上げた作品によって振り分けれなければいけません。ミステリの賞にSFを送っても落選しますし、純文学の傑作をライトノベルの賞に送っても選ばれないでしょう。また同じジャンルでも様々な出版社が賞を設けており、ミステリで言えば江戸川乱歩賞メフィスト賞アガサ・クリスティー賞などといった新人賞があります。

 

この中でどの賞に応募すればよいか?

 

それは間違いなく受賞しやすい賞に応募するべきです。一般的に新人賞にはいわゆる格というものがあり、乱暴に言ってしまえばスゴい賞とショボい賞があります。

では、何がスゴい賞で、何がショボい賞か。それは出版社の会社としての規模(=初版部数や受賞作に掛ける宣伝費)や、賞としての歴史、審査員の格によって左右されますが、およそ歴代の受賞者を見れば一目瞭然です。

有名作家が数多くデビューしている賞は格が高い賞だと思って間違いありません。ノンジャンルのエンタメで言えば小説すばる新人賞オール讀物新人賞が有名であり、直木賞作家を数多く輩出しています。こういった賞は応募作も多く、受賞作に求められる基準も高いです。応募作のレベルが全体的に低ければ受賞作なしとする場合も少なくありません。

また、純文学系の新人賞には芥川賞候補に選ばれ易い新人賞というのが存在し、それらは新人賞を受賞したあとのステップを見据えた野心的なアマチュア小説家が狙っているため総じてレベルが高くなります。

有名作家が数多くデビューしている賞というのは、受賞作の初版部数が多かったり、出版社がお金を掛けて宣伝してくれたり、他の出版社から声が掛かりやすい賞であるという側面があり、デビューした後のキャリアが整備されている場合が多いです。

ただ、今回レクチャーするのはあくまでも小説家になる方法なので、なった後のことなんて知ったこっちゃありません*7

 新設の賞でも構わないのでとにかく応募しましょう。落選しても翌年応募できないといったペナルティはありません。あまりに酷い作品ばかり送ってくる人間はブラックリストに載るという噂ですが、その場合は応募する出版社を変えれば良い話です。

 

格の高い有名新人賞は言わずもがなですが、新設の文学賞でも最近は数百作もの応募数があるそうです。受賞作が複数ある場合でも100倍以上の倍率を突破する必要があります。ですが、怯むことは全くありません。なぜなら応募作の8〜9割は小説と呼べないような酷いシロモノであるからです。最低限小説でありさえすれば第一関門はくぐり抜けたと言って過言ではありません。そうすると実質的な倍率は10〜20倍程度であり、コンスタントに作品を書き続けて応募し続けていれば、受賞することはさほど難しいことではありません。

 

まとめ:小説家になるのは難しくない、が......。

これまで述べてきたように、技術的にも商業的にも、小説家になることは難しくありません。毎年何百人もの人間が小説家としてデビューしていると言われています。小説家になることは狭き門ではありません。本気でなりたいと思い、そのための傾向と対策を練って作品を書き続ければ必ずなることができると言って良いでしょう。

ですが、十年後に小説家であり続ける人間は1割以下です。ほとんどの人間は書けなくなるか、売れなくなります。さらに小説が売れない時代なのでプロになっても小説家だけでは食べていけない場合がほとんどです。わずかな人気作家のみが専業作家として生きていくことができます。

 

そもそも、なぜ小説家になりたいのでしょうか?

嫌な上司や顧客の顔色を伺う必要がなく、毎朝満員電車に乗らなくてもいいから?

だとすればそれは間違いで、小説家も編集者や読者に振り回され、締切に追われ、売れなくなり書けなくなる恐怖と戦わなければいけません。定収入が無く雇用保障なんてものも一切ありません。

人気作家になって読者から好かれたいから?

人気作家になるには才能と運が必要です。面白い小説を書いたからといって売れるわけではないし、読者はいつまでもファンでいてくれるわけではありません。

小説を書くのが楽しいから、好きだから、という理由で小説家になりたい人が結局一番向いているのではないでしょうか。

面白い小説を書きたいという気持ちは小説家になりたいという欲求とは根本的に無関係です。面白い小説を書けるのなら小説家になんてならなくてもいいじゃないですか。ただし、僕は、そういう気持ちを言い訳にして小説家になれないことを正当化しているきらいがありますが。

 

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*1:僕としては小説を書いたならその時点で小説家だと思うのですが、そういう議論は面倒なのでしません。

*2:例えば村上春樹村上龍などはある日突然思い立って小説を書き、それが「風の歌を聴け」であり「限りなく透明に近いブルー」だったりするのだから、凡人が小説を書く意味なんて多分ないのかもしれません。

*3:かつては傑作を書いた作家が衰えて凡作しか書けなくなる、というパターンもありますが、大体はつまらない小説を書く作家の作品は昔から大したことありません。

*4:ただし多くの純文学作品は作品の質に依らず商品として成り立っていません。今回は芸術としての文芸ではなく、商業的な大衆小説を対象としています。

*5:代表的な例としては「君の膵臓をたべたい」の住野よる。「君の膵臓をたべたい」は新人賞に落選したものをネットに公開して人気を得るという「逆転現象」が起きている。

*6:代表的な例としては「とある魔術の禁書目録」の鎌池和馬ライトノベル系の新人賞(特に電撃大賞)はこのケースが多い。

*7:確かに新人賞には格がありますが、どんな経緯でデビューしたにせよ面白い小説を書き続けていれば小説家としてのキャリアは開けます。例えば山本周五郎賞を受賞しミステリ系のランキング上位の常連である米澤穂信ライトノベル系の角川学園小説大賞を受賞し、受賞した五年後に賞が廃止されレーベルが無くなるという目に遭ったものの、ミステリ作家としての力を評価されてミステリ系一般文芸レーベルから出版する機会を得ました

メキシコ旅行記 あとがきに代えて、旅の終わりに。

 知らない街で暮らすというのは子ども時代に戻ることに似ているような気がする。

 何も知らなかった頃を追体験すること、それが旅行の意義なのかもしれない。考えてみれば、言語がわからない場所に放り込まれる、というのも幼児体験に近いものではないだろうか。原体験を取り戻すということ。僕にとってのメキシコ滞在を言い換えるならばそういうことになる。

 最初メキシコに着いた時はかなり鬱々としていたが、慣れてしまってからはむしろ日本にいる時よりも快適に過ごすことができた。時差ぼけの体が慣れていくのと同じペースで僕の精神もメキシコという国に馴染んだ。

 メキシコは多様な側面を持つ国である。先進国なのかどうかということもそうだし、街ごとの特色も全く異なっている。スペイン植民地時代が色濃い地域ではヨーロッパ風の町並みを残しているし、メキシコシティの都市部はアメリカとメキシコの様式が混合しアメリカ郊外の田舎町の雰囲気がどこか漂っている。ブロック塀を積み上げて土壁のように塗り固め、一面を単色で塗装した建物が印象的だ。その塗装が剥げかかってどことなく街全体が廃墟のような雰囲気を持っているのにも関わらず、活気のある人々の生活とのコントラストを生み出し違和感が満ちるのだと思う。とにかく不思議な国だ。
 
 僕はこれまで言葉の持つ力を信じていた。おそらくは過信と言っていいほどに。だが言葉が通じない世界に放り込まれて、どうしようもない孤独と無力感に襲われた。プエブラの街からバスに乗って知らない場所に連れて来られたとき、僕はまるで素っ裸でその場所に立っているように感じた。どこを歩いてもどこへも行けない気がした。

 だが、必死になって身振り手振りで知らないおじさんから道を聞き出し、自分がどこに行けば良いのかわかったとき、僕はこれまで信じてきた「ことば」というものを勘違いしていたのだと思い知った。人と人との意思が繋がる時にことばは生まれるのだ。

 僕はおそらく、言葉が存在することによって他人という存在が現れるのだと思っていた。今まで言葉で何もかも出来るという万能性を信じていた僕にとって、この経験はとてもクリティカルだった。

 

 日本の空港に降り立つと、そこは意味の分かる言語で満ちた世界だった。

「ここはうるさすぎる」

 僕はなによりもまずそう思った。

「帰りたい」誰ともなくそう呟いた。

 でも、どこに?

 メキシコは僕の帰る場所ではない。だがこの場所はうるさすぎる。

 遠くへ行きたい、という牧野君の言葉を思い出す。

 そう、僕は遠くの場所に帰りたいのだ。

 それはとても矛盾しているけれど、でも確かにそうなのだ。

 全てに疎外されて、どこにも馴染めないような気分になっていた学生時代の頃を思い出す。僕は凪いだ場所を求めていた。どこもかしこもうるさすぎた。自分の部屋の中でさえも苛むような声が止まなかった。

「帰りたい」

 最近の僕は自宅でもそのように呟く。もしかしたら僕のあたまは取り返しのつかないくらいおかしくなっているのかもしれない。僕の帰る場所なんてどこにもないのだろう。帰りたい帰りたい。僕はそう呟きながら毎朝家を出る。

 きっとどこか遠くにある、地球の裏側よりもずっと遠い、とても静かな場所を目指して僕は今日も旅に出る。

 

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メキシコ旅行記 二十六日目「マジックリアリズム化する大学都市」

 木曜日。そして最終日である。

 朝食はホテルのビッフェ。いろいろなものを少しずつ食べる。シリアルとフレンチトーストが美味しい。食べ過ぎないように気をつけていたが、値段を見ると千円くらいしたのでもう少し食べておけば良かったと後悔。英語が通じるので危なげなくチェックアウトを済ます。

 迎えに来たエルネストたちの車に乗り込み、メキシコ国立自治大学を見学しに行った。

 メキシコ国立自治大学というのは、およそ日本の大学とは全く異なっている。まず、規模が違う。メキシコ国立自治大学のメインキャンパスはシウダ・ウニベルシタリアと呼ばれそのまま大学都市を意味する。そしてその名の通り、一個の街そのものなのである。

 大学の中にはなんでもある。本当になんでもだ。博物館、映画館、劇場、スポーツスタジアム(そこでオリンピックもワールドカップも開催された)。ウォータースライダー付きの巨大なリゾートプールさえもある。

 中央図書館や学部の本部棟の壁には現代芸術家による一面にモザイクタイル壁画が描かれており、そのスケールは日本のどの芸術作品よりも巨大である。メキシコ国立自治大学はアメリカ大陸で二番目に古い歴史を持ち、キャンパスそのものが世界遺産に登録されている。 

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中央図書館の壮大で緻密な壁画。壁画としては世界最大であるという。

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別の角度から。

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メキシコの代表的な壁画家シケイロスによる壁画。

 日本の筑波にも学園都市というものがあるけれど、あちらは大学のための都市、というイメージが近いと思う。筑波の街は研究に携わる人間のために都市が特化している。だが、このシウダ・ウニベルシタリアは大学が巨大化していった結果、街になってしまったのだ。まさに南米文学のマジックリアリズムの世界である。

 

  僕らはエルネストに案内され、圧倒されながらキャンパスを歩いた。気持ちの良い晴天で、綺麗に整備された芝生の上の歩くのは気分が良かった。青々とした芝生はどこまでも続いていて、大学生たちが自由に横になったりしていた。

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どこまでも続く芝生、というのが比喩表現でないくらいの広大な芝生。

 可愛い女の子がたまたま僕らの前を通りかかった。

「あれがメキシカンガールだ」とエルネストが顔をニヤつかせ、声を潜めて言った。

「メキシコの女の子はどうだ?」

 エルネストは前と同じ質問を僕にした。

「おっぱいがでかいね」

 僕はとても正直に答えた。

 嘘では無かった。たとえそれが肥満によるものだとしても。エルネストは爆笑した。下ネタというのは世界共通で受けるらしい。

 スタジアムをぐるりと回り、エルネストたちの研究室へ行った。研究室は日本の大学と同じような雰囲気で、雑多な機材で溢れていた。そのまま歩いて会議室へ向かう。

 キャンパスの雰囲気はハリウッド映画で見るアメリカの大学風景に似ている。いたるところに売店がある。チョルーラの街の住人よりは、学生もいくらかオシャレである。

 大学の施設に入るのに厳重なセキュリティがあることに驚いた。このキャンパスの中は、メキシコシティの治安に比べれば格段に良い。ここにいる人間たちがメキシコの最上位のインテリ層であり、この場所の治安はメキシコ警察ではなく大学の組織が運営している。だからこその自治大学である。

 三週間振りにホセ教授に会った。ケツを晒した以来である。「忙しくて会いに行けず申し訳ない」と何度も言っていた。当然ながら僕のケツについては一切触れなかった。

 大理石のテーブルが鎮座する荘厳な雰囲気の会議室で、ミーティングを行った。二、三時間くらい掛けて今回のメキシコでの研究成果を発表した。とても疲れたが、やりきった満足感があった。

 昼食はホセ教授が手配した車に乗り、大学の外にあるステーキハウスへ行った。前菜にひき肉がはいった揚げパンを食べる。前菜にしてはボリューミーだが、メキシコでは何も不自然なことではない。美味しい。鉄板に大量で色々な種類の肉が焼かれているものをみんなで取って食べる。日本では食べられないような量の肉である。

 鉄板の上には、肉と共に野菜も焼かれており、その中に巨大なインゲン豆のようなものがあった。何も考えずにそれを齧ったところ、口の中に突き刺すような痛みを感じた。痛みの後に、猛烈な熱さが僕の口内を襲った。それはインゲン豆ではなく、ハラペーニョだった。ハラペーニョを丸かじりしたときの辛さは、おそらくハラペーニョを丸かじりした人間にしかわからないだろう。

 悶絶する僕を見て、メキシコ人たちは皆笑った。僕としては全く持って笑っている場合ではなかった。

「これで君も友達に自慢できるぞ」などとホセが言う。ふざけるな、と僕は思う。

「塩を舐めると良いぞ」とエルネストが笑いながら塩の瓶を僕に手渡した。確かに塩を舐めると多少辛さは軽減された。

 結局大量の肉はみんなでは食べきれず、「飼い犬に食べさせよう」とホセが家に持って帰った。

 研究室に置いておいた荷物を取りに戻り、みんなに別れを言った。少し泣きそうになったが、別に向こうはそんなに感慨深げではなかった。また会うだろう、と思っているのかもしれない。これまでに会った全員のメンバーに別れを済ませ、手配された車に乗り込んだ。
 
 翌日、メキシコから日本までおよそ二十四時間掛けて帰った。

 成田空港に着いて、まず最初にわかめうどんを食べた。

 その味は今までの人生で食べたうどんの中で、最も感動的なものでした。

メキシコ旅行記 二十五日目「メキシコシティへ帰る」

 水曜日。徐々に日本時間に慣らすため夜更かししていて朝起きるのが少し辛い。

 トランクにいろいろと荷物を積み込んで、いつものカフェにてメキシコ自治大学のスタッフと待ち合わせる。このカフェで食べるのもこれで最後である。

 チュレータという豚肉にチリソースをかけたものを食べたのだが大変辛い。この国で食べたものの中で二番目に辛い。最後に痛い一撃を食らわされた気分になる。一緒に頼んでいたメキシカーナの卵が救いだった。

 朝食後に屋台でタマレスというメキシコのポピュラーなおやつを食べる。トウモロコシ粉を固めてトウモロコシの葉に包み蒸したもので、ほどよい甘さで美味しい。日本のういろうや蒸しパンのような味わいである。

 ホテルのチェックアウトを無事に済ませて研究所へ。データをコピーして部屋を片付ける。一時頃に研究所を後にし、エルネストの運転でメキシコシティへ戻る。

 ハイウェイの眺めは非常に良く、遠くの巨大な山々や広大な景色に圧倒された。

 車中、外の景色を眺めながら、僕はここへ来たときのことを思い出していた。来た時に車から眺めた外の景色はただただ恐ろしく、荒れていて、酷い場所だと思った。こんなところから早く帰りたいと思っていた。だがその荒々しい自然の美しさや、街の風景を愛おしくさえ思える。

 メキシコという国は、着いてすぐに好きになるような国では無いのかもれない。その土地に暮らしてみて、人々と触れ合い、料理を食べることによって、段々とその良さが理解できて好きになる。僕の中で、日本に帰りたいと言う気持ちと、まだまだこの国を見てみたいという気持ちが、不思議と両立していた。

 ハイウェイの途中の土産物屋でスウィートポテトを購入した。ひとつ30ペソ。そのままハイウェイを走り、途中のレストランで昼食を取る。鶏肉にパン粉をつけて焼いたものと、焼いたトルティーヤにチーズとキノコを挟んだものを食べる。エルネストが食べていた骨の髄のスープを少しもらった。ゼリーのようで悪くない味。

 レストランからの眺めが素晴らしく、遠くまでトウモロコシ畑が広がっており北海道を思い出した。そこから二時間ほどで今夜泊まるホテルへ。

 

 メキシコシティを落ち着いて眺めるのは初めてだった。メキシコシティの道路はかなり渋滞していた。確かに名古屋よりも都会なのだけれど、土地に余裕があって道が広いので東京の町並みとも異なっている。

 ホテルの途中でメキシコ国立自治大の傍を通った。大学の敷地内にある巨大なスタジアムや壁画が車窓から見えて、心が躍った。メトロバスと呼ばれる決められたレーンを走る二両連結のバスが見えた。車両の間は電車のように蛇腹で連結されていて快適そうである。

 ホテルは高層ビルの綺麗な建物で一泊6000円程度である。キングサイズのベッドがふたつの部屋である。アメニティもしっかりしている。ホテルの中にスポーツジムがあるというのでのぞいてみたが、二、三のウェイト器具とランニングマシーンがあるだけだったので期待外れであった。

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ホテルの窓から見える景色。メキシコシティの中心からは外れた郊外だが、それでもチョルーラよりは遥かに栄えている。

 夕食は通りを挟んだ向いのショッピングモールのフードコートでハンバーガーを食べる。安いがかなりボリュームがあり肉もしっかりしている。ホテルの前の通りはかなり大きく、片道6車線もある。それを横断するには横断歩道を渡らねばならない。横断歩道の両出口には警官が立っており、腰にリボルバーを威圧的にぶら下げている。なぜ両出口に警官が立っているのかというと、横断歩道で強盗に挟み撃ちにされて逃げ場所がなくなるということを防ぐために、両側からガードしているという訳である。チョルーラの街ではこのような露骨な警備というのは見たことが無かったので、メキシコシティの洗礼に軽く鳥肌が立つ思いがした。この街では歩道橋を渡ることさえ命がけなのだ。

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両出口に警官が立っている歩道橋。

 ショッピングモールは、チョルーラにあったしょぼくれたものではなく、現代的でブティックやらなんやらが並んでいるので日本のイオンとほとんど変わらなかった。なぜだかがっかりしてしまった自分が居た。特に何を買う訳でもなく、食事を終えてホテルに戻り、風呂に入る。

 ベッドはチョルーラのホテルよりもふかふかで寝心地が良さそうだが、日本の時差に合わせるために夜更かししなければならない。またあの悪夢のような時差ボケには悩まされたくない。

メキシコ旅行記 二十四日目「トウモロコシ畑の海と教会の旗」

 火曜日。寝る前にテキーラを飲んだせいか午前五時に目を覚ました。二度寝も出来ずドストエフスキー「白痴」の下巻を読み進める。

 朝食にいつものカフェに行くと開店準備がまだできておらずいつもの席に座れなかった。今週に入って徐々に開店準備が遅れている気がする。頼んだことの無いメニューに挑戦してみたら、我々が「餡子」と読んでいる豆の漉したものが大量にかけられたトルティーヤが出てきた。この「餡子」は塩茹でしたあずきのような豆をペースト上にしたような味で、素朴で悪くは無いが大量に食べたいような代物では無い。気持ちが萎えて、不調気味の食欲もますます出なくなる。

 ローテンションでバスに乗ると、いつもと同じ行き先のバスに乗ったはずなのに、乗客がいつもは見かけない女子高生ばかりだった。我々の行く先に高校なんてあっただろうか、と首を傾げているといつも直進する道で曲がり青々としたトウモロコシ畑を横切る道路を突っ走り始めた。

 慌ててバスを降りると、そこはトウモロコシ畑の真ん中の教会であった。祭りでも無いのに教会の尖塔の先には旗がぶら下げられている。

 僕たちはトウモロコシ畑の真ん中を歩いて、研究所に向かった。

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トウモロコシ畑の真ん中に建つ名の知らぬ教会

 三十分くらい歩いてようやく研究所にたどり着いて仕事を開始する。大量のコネクタを差し替える作業をして腱鞘炎になりかける。力を込めないとコネクタが差せないので指先も痛くなる。全てのコネクタを差し替え終えると午後一時になっていた。非常に疲れた。

 昼食は食堂にてツナサラダをアボガドにつめたものを食べる。食欲は湧かず。軽く食べられそうなメロンとバニラアイスを食べる。

 四時には仕事を終えると管理人に「今日も早いじゃないか」とからかわれる。もしかしたら日本人の残業文化がメキシコにも知れ渡っているのかもしれない。帰る際にエルネストが研究所内に歩いている犬を見て

「ドッグは日本語でなんて言うんだ?」と僕に尋ねた。

「イヌだよ」と僕は教えた。

 そうするとエルネストはアレハンドロの肩を叩きながら「イヌ! イヌ!」と呼び始めた。メキシカンジョークは意味がよくわからない。アレハンドロはエルネストよりも二回りくらい年上のはずだが、どういうわけかこの二人はかなりフレンドリーな関係のようだ。

 ホテルに戻り、すぐに風呂に入って洗濯をする。明日の朝にはホテルをチェックアウトするのでいつもよりも強く水を絞る。

 一通りやることを終えて夕食までネットサーフィンをしていたのだが、雨が強く降り出して雷が近くに落ちた際に、急にネットが使えなくなってしまった。

 以前にも天気が悪くなった際にネットが不通になってしまったことがあるが、やはり雷のせいなのかもしれない。しばらくするとネット回線は復活した。

 夕食はメキシコスタッフたちと広場沿いのレストランへ。ポブラーノソースの掛けられたチキンとテキーラを飲む。

「これはプエブラのトラディショナルな酒だ」と卵酒のような甘い酒を飲む。美味しい。テキーラも美味い。スーパーで買った安物とは大違いである。しかもおごってもらってしまった。食後は広場の出店をひやかす。先ほど飲んだ卵酒が売っていたので色々な種類を試飲する。美味しかったが既にテキーラを買ってしまっているので買わないでおいた。

 いくつかの出店では日本の商品も売っていて、招き猫や剣玉や日本刀のレプリカが売っていた。なぜかドーモくんのTシャツやぬいぐるみが散見されたが、もしかしてメキシコでは人気キャラなのかもしれない。

 明日はこの街を引き払ってメキシコシティに一泊し、ようやく日本に帰ることになる。

 おそらく、僕はこのチョルーラの街には二度と来ないだろうと思うと、街の景色が惜しく思えた。広場や教会の群れや滞在したホテルを目に焼き付けるようにして歩いた。